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9月24日⑬

 やがて通常時よりもさらに頭がクリアになったという感覚を得たところで私は起き上がった。そのままの流れで大きく伸びをしたのち、ようやく問題の「足音」の方へ視線を向けた。道路を挟んで向かいに位置する歩道だった。

「事務所」所属のマンションが坂の途中にあるというのは既に述べた通りだが、その「向かい」の「歩道」の傾斜を利用して、一人の「男」が一心不乱に「坂道ダッシュ」を繰り返していた。一応断りを入れておけば、ここで言う「ダッシュ」とは、もちろん隠語でもなんでもなくて、要するに上半身と下半身を一生懸命動かしながら、勢いよく前進していくあれのことだ。まさしく狂気じみている……。

 しかも無言で黙々と走り続けているならまだしも、当然仲間やそれを見守る者など誰一人いないにもかかわらず、スタート位置から走り始める時に手を打ち鳴らし、「じゅうななほんめええ(十七本目)!」などと本数を数えながら出発の合図を出しまでしていたというのだから驚きだった。つまり先に「「ヤギの鳴き声」のような」と名状しておいた音声こそが、その「合図」に該当するわけである。

 もちろんこの世のありとあらゆる被造物はそれぞれ大なり小なり異なっており、だから「考え方」や「行動」にもまた、いろいろな種類があるのは重々承知している。夏が好きな者もいれば、冬が好きな者もいて、またそもそも「好き」という感情がわからない者もいる。帰宅してすぐ食事にする者もいれば、入浴する者もいて、またそれ以外のことをし始める者もいる。要するにそういうことだ。

 だが少なくともその場所及び場面が、「一心不乱に「坂道ダッシュ」を繰り返」すのに適切でないという点に関してだけは、ほぼほぼ例外なく誰にでもご同意いただけるはずではなかろうか。何しろ件の「上り坂」というのは、例えばアスリート育成のために作られた最先端のトレーニング施設などではなく、単なるごく普通の「歩道」であったのだから。むしろいったいなぜそこでそのような奇行に手を染めようなどと考えたのか、全くもって理解に苦しむ……。

 とは言え、いくら適切でないとしても、理解できないとしても、現実は現実である。つまり事実として、「ダッシュ」を繰り返している人物がそこには確かに存在した。そのことをまず認めるところから、次に進むためのステップは開始される。

 私は初めのうちあっけにとられ、ただ遠巻きにぼんやりと眺めるだけであったのであるが、だんだんムカついてきて、「男」に何ごとかを言ってやらなければ気が済まなくなった。どいつもこいつも……、いつもいつも好き放題暴れくさりやがって……、その尻拭いをする私のような立場の者が不憫だとは思わんのか? 

 だがしかし近寄って見ると、ダッシュを繰り返す「男」は、実際には「女性」だということがわかった。もちろん多様性の尊ばれる現代において「性別」について安易に云々することは、それ自体非常に危険な振る舞いである。「言葉狩り」を生業とする自称「正義のヒーロー」どもがどこからともなく湧き出してきて、ここぞとばかりに「集中砲火」を浴びせかけてくれたとしてもおかしくはない。「【男/女】という二項対立自体が、【男>女】という階層構造を蔵していることになぜ気がつかないのか」とか何とか……。

 だがそういう一般論はいったん脇に措いておくとして、「女性」はやはり「事実」として、「男」と誤認されて然るべき特徴を有していた。大声をあげながらの「坂道ダッシュ」のことではない。その「奇行」は「声の高さ」にさえきちんと着目できてさえいれば、むしろ当該の人物が「女性」であることの証左として機能する。

 だからそうではなくてここで着目したいのは容姿である。全身が今にも折れそうなほど瘦せ細っており、あたかも「マッチ棒」を彷彿させるレベルでそのシルエットは、スポーツウェアと思しき黒の半袖シャツとハーフパンツ、さらに顔の輪郭に沿うように短く切り揃えられた髪型等と相まって、まさしく人物を「少年」のように見せていた。網と籠を携えてそこら辺の叢で虫取りでも行っていそうだったと言えば伝わるだろうか?


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