38 【シリウス】凍り付く
「早く逃げよう、はや――」
「待って」
姉は蒼白な顔のまま立ち止まった。思いのほか彼女の力が強くて、俺はつんのめる。
「何で!? 早く逃げないと」
「私はここに残るわ」
……え?
何言ってるんだ。
「さっき言ってたじゃないか。……バーバラに殺されそうになったって。ここに残ってたら嬲られて殺される。そんなのわかりきってることじゃんか。なのに残るって!? 何考えてるんだよ!!」
「私は行けない。シリウスちゃんだけ、あの人と一緒にどこか遠くへ。どこか安全な場所へ」
「なんで!!」
「なんとかするから。あの人たちのことは私に任せて。もし捕まってもあなたが酷い目に遭わないように、私が……あ、食料を持って行く? これから長い道のりになるし、今なら盗めるかも……」
「何言ってるんだよ!!」
しっかりしろ! と肩を揺さぶった。
「一緒に出るんだ! そのために俺はまたこんなところに来たんだぞ!?」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。もっとはっきりお別れを伝えるべきだった」
「別れ?」
「でも……私はあなたたちとは行けない。だからせめて大切な弟のために、できることをさせて欲しい」
「なんで……」
「ごめんね、シリウスちゃん」
姉は俺の髪をそっと撫でた。
「他の皆の分も、あなたが生きて。あなただけは……成功体なんだから」
成功体。
久しぶりに言われたその言葉に、心が凍り付いた。あの場所での生々しい記憶が一気に蘇る。
「よせ。なんでそんな……なんでっ……」
「ごめんね、あの国から逃げさえできればもう大丈夫だと思っていた。孤児院に引き取られれば、ようやく温かいご飯とベッドが確保できるって。でも違った。研究所と何ら変わらない。実験がなくなっただけ。ごめんね、ごめんねシリウスちゃん。あなたに辛い思いばかりさせてしまった」
「だから逃げるんだ。今度は絶対大丈夫だ。絶対……今度は裏切られない」
「そんなのわからない」
姉の目は悲しみに沈んでいた。
「確かに良い人かもしれないけれど、絶対なんてない。大体、シリウスちゃんの本当の姿だって知らないじゃない。私たちの過去だって何も知らない。だからシリウスちゃん、気をつけて。何があってもあなただけは生き延びてね」
「……なんで一緒に来てくれないんだ。信用してないなら、余計……」
「今知っている人の中では、一番信頼出来る人。あのシリウスちゃんが懐くのなんて初めて見たもの。だから……だから、信じてはいる。でも絶対はないから、完全に心は許さないで。何かあったらあの人を犠牲にしてでも生き延びて。お願い」
「嫌だ」
「バーバラが私に構っている間に、とにかく遠くへ」
「嫌だ」
「大丈夫、次はもっとうまくやるから」
「嫌だ!」
「どうか生きて。……本当の、弟たちの分まで」
頭をガツンと殴られたような衝撃だった。
……そうだ、俺はあなたの本当の弟じゃない。実験施設でたまたま出会った。たまたま生き残った……いや、逃げおおせて一緒になったに過ぎない。血なんて繋がっていない。本当の姉弟じゃない。それでも……家族の顔さえ知らない俺にとって、あなたは本当の姉のように大切な人なのに。
きっとあなたにとってはそうじゃなかった。俺と違って本物を知っているから。
『――これからは私が守るからね。私が年上だから、あなたは弟ね』
偽物の弟だったんだ。
『もう力なんて使わなくて済むように、私がなんとかするから』
辛い思いばかりしてきたのは姉の方だ。
『私は姉だから』
でも姉弟なんかじゃなかった。
「……嫌だ、一緒に、一緒に逃げよう。どこまでも。安全で平和な場所へ――」
「裏切り者」
憎しみのこもった、低い子供の声が投げつけられた。
その子供が、背後から姉の手首をしっかりと掴んでいる。迂闊だった。頭に血が上って騒ぎすぎた。子供たちが起きてきている。そうだ、あの灰色の奴も、「職員のスープ」に薬を入れたと言っていた。子供のにはきっと入れてない。
「裏切り者」
「……ッ」
姉が顔をしかめた。相当強く握りしめている。
それでも、子供は握る手の力を緩めなかった。……こいつ、前に脱走しようとした時俺のこと職員にチクりやがった奴だ。
「お前のせいだぞ。お前らが逃げ出したせいで……」
前に見た時よりだいぶ痩せてる。顔色は最悪だし、手足に目立った痣があった。……こいつだけじゃない。他の子供たちも。
「お前らが勝手なことばっかするせいで、俺たちがいつも酷い目に遭う。お前らが……お前らのせいで、あの後どれだけ酷い目に遭ったと……!!」
「……なら逃げれば良かっただろ。それをしなかったからこんなことになったんだ。姉から手を放せ」
「逃げ出してどうする。どうせどこかに売り飛ばされるだけだ。お前を信じて外に出た奴らも、今頃皆後悔してる」
「弱虫は消えろ」
「……他の子たちが職員を起こしに行ってる。捕まったらどんな目に遭うかな。楽しみだな、お前、いっつもステラに守られて特別扱いされてたから――」
「もうやめて」
姉が、にこっと微笑んだ。
「早く行って」
「――嫌だ」
「行きなさい」
「…………」
「シリウスちゃん」
「絶対――」
「ここまで来たってのに、酷いねーちゃんだな」
「――――ッ」
子供の手を姉から引き放して、その人はどよんとした目を俺にぶつけた。
「どういう状況だ、こりゃ」
「ア……アランさん」
思わず名前を呼ぶと、アランさんはなぜか顔をしかめた。
「……今はその名前の方が遠く感じるな」
「アランさん……?」
「職員どもは全員拘束した」
「え……?」
「だめか? 邪魔だろうが」
何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
だって俺たちは姉を連れてすぐに逃げる予定だったから。職員との接触はできるだけ避けるって話だった。
「ちょ、ちょっと待ってくれアランさん! 俺たちは今すぐ逃げないと――」
「今すぐ逃げる必要はねえよ。糸でぐるぐる巻きにしてやったからな」
そう言ってべろっと舌を出す。
「いや、でもバーバラだっているし……いつ誰が来るかわからないのに……!」
「大丈夫だ。多分」
「多分て」
「それに、ステラがここから動かないって言ってるんだから仕方ないだろ」
そう言われると何も言えなくなるけど……
その言葉に青くなったのはステラだ。
「わ、私のことは放っておいてください! シリウスを連れて、早く!!!」
「そのシリウスはお前を連れて行かないと嫌だって言ってんだぞ。ったく、つくづく面倒くさい姉弟だな。俺はどっちの言うことを優先すればいい」
「そ、それは……」
「……拘束した、と言ったな」
最早子供のものと思えない低い声にぞっとした。
振り返ると赤いのを背負った灰色の奴が俺たちを睨み付けていた。……ポタポタ血が落ちている。赤いのが生き延びたのか、死んでいるのかわからない。バーバラによほど酷い目に遭わされたことは確かで、俺は思わず後ずさっていた。
「本当に全員拘束したか」
「あ、ああ」
「よくやった。今すぐ医者を呼べ」
「呼べって言われてもなあ……。こんな状況で医者を呼ぶのか? しかもここに? そもそもそいつ生きてんのか?」
「生きている!!!!」
怒号が響いた。思わず体がびくつく。
「だから、早く……」
「このクソガキどもおおおおおッ!!」
聞き慣れた叫び声だった。
ゼイゼイと息を切らしながら髪を振り乱した女……バーバラが現れた。誰の血か知らないが、服を赤く濡らしている。子供たちが「ひっ」と悲鳴を上げ、怯える俺たちを庇うようにアランさんが前に出る。
「クソ……底辺どもが……そこの灰色のクソガキ……ぜっったいに許さない……」
……バーバラの右手の指が全部なかった。
月明かりに照らされてわかった。綺麗にバッサリ斬られている。
「クソ……あんた……あんたが仕組んだのね!?」
「俺か? ……ハッ、お前が敵に回したのはもっとやべえ奴だと思うけどな」
アランさんが何を言っているのか、俺にはわからなかった。
「弱小貴族と手を結んで何がしたいのか知らないけどねええ、こんなことしてタダで済むと思わないでよ!? 私の背後にはねえ、名のある貴族たちがついてんのよ。あんたらじゃ一生お目にかかれないような高貴な方々がね……! あんたらはその怒りを買ったのよ!! 全員ぶち殺す、このガキどもを押しつけたお嬢様も、お前らも全員嬲り殺して……!!」
「お呼びかしら?」
冷たい声が投げられた。
バーバラが振り向く。そこにいたのは……
長い金髪を靡かせた、あの貴族のお嬢様だった。




