427 【ヒューゴ】 帰る
――――――――――
――――――――――――――――
『もううんざりだ。お前のようなお荷物は必要ない。元の世界なりなんなり、勝手に消えるといい』
あの書き置きを残して、あの場を去ることは、ほむらが街へ向かった時にはすでに決めていた。
この先、どうすればいいのか。
俺は、何をするべきなのか。
銃で撃たれたところが、燃えるように痛む。
俺はうんざりしながら歩き続けた。
行き先は決めている。
この国で唯一、彼女の存在を残した場所。
気配も痕跡も消しながら慎重に先へ進んだ。
つい数日前まで、俺はいかにカイウスを苦しめるか、皇宮を奪い返すか、その事ばかり考えていた。なのに今の俺はどうにも…………そういうことを考える力が残っていない。
思い出すのは、暢気なほむらの顔と声だけ。
『熱い湯に浸かって、うまいもん食って、あったかい布団で寝る! 好きな奴らと楽しく過ごす! これ以上幸せなことってあるか? 俺はそれが最高の幸せだと思ってる』
くだらないことを、幸せだと断言していた。
『勝手に人の幸せを奪って平気な顔してるような奴、許せねえ』
それは……間違いなく俺のことだった。
『――――……弱ってるあの子を見てると、心がぎゅーって痛くなるんだ。早く元気にしてやりてえって思う。一番辛いのは心桜だから。だから俺、早く心桜が心から笑った顔が見たいんだ。――――――心桜には幸せになってもらわなきゃ。良い人と結ばれて、可愛い子を産んで、皆に愛されながらお婆ちゃんになるんだ』
その想いを、俺はよく知っているような気がした。
ずっと忘れていた。
俺は…………俺も、かつて似たようなことを願っていなかったか、と。
「………………イザベラ」
彼女は、俺の選択をどう思うだろうか?
俺は、また……何も為せなかった。
君に全てを捧げようと思ったのに。
君の為なら、何でもできると思ったのに。今度こそ……今度こそ、もう迷いはない、と。
失意のまま亡くなった君の、俺が唯一の味方になる、はずだった。
「…………すまない。イザベラ」
俺は結局、何者にもなれなかった。
いや……役立たずの極悪人にはなれただろうか。これから処刑され、歴史からも名を消されることになるだろう。俺が生きていた証は全て抹消される。きっと墓すら用意されることはない。用意してほしいとも思わないが。
俺は芝生の上を歩いた。
レイモンがあちら側についたのなら、てっきりここにも厳重な警備が敷かれているかと思ったが、そんなことはなかった。わざわざここに立ち寄るような愚かなことはしないと、そう思われたのかもしれない。
「………………」
屋敷を見上げる。星明かりに照らされ浮かび上がる屋敷は、美しいのに不気味だった。
管理はさせていた。だが人は暮らしていない。たったそれだけで、静けさ以外の不気味な何かが屋敷を覆っているようだった。
旧サピエンティア邸。
サピエンティア家を帝都から追放した後、二度と戻ってこられないように差し押さえた屋敷だった。
裏口の鍵を外す。使用人が出入りするための扉から中に入った。壁を上って窓から入る気力はない。
真っ暗な部屋を、廊下を、記憶を頼りに進む。
何度も招かれた場所だ。幼い頃はよく遊んだ。……そうだ、遊んだ。追いかけっこやら、かくれんぼやら……何が楽しいのか今となってはよくわからないが、よくそういう……平民の子供のやるような遊びをやっていた。イザベラが鬼の時は体力のない彼女も楽しめるように、ある程度遊んだらわざと捕まるようにしていたか。接待遊戯など、よくあんなことをやったものだ。
「……俺も、ガキだったのか」
子供の頃のことなど、随分長い間忘れていた。
どこかに消え去ってなくなっているものとばかり思っていた。
……これも全てあいつのせいだ。
ほむらと関わりさえしなければ、こんな迷いが生じることはなかった。
俺はもっと残酷になれた。目的のためなら手段を選ばない、冷酷な王のままでいられた。
階段を上る。
一番上まで上がったら、廊下を真っ直ぐに進んで、右に曲がり……
その突き当たりの赤い扉。
そこに、彼女がいる。
「………………」
ドアノブを捻って、中に入った。
彼女の肖像画は、昔と同じように壁にかけられ、こちらに向かって穏やかに微笑んでいる。
彼女が使っていた椅子も、彼女が描かれた時と同じ場所に、ぽつんと置かれてある。
賑やかだった彼女には不釣り合いな、恐ろしい程の静寂に包まれた場所だが、それでもここが、ここだけが、この国で彼女の存在を残す唯一の場所。
「……久しぶりだな、イザベラ」
彼女の兄を追放してから、この肖像画をまともに見ることはできなかった。
サピエンティア家は邪魔になった。だから追放しただけのこと。
……だが、イザベラはきっと怒るだろう。
兄のことを愛し、身内には甘かったイザベラのことだ。何をやってくれたと、もっとうまくやらないかと、怒り狂っているかもしれない。
「……あの世で会えたら、好きなだけ罵倒してくれ」
いや、会える訳がないか。
天国と地獄があったとして、俺が堕とされるのは間違いなく地獄。
君は今頃天国にいることだろう。
君は…………何の罪も犯していないのだから。
『ヒューゴ』
まるで呪いのようだ。
君の声を、顔を思い出すだけで、酷く苦しい。
俺が犯した数々の罪を、潰れそうな罪悪感とともに生々しく思い出してしまう。
何のために、戦争をしてきたか。
……国を豊かにするためだ。
かつて世界を支配した大帝国があったように、シノノメ帝国も未来永劫終わることのない繁栄を約束された大帝国となる。戦争も人体実験も、全てそのための犠牲だった。
アカツキ王国も解体して帝国の一部として、そして……
君の願いを果たす。
俺は肖像画に近づいた。
画の中のイザベラは、俺を責めているように見えた。
なぜこんなところで立ち止まっているのか、と。お前にはやるべきことがあるではないか、と。
「………………すまない」
俺は、君の言葉を信じる。
他の誰が何と言おうと、俺だけは君を信じる。
もう二度と裏切らない。俺の心は全部君だけのものだ。約束する。
君は……この程度で満足できないだろうが。
銃で撃たれた場所が激しく痛んだ。
押さえながら、よろよろと壁に背中をつける。
忘れかけていた記憶が、コトンと小さな音を立てて、静かに呼び覚まされた。
『…………お母様』
あれはイザベラの…………葬儀の日。
一人、目に一杯の涙を溜めた小さな女の子がいた。
『お母様ぁ……お母様ッ……』
『……君は』
イザベラによく似た顔立ち。金の髪に、青い目。
俺が近づくと、彼女はぷるぷる震えて泣き出した。
『お母様、一人ぼっちにしないで! お母様! お母様ぁ! ねえ、お母様を連れてかないで! ねえ! ねえってばぁ!』
死の意味も理解のできない、幼い女の子だった。
その子は……フレア・ローズ・イグニスは、俺がどこの誰かもわからないまま、必死でしがみつきながらずっと泣いていた。俺は、ただその小さな背中を撫でてやることしかできなかった。
…………ああ、そうか。
俺たちは、あの時すでに出会っていたのか。
イザベラの忘れ形見。
彼女がずっと望んでいた、自分の血を受け継ぐ子供。小さな希望。
けれど、あの子を授かった時、イザベラは…………
俺は首を振り、静かに息を吐いた。
今更、何もかも遅い。
俺はコートから火炎瓶を取り出した。
全てを終わらせるために。




