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9月24日⑰

 要するに、「アジト」への正面切っての「突入」がいよいよ現実味を帯び始めてきたところで初めて、容易に解消しがたいほどの「不安」に強く襲われることが始まったわけである。いくら「名探偵」の地位を暫定的に脅かされつつあったとは言え、あまりに陳腐で顕著な動揺のあり様に、我ながら失笑を禁じ得ない。だが反面それは「名探偵」であるか否かとは関係なく、言わば「生物の一個体」として、恐らく当然の反応である。何しろ相手はいつの間にか「名探偵」の「事務所」を乗っ取ってしまうような手練れなのだ。「白骨死体」を雑木林に埋め込んでしまうような冷血漢なのだ。出会い頭に人を殴って平気でいられるような性悪なのだ。「名探偵」が対峙する相手として、全く不足はないのは確かであり、むしろそのような機会をこそ私は待ち望んでいたのであるが、実際に対峙した時、いったいどのような悪逆非道の限りを尽くしてくれるのか、全く予想がつかなかった。果たして私はこれまでで最大の難局を、いつも通りの涼しい笑みを顔に浮かべたまま切り抜け、生きて再び平穏な日常に復帰することができるのだろうか……。心臓のあたりから小刻みに生じ出した震えが、全身に広がり、なかなか収まってくれない……。

 以前に侵入を試みた時とは異なり裏手に回るのではなく、普通に正面玄関からエントランスを通過して階段を上っていくという言わば「正規ルート」に乗せられた時点で、その精神的な恐慌は一つのピークに達した。つまり恥ずかしながら明け透けに告白してしまえば、「ここにいてはいけない」という「逃亡」を唆すような声が、自らの内にいつしか生じており、それを無視できなくなっていたということである。その「声」は、エントランスからの階段を上り切り、いったん回廊のような場所に出て道なりに進んだのち、改めて一つの棟の階段を上り始めるという風に、敷地の奥へ奥へと進んでいくにつれ、際限なくボリュームを上げながら、いつまでも鳴り響き続けた。それに身を委ねる形で即座にMの手を振りほどき、「背走」に取り掛かろうと考えたのは一度や二度のことではない。

 だが結局のところ、私は「アジト」に辿り着くまで、Mに自らの手首を握らせた状態を保持し続けた。いや、そうじゃない。より正確を期せば途中で、ちょうど「精神的な恐慌が一つのピークに達」するのとほぼ同じタイミングで、私は奴と指を絡ませ合い、その掌を自らの手で握り込むことにまで着手していた。所謂「恋人繋ぎ」というわけであり、それによって名実ともに「デート」の絵面が完成したわけだが、しかしいったい、なぜそのような試みを為したのだろうか? 

 もちろんMを慮っての措置ではない。「異常者」を気遣ったところで、それがいったい何になるというのか。そもそもMは私の「恋人繋ぎ」に対し、「え?」だの「ウッ!」だの、よくわからない呻きみたいなのを漏らした後、「どうしたのぉ? 昔を思い出しちゃったぁ?」とか何とか、わけのわからない妄言の類いを発してくれていたので、奴としてもそれは意外で、どちらかと言えばご遠慮願いたい状況だったのだと推測できる。

 だからそうではなくて、私がいつまでもMとの「濃厚接触」を続けていたのは(そしてさらにその「濃厚」度合いを自ら高めたのは)、「【《私》が《M》に】掴まれている」ことが、「【《M》が《私》】に掴まれている」ことへ、容易に反転し得るとわかっていたからだ。「接触」が続いている限り、Mがどこかへと走り去り、その先で何やら取り返しのつかないことをしでかしてくれることはない。つまり私の手を握るMの手は、むしろM自身に対する「拘束」として機能する。まさしく「肉を切らせて骨を断つ」というわけである。

 ところで一応断りを入れておけば、その時私の念頭にあったのは例の「マンドリル」の存在である。

「こどおじ」とともに駅近くのマンション前に潜んでいた時、本当に手を伸ばせば触れられるぐらいの距離に、奴はいたのだった。挑発的に目の前を揺れるバカでかい臀部の様を、今でもありありと思い出すことができる。

 しかし実際には私は奴をスルーし、あろうことか、気分良く歩き去っていくがままにさせ、その結果、余分に様々な厄介ごとが発生する機縁を作ってしまった。「こどおじ」がすぐ脇にいたとは言え、いったいなぜそんなミスをしてしまったのか……? 我ながら理解に苦しむが、いずれにせよそのような事情で、奴を見逃して以降、この街で発生した「事件」の全ては、ある意味、この私を首謀者とするのも同然なのである。

 だから翻って考えれば、ここでの「濃厚接触」の持続には、金輪際二度と、同じ過ちを犯してしまわないようにするための「戒め」という意味合いが強く込められていたと言ってよい。「戒め」なので、厳しければ厳しいほど効果が高いということになる。夜道で一人で叫びながら「坂ダッシュ」を26本続けるという奇行を繰り広げる「少年」のような三十路の女性との「恋人繋ぎ」など、まさしくお誂え向きの代物ではなかろうか?

 それゆえ仕方なく、だが半ば積極的に、私は所謂「お手々を繋ぐ」状態に甘んじてきたわけである。

 結局のところ、私は根っからの「名探偵」ということなのだろう。常に自らの身の安全よりも、自らの精神面での安定よりも、自らの属する世界の治安の維持を最優先する。そういう性向は、仮に「名探偵」という外向けのステータスが剥奪の危機に晒されたところで、揺らぐほど生半可なものではないということだ。

 だが、Mに続く形でいよいよアジトの中へと足を踏み入れた私は、すぐに思い知らされることとなる。

 矜持とか責任とか過ちとか世間体とか後悔とか羞恥とか罪とか罰だとか、そういう諸々は全てマジでどうでもいいから、とにかく私は一番初めに思い立った時点で、すぐさまその場を離れておくべきだった。


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