36 【シリウス】侵入する
この孤児院にまた来ることになるなんて思わなかった。
せっかく逃げ出すことができたのに……
姉は何を考えているんだ!? バーバラにまた会うなんて考えるだけでゾッとする。あいつは人の良い笑顔の裏で子供たちをいたぶることしか考えていない奴だぞ!? 躾と称して行われる拷問が過激しすぎて、そのまま亡くなった子供だっている。亡くなっても、事故だとかなんとかで適当に処理されて葬られているのを知っている。誰も助けてなんてくれない。孤児院に入れられた子供たちはどんどん子供らしさを失って、家畜みたいに自分が殺される番を待っている。
あそこは地獄だ。だから姉を連れて逃げ出した。
姉はよくバーバラにどこかに連れて行かれてた。気に入られているから酷いことはされないと言っていたけれど、本当かどうかなんてわからない。あいつに連れて行かれる姉の姿を見るたびに、胸が痛んだ。
「……大丈夫かな」
あの人が引きつけてくれてるけど、さっきの子供、ものすごく怖かった。気配がバーバラみたいだ。おぞましいって言うか、得体が知れないって言うか……
でも、きっと大丈夫。だってあの人はすごく強い人だから。優しい人だから。いなくなった子供たちのことも探してくれて……結局、崖の崩落で助けられなかったと言っていたけれど。すごく頑張って助けようとしてくれたことは俺にだってわかる。
あの人と会ったのは市場へ買い出しに連れて行かれた時だった。いかにも乱暴者って感じで、他の浮浪者とさして変わらないような印象を最初は受けた。でも、違った。市場でどこかの使用人らしき女の子が乱暴な扱いを受けているのを、周りの大人は黙って遠目から見ていただけなのに、あの人だけが助けていた。それから何度か市場で見かけるようになって、声を掛けた。俺の体の傷を見てすぐに察してくれた。きっと俺と同じような過去を持っているんだろう。人と違った力だって持っている。その力で散々気味悪がられたって何でも無いことみたいに言っていた。俺と同じだ。
だから……あの人だけは信頼できる。
孤児院の裏に回って、こそこそと中に侵入する。牛乳売りから牛乳を貰うための小窓だが、体を折りたためば難なく入れた。音を立てないようにそっと忍び込む。なんせここにはバーバラ以外にも面倒な職員どもがうようよいるからな。この小窓を釘で打ち付けてないのも、きっと俺が戻ってくると踏んでの……ことかもしれない。そう思うと今更ながら体が震えた。
それにしても静かだ。子供たちは寝静まってるんだろうけど……いつもなら地下から子供たちの悲鳴が漏れ聞こえることがある。職員が賭け事に興じて楽しむ気配だってある。こんなにも「何もない」なんて、おかしい。
気配を消して廊下に出た。……やっぱ何か変だ。
思わず立ち止まってから、咄嗟に振り返る。
その瞬間、目の前がぐるん、と回った。
「――――――!?」
「……シリウスか。まさかお前1人で忍び込むとはな」
叩きつけられると思った。なのに床への衝突はない。目の前に床が迫ってはいるが、寸止めだ。腕も体もがっちり押さえつけられてて動けない。耳元の声はあの夜聞いたものと同じだった。
……クソ、こいつ。
慈悲とかなんとか言って俺たちにつきまとった子供。あの貴族の子供の手先。いや……もしかしたらバーバラの手先かもしれない。金を貰って俺たちを追っていたんだ。もしかして姉もこいつに唆されて……。路地裏で追われた時の記憶が、怒りとともに蘇った。なんとかして細っこい体を押しのけようとしたが、びくともしない。すました顔で見下ろされているのも腹が立った。奴はちらりと俺が侵入した部屋の中を確認し、また俺の耳元に囁いた。
「あの男はいないようだが、ここには何の用だ?」
「……るせえ」
「声は小さめにしてもらおうか。職員が起きたら面倒だ」
……面倒? なんだこいつ……バーバラの手先じゃないのか?
でも貴族の従者ってことはわかってる。何か変なこと考えてるに違いない。こいつらの中にろくな奴なんていない。俺たちのような下層の人間を……替えのきくただの玩具か何かだと思ってる連中だ。
「放せ、よ……!!」
「まあ落ち着け。……ステラを助けに来たんだろう?」
その言葉にぎくっとした。
灰色の髪の子供は、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「ステラの部屋ならばわかる。体調が悪そうだったから、1人個室をあてがわれていた」
「えっ……」
「……本当のところを話してくれ。お前にとっての敵は誰だ」
「そんなもの……」
お前らだ、と言おうとした途端、先を越された。
「バーバラか?」
「……っ」
子供の目がすうっと冷えていく。
「……お嬢様の言った通りだな。確かにこの孤児院はおかしい」
「え……?」
「子供は痩せ服はボロを着ているのに職員たちの方はそうでもない。綺麗に整えられているようで物が異様に少ないだけ、子供部屋のベッドはどれもボロで、職員の仕事振りも手抜きだらけ、壁や床にはひっかいたような跡や血痕……子供たちが虐待を受けているのは明らかだな。よく見れば腕や足に殴られたような痕があった」
「そ、れは……」
「お前も相当やられてたんじゃないか」
言葉が出てこなかった。
なんでわかるんだ。お前が……お前なんて、貴族の従者のくせに。俺とは違って恵まれて、苦労なんて一つも知らずに生きてきたくせに。
「俺もカノン……もう1人の赤毛の奴も、将来は騎士になることを目指している」
「騎士……?」
「理不尽な暴力に晒された民を守ること。それが俺たちの目標だ。信じられないかもしれないが、どうか信じてくれ。お前たちを助けたい」
そう言いながら、そいつは俺の体をゆっくり放した。
目の前の子供が……多分俺より少し年上のその子供が言った言葉が、俺は俄には信じられなかった。
「嘘だ。お前らなんか……お前ら……」
「真実を話してくれ。バーバラは、人身売買に手を染めているのか?」
「……ッ」
俺は頷いていた。
隠すことでもない。ここの子供たちは皆知っている。あの悪魔のような女の所業を。……こいつを信用した訳じゃない。ただ、その事実を認めたところで俺が困ることなんて何も無いから。
「手荒な真似をして済まなかった」
ぺこん、と頭を下げられて思わず固まった。
「ただ、お前に問いたいことは他にもある。路地裏で出会ったあの男は、お前にとって何者なんだ」
「あ、あの人は良い人だ。俺たちをここよりまともな場所へ逃がしてくれる約束をした」
「それは本当か? 奴が人身売買を――」
「あの人はそんな人じゃない!」
思わず口調が荒くなって、慌てて抑える。
「本当だ。そんなことする人じゃない。俺や他の子供たちのことも一度も殴ったことない。信頼できる人なんだ……」
灰色の奴は「そうか」と小さく呟いてから、それ以上は何も追求してこなかった。
「ステラの所へ行こう。来い」
そいつはあっさり俺に背中を見せた。馬鹿じゃないのか、と。俺に背中見せて後ろからやられるとか考えないのかって。……いや、考えてない訳がない。ただこいつは……俺を信用させるために、こんな無防備な姿見せてるんだろう。
……意味がわからない。なんでこいつらがここまでするのかってことも、こいつらの主人が考えていることも。騎士目指してるからってここまでする必要ないだろって思うし……まあ、俺は騎士がどういう者かもよくわかってないけど。
いろんなこと考えるのに、結局こいつについていく自分にも腹が立った。だけどついていく程に姉の匂いが濃くなってくるようではあるから、多分こいつは嘘を吐いていない。廊下はどこを通っても静かで不気味だった。
「……なんかおかしい。なんでこんなに静かなんだ」
「俺とカノンは一応客人扱いだった。それで大それたことができないんじゃないか?」
「いや、客人って言ってもお前らも子供だろ。そんなの関係なく賭け事やら躾……やらやってる。あのババアどもはそういう人間だ」
「なるほど。職員のスープに睡眠薬を混入して正解だった」
「えっ」
思わず立ち止まりそうになった。今サラッととんでもないこと言わなかったか?
「バーバラだけ違う鍋だった。あいつは多分起きている。気をつけろよ」
「わ、わかってるよ!」
「声が大きい」
「う……」
ムカつく。
この広い孤児院を全然迷わないし、こんな事態なのに堂々として場慣れしている感じがあるし、一体どうなってるんだ。やっぱりバーバラと同類なんじゃないかと思う。なぜか鍵束持ってるし。それどうやって手に入れたんだ。
ゆっくり姉の部屋の扉を開けると、そいつはちらっと中を覗いて固まった。
「……どういうことだ」
思わず押しのけて中に入ると、部屋は空っぽだった。「騙したのか」という言葉が出かかって、だけどそこに確かに姉がいたことは感じ取れた。
「……まずいな」
「…………地下室」
「ん?」
「地下室かもしれない。躾やってる場所で……もしかしたら……」
「躾?」
「……殴ったり蹴ったり、そういうことをする場所だ」
そいつは嫌そうな顔をした。「案内してもらえるか」と言われて頷く。心臓がバクバク煩い。あの血の臭いで充満した地下室のことを思うと、吐き気が込み上げる。姉があそこに閉じ込められているかもしれないなんて……今頃どんな目に遭っているか。一度逃げ出した身だ。きっとバーバラは手加減しない。
「……大丈夫か」
いちいち気遣うなって言いたかったけど、何も言えなかった。こいつに気遣われるほど、俺は多分相当焦ってた。大体ステラにあてがわれた部屋も、バーバラの執務室の隣じゃないか。……普段どんなに体調が悪くたって個室なんてあてがわないあいつが、自分の部屋の隣を使わせたって言うのがすでにおかしい。嫌な予感しかしない。考えたくもない想像が頭の中を満たして、怖くて足が震える。
「待て。ここの壁……妙だな」
部屋から出ようとしたところで、急にあいつが立ち止まった。ステラの部屋の奥に進んで、じっと壁を睨んでいる。その壁の向こうはバーバラの執務室だ。別に妙なところなんてないだろ、早く地下室へ……と怒鳴りそうになるのを必死で堪える。そんなことして誰かに聞かれたら大変だ。
「なあ、おい」
「見ろ。少し窪みがある。……なるほど。この建物が元々貴族所有のものだったとは調べていたが、隠し扉だな。あの年代のものであれば簡易的な仕掛けだろう。恐らくここを……こうして……」
何言ってんのかわからなかったけど、そいつは壁を押したり引いたりして遊んでいるように見えた。
「なあおい、そんなことしてる場合じゃ……」
ずず、と僅かな音を立てて、壁が動いた。
「…………え?」
「部屋が繋がっていたか。なるほどこれなら誰にも見られず好きな時に連れ出せるわけだ……クソ」
バーバラの匂いが染みついた執務室。気持ち悪……そこまで思って、ふと、懐かしい匂いが混じっていることに気づいた。
「……まさか」
その匂いが、だんだん近づいてくる。
あいつは躊躇いなく執務室の背後の壁の前に立った。どうやったのか、その壁をあいつが押した途端……
真っ白な少女が、闇の中から飛び出てきた。




