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9月24日⑮

 いくら「名探偵」であっても、ここまで虚仮にされればさすがに落ち着いてはいられず、挙措を失ってまくし立てる形になった。つまり普段は役柄上どちらかと言えばあらゆる事象に対して等しく距離を取る傾向にある私だが、ここではそれなりに真面目に、さも切迫したような感じで糾弾を行ったわけだった。

 だがそれでも残念ながら、Mには全く伝わらなかったらしい。

 その証拠に、奴は私の熱意にほだされて自らの非を認め、そのうえで切腹して詫びることを申し出るのではなく、以下のような発言を行うことで以て私をさらなる混迷の深みへと沈み込ませてくれた。

「ていうかあんたその格好何なの? 野球なんて、とっくの昔にやめたでしょ?」

 Mの視線を追うように、思わず顎を引いて自分の胸のあたりに目をやっていた。指摘されるまで着用の事実を忘れるぐらいすっかり身体に馴染んだ感のある野球のユニフォーム。縦縞とそれを横断する形で刺繍されたローマ字が、呼吸に合わせて微かに膨らんだり窄んだりすることを繰り返している。

「……」

「ああ、もしかしてあんた、まだ〝あれ〟やってんの? そういうこと? ……アッハッハッハッハッハッハッハッハ……」

 ほんの少し前まで気難し気に顔を顰めていたのが嘘のように、Mが一気に破顔する。無防備で、見る者にやけに子どもじみた感を与える純粋な笑み……。もちろん私には何がおもしろいのか、さっぱりわからない。

 そのまさしく「爆発的」と称されて然るべき急変に少なからず面食らった私は、他にどうにもしようがないということで、ひとまずその場に立ち尽くし次の展開を待っていた。するとMは初めは腹を抱えて笑っていたのだが、やがて四つん這いになり、滅茶苦茶に地面を叩きまくることへと移行した。それは見ようによっては「大笑い」という題目で渾身の一人芝居を披露しているように受け取られなくもなかったが、掌で地面を殴るのはそのたびごとに相当な痛みが伴うはずなので、実際には本当に心の底から面白がっていたのだと解釈する以外にないだろう。だが私にはもちろん、何がおもしろいのか、さっぱりわからない……。

 これまでの経験から、「笑い」というのは近くの人々にも伝染し、その結果周辺一帯に朗らかな雰囲気をもたらしてくれるものなのだと、私は単純に思い込んでいた。だがそういう「健全」な笑いには「節度」が必要であり、逆に遠慮も会釈もない赤の他人の「大笑い」を目の当たりにさせられることは、「坂道ダッシュ」を見せつけられることよりよほど不愉快で苦痛な体験なのだと、私はその時初めて知らされることとなった。もちろんそんな極めて狭い範囲でのみ通用する情報は、本当に全く以て一ミリたりとも、有用でも貴重でもあり得ず、だから私としてはむしろそんなことなど知らされなくてもよいから、代わりに少しでも、精神的に穏やかなままで過ごしたかった。もちろん「名探偵」という立場からすると、それが何よりの「高望み」だというのは、わかりすぎるほど重々承知しているが……。

 そのまま結局しばらく留まってはみたものの、残念ながらMが笑い止む気配はいつまで経っても、ほんの一ミリたりとも見受けられなかった。というか時間の経過と共に、「笑い」はむしろ激しさを増している気さえした。

 それゆえ右のコメカミの上あたりでストレスの塊がチリチリと燻り始めたのを機に私は踏ん切りをつけ、ひとまず「事務所」に戻ろうと考えた。もちろん休憩のためではない。Mの横暴を放置したまま自分だけくつろぐのは「名探偵」としてそもそも論外だし、またZや「封印領域」など、Hにまつわる諸々が入り込んできている時点で、「事務所」もまた既に安寧の地ではあり得ない。

 だからそうではなくて私が考えたのは、「目覚まし時計」と「電動草刈り機」を取りに戻ろうということだった。前者は言うまでもなく、常日頃から事件の記録用として使っているもの(先日「腕時計」への鞍替えを意図したのだが、Wの怠慢のせいで叶わなかった)であり、後者はHの連中が大挙して襲撃をしかけてきた時に備え、「事務所」を立ち上げた当初に購入しておいたものである。つまり「Mの排除」と「自らの精神安定」との間を取り持つちょうどいい折衷案を思いつき、実行に移したわけだった。

 しかしいつも通り、そうは問屋が卸さない。

 まるでタイミングを見計らったように、その瞬間覚醒したMが、ここぞとばかりに声をかけてきたのだ。

「ちょっと待ちなさい、どこ行く気?」

 振り返ると、Mが立ち上がっていた。いつの間にか笑うこともやめたらしく、最初と同じ眉根を寄せた表情に戻っている。

「……ドコ……って、帰るんだよ、これ以上付き合ってられるかよ」

「だからぁ、どこに帰るのよ、そんなフラフラして……、あんた今正気じゃないでしょ? 何かあったらどうするの?」

「……」正気じゃないだと? よくわかってるじゃないか、その通りだ、ずっと俺は、正気じゃない、だがその言葉は俺ではなくまず初めに、貴様自身にこそ向けられて然るべきではあるまいか……?

 言いたいことが溢れすぎて胸につかえた感じがして、逆に何も喋れずにいると、Mは今度はいきなり私の左の手首を掴むことをした。

「なにを……?」

「ついて来なさい、面白いもの、見せてあげるわ」

 そう言うと、先導するように、私の手を引いて歩き始めた。力は強くなくて、振り払えばすぐにでも離れそうな握り方だった。先ほどまで走ったり地面を叩いたりしていたにもかかわらず(さすがに叩いていた方とは恐らく逆の手だったのだろうが)、Mの指先は妙にひんやりとしていて、その絶妙な冷たさを場違いに心地よいと感じたのを覚えている。


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