突入③
「ハギワラ……」聞き覚えがあると思ったのは一瞬だった。もちろんここで言う「一瞬」とは、「一瞬で聞き『覚え』が単なる気のせいだと気づいた」という意味ではなく、「一瞬で聞き『覚え』が具体的な人物像に結び付いた」ということである。
「……おい、もしかして、ハギワラって、あのハギワラヨウコか?」
「アノ、というのは?」オオタニがわずかに首をかしげる。要するに「あなたはいったい、何を言っているのでしょう?」との感を身体で表現してくれたわけだが、可憐な少女ならいざ知らず、相手が実際には180センチ100キロ越えの巨漢の持ち主とあっては、残念ながら、その仕草はこちらに対し、瞼の辺りに小刻みな痙攣を呼び起こさせる効果しか持ち得ない。偏見を持つつもりは毛頭ないが、私も生物界の一員として(つまり生存戦略の一環として)、どうしても外見から得られる情報をもとに、無意識下で差別化を施してしまうことから逃れられはしないのだ。
それでも私は可能な限り丁寧に返答を行うべく自らを律し、発言にこぎつけた。
「惚けるなよ、あの、巧妙に宅配業者を装ってここに侵入してきたサトウの片思いの相手で、どこかの高校の教師で、一家が悪霊に憑りつかれてて、そのせいで精神を病んじゃって、それで夜な夜な学校のプールでクラシックの名曲を大音量で熱唱してるっていう、あの、あいつだろ?」
常に誠実さを重んじるこのような姿勢に、私の「名探偵」たる所以が如実に現れていると言ってよいだろう。まさしく「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように」(カント)、いついかなる時も心掛けているわけだが、オオタニはそのことのありがたみを全く理解した様子もなく、というか「助手」としての自分の役割さえ全く忘れたかのように、いつもよりさらに尊大な態度でぞんざいな言葉を連ねてくれた。
「は? 誰そいつ……ああでもそうか、えっと、なるほどね、そういう話になってたのか……、じゃあまあそれでいいよ、とにかく依頼人すよ、キクチさん、最近サボってばっかで、頼んだはずの捜査が全然進展してる様子がないから、今度は代理人経由じゃなくて、改めて本人が、直接説明しにきたみたいすよ、だからそんなとこで一緒になって仲良くくつろいでないで、気引き締めて、一からちゃんと話、聞いてあげたらどうすか?」
毎日毎日汗水たらして「平和維持」のために奔走している私を、そしてこのところのますます超人的な働きぶりから「労働基準法違反」との判決を下されて然るべきレベルにまで多忙を極めつつある私を、あろうことか「サボっている」だなどと評する不届き者の勧めにはもちろん従う気になどなれなかったが、反面、他に何か案があるわけではなかったので、ひとまずあくまで自分の意志でMに確認を取ろうと考えた。
「おい、お前、本当にハギワラヨウコなのか?」
その問いかけに対し、Mは一瞬口元を綻ばせ、意味深な笑みを浮かべた。それが「肯定」と「否定」のどちらの意を表すものなのか、もしくはもっと全く異なる何らかの感情に由来するものなのかは定かでなかった。だがその笑みの背後に何があるかなど、結局のところ全くどうでもいいことだった。なぜならそれ持つ「意味」についてこちらが詳細を掴むよりも前に、考えられ得る限りの全ての「意味」の可能性、いやむしろ「考えること」それ自体を亡きものにしてやろうと言わんばかりの勢いで、Mがいきなり、叫び始めたからだ。
「おかあさぁん、ただいまぁ! ねえ、帰ったわよぉ! ただいまぁ! おかあさあん、どこぉ!?」
「……なにを……?」




