突入①
玄関から入って廊下を少し進み、突き当たりを右に曲がった。白い壁紙にシミがついているように見えて、目を近づけてよく見てみると、小さく穴が空いて破れているのだとわかった。先導するMの背中は屋内だとやけに小さく見えて、今なら後ろから襲い掛かって息の根を止めてやることさえ容易だと思われた。ちなみに玄関で靴を脱いだタイミングで、「手繋ぎ」によって形成されていた紐帯は必然的に断ち切られている。だが実際にはやはり従順にただひたすら後を追うことしかできない。足を下ろすたびに廊下の軋む音がやけに大きく聞こえて、この点に関しては「事務所」と同じなのだなと、私は漠然とそう考えていた。
再度突き当たりが現れたところでMはいったん立ち止まった。すぐ前で「突き当たり」と表現したばかりだが、よく見るとそれは実際には閉ざされた扉であるようだった。
「この先よ」
Mはそう言って扉を一気に押し開けた。私は幼稚園児みたいに気取ったセリフと物々しい動作を前にして、相変わらずあらゆる挙動が芝居じみてんなあぁと思い、唇の端を曲げて無言で嘲笑しかけた。しかし「~しかけた」というのは言うまでもなく、「その動作を完了できなかった」ということであり、実際の私は、このところすっかり習い性になった感のある疑問の言葉を、またしても吐き散らかさずにはいられなくなった。
「……どういうことだ?」
入ってすぐ左手に台所のスペースがある。大容量の冷凍室を備えたこだわりの冷蔵庫がある。流し台の下の扉には、種々の刃物を収納するスタンドがある。台所の方へ向かわずに真っ直ぐ進むと、すぐにソファ、テーブル、パイプ椅子、それに不必要に大きなテレビの画面が現れる。……だと? 本当にどういうことだというんだ?
私は入り口のところで立ち尽くしたまま室内を見渡し、もう一度、今度は声に出さずに、だが先ほどとは比べ物にならないボリュームで疑問を呈した。なぜなら本来「アジト」の一室であるはずのその場所は、普段私が「事務所」で「応接室」として利用している「リヴィング」と、何から何まで、完全に一致していたからだ。
反面、恐らくMにとって、全ては想定通りに進行していたのだろう。
その証拠に奴は一足先にソファに深々と沈み込むと、不自然なほど気軽な感じで、つまり今この室内に現れた光景には、全く以てほんの一ミリたりともおかしなところなど含まれていないという感じで、言ったのだった。
「どうしたの? そんなとこでぼうっと突っ立ってないで、こっち来て座ったら?」
「……ああ」
私はせめて可能な限り平静を装うことだけは続けようと考え、Mの要請に表面上大人しく従う形をとった。Mは声を発しながらソファの座面を掌で撫でるようにしていて、要するにそこ(隣)に座れということかと察した私は、ゆっくり、それでいて迷いなく、「そこ」に近づいて行ったわけである。だがもちろんあらゆる面において観念したというわけでは毛頭なくて、頭蓋内に据えられている人類史上最高の脳みそは、その時既に、コイルが焼き切れるほど激しく回転を開始していた。
……「事務所」には「アジト」の「封印領域(=子供部屋)」が再現されており、「アジト」には「事務所」の「応接室(=リヴィング)」が再現されている。この奇妙な符合の持つ意味合いについてはいろいろな可能性を考慮できるが、まずもってわかりやすいのは、それだけHが打倒「名探偵」に向け、本腰を入れているということだろう、勤務時間内を一刻一秒たりとも余さず全て「名探偵」対策に充てるため、「仕事場」自体を「事務所」仕様に変容させてしまった、要するにそういうことだ、どうしても勝ちたい相手がいるスポーツ選手が、よく似たタイプの別の選手を「仮想●●」に見立て、特訓するのと同じだ、だがここまで正確に再現するためには、それこそ私の生活を逐一、しかも詳細まで隅々と把握しておく必要があるわけで、それは先に位置情報や時計の購入履歴、すなわち私の動向の類いの全てがリアルタイムで筒抜けになっていたこととも辻褄が合う、ということは今この建物のどこかには〝アイツ〟がいなければならない、そう、全ての黒幕であるはずの〝アイツ〟が……。
大事なところなので何度でも繰り返すが、それが「名探偵」によって為された「推理」である限り、「間違っている」などということは絶対にあり得ない。仮に当該時点において「間違っている」ように見えたとしても、それはただ「今そう見えている」だけで、「いつまでも間違ってい続ける」ことと同義ではない。「名探偵の「推理」が間違っている。」という言明が仮に為されたとすれば、それと真の意味で同値となるべき命題は、「名探偵の今は間違っているように見える「推理」が、いつか正しいものだと証明される可能性を持つ。」である。
もっともここでの私の「推理」の正しさは、ほぼ間を置かずしてすぐさま証明されることとなる。
Mの隣に座り、奴が「懐かしいわねえ、こうやって隣に座ってテレビ見るの、いつ以来かしら? 昔はよくあったような気もするけど……、いや、気のせいか、そうあってほしかったという願望が作り上げた偽の記憶か、なにせずっと昔から、壊れてたもんなあ」とか何とか、相変わらずわけのわからない言葉のオンパレードを披露し続けてくれるのにじっと耐えながら、いい年して全く老成したところのないその女に対し、ほんのわずかながらの同情さえ覚えかけていた時だった。
「おい……いや、あれ? キクチさん、帰ってたんすか?」
満を持して、〝アイツ〟が登場した。
そう、言うまでもなく、オオタニである。




