灯草の庭で 一章外伝 ー森の縁で
森が暗くなると、体が動く。
考えて動くのではない。暗さが来て、体が起きる。それだけのことだ。
寝床から立ち上がった。前脚に力を入れて、後ろ脚を引いて。鱗が擦れる音がする。自分の音だ。
鼻を上げた。
夜の匂いがする。湿った土と、苔と、腐った葉。虫が動いている匂い。蛙が水辺にいる匂い。遠くで鹿が草を食んでいる匂い。風はない。木の葉は動いていない。
いい夜だ。
匂いの配分が正しい時、体の奥が落ち着く。それだけだ。
歩き出した。
南の森の縁を辿る。毎晩同じ道だ。木の根の位置を覚えている。石の場所を覚えている。目を閉じても歩ける。閉じない。金色の目で暗闇を見ている。暗闘は暗くない。月の光が木々の隙間を通り抜けて、地面に白い斑点を落としている。枯れ葉が灰色に見える。
幹の前で立ち止まった。
爪痕がある。自分がつけたものだ。三本の線。ここが境界。この線より外には、大きなものは入ってこない。入ってきたら——体が動く。そういうふうにできている。
誰のために。
考えない。考えると、頭の奥が痛くなる。痛いのではない。もっと深い場所が揺れる。名前のない揺れだ。
南から西に向かった。
木々が変わる。南の森は落葉が多い。西の森は常緑が混じる。匂いが変わる。樹脂の匂い。松やにに似ているが、もっと古い。この森の木は古い。自分より古いかもしれない。
自分がどれだけ古いか、もうわからない。
体が覚えていることがある。
この森に来た時のことは覚えていない。気がついたら、ここにいた。四本の脚で立っていた。三本の爪が地面を掴んでいた。
最初は何もわからなかった。匂いだけがあった。
森の匂い。水の匂い。それと、もう一つ。
遠くから、かすかに届く匂い。
炉の煤。薬草をすり潰した粉。鉱石の欠片。石鹸。
知っている匂いだった。
なぜ知っているかは、わからなかった。体が知っていた。鼻が覚えていた。脚がその方向に向いた。
歩いた。匂いを辿って、森を抜けて、林を通って。
家があった。
小さな家。森の中の。灯りが一つ。窓の向こうに、影が動いていた。
近づけなかった。
体が止まった。匂いが近すぎた。近すぎると、頭の奥が揺れる。名前のない揺れ。痛くはない。だがもっと深い。体の芯が震える。
何かを思い出しかけて、思い出せない。
体が縮む。鱗の下で何かが疼く。
あの夜から、毎晩来るようになった。
近づかない。家には入らない。森の縁から見ている。匂いを嗅いでいる。
それだけでよかった。
西の森の縁を歩いている。
家の裏手の木々。幹に爪痕をつけてある。三本。だがこれは境界の印ではない。家の方を向いている。外を向いてはいない。
なぜ家の方を向けたのか。自分でもわからない。体が勝手につけた。ここにいる、という印。誰に向けて。わからない。
家からは見えない向きにつけてある。森に面した側だけ。裏手から西にかけて。東側にはつけない。
見られたくはない。でもいる。ここにいる。
丘の上に出た。木々が途切れて、空が見える。半月が高い位置にある。星が散らばっている。
丘の下に、家が見える。
小さな家。灯りが一つ。窓の向こうに影が動いている。
——匂い。
炉の煤。薬草。鉱石。石鹸。あの匂い。変わらない。ずっと変わらない。
この匂いが体の一番古い記憶だ。鼻が覚えている。爪が覚えている。
鱗の下の、あの疼き。
あの匂いの近くにいると、疼く。遠くにいると、疼かない。だが遠くにいると、別のものが来る。胸の奥の、空洞。匂いのない空洞。何もない場所。
だから毎晩来る。
疼きと空洞の間で、ちょうどいい距離。森の縁。家が見えて、匂いが届いて、でも近すぎない場所。
あの家の匂いは、いつも同じではない。
古い匂いはずっとある。変わらない。あの人の匂いだ。
でも、時々、別の匂いが混じる。
季節が何度も巡る間に、古い匂いだけの時と、もう一つ別の匂いがある時がある。新しい匂いが来て、しばらくそこにあって、やがて消える。消えると、古い匂いだけに戻る。
長いこと一つだったり、ふと二つになったり。
来ては去る。それだけのことだ。匂いの数が変わっても、巡回は変わらない。あの古い匂いがある限り、毎晩来る。
今は二つだ。
若い方の匂い。干し肉と革の匂い。汗と鉄の匂い。強い。あの家の匂いが服に染みている。あの家で暮らしている匂い。
この匂いは長い。季節が何度巡っても、まだある。時々消えるが、戻ってくる。いつも戻ってくる。
二つの匂いがする家。
悪くない。
匂いが二つある時は、夜の巡回が少しだけ長くなる。確かめるものが増える。二つの匂いが両方あるか。片方が欠けていないか。
今夜も二つ。
北に回った。
森が深くなる。木々の密度が上がる。枝が低い。鱗が枝を擦る。落ち葉が厚い。足音が消える。
東には行かない。東は人間の町がある。人間の匂いが多すぎる。頭が混乱する。一つ一つの匂いを分けられない。
南に戻ってきた。一周。毎晩同じだ。
家の方を見た。
窓の灯りがまだ点いている。奥の方。工房。古い匂いが濃い場所。
鼻歌が聞こえた。
遠い。人間の耳には届かない距離だ。だがこの耳には届く。
高い音と低い音が交互に来る。一定のリズム。同じ曲。毎晩同じ曲。
知っている。
なぜ知っているかは、わからない。体が知っている。鱗の下が震える。爪痕の疼きとは違う。もっと静かな震えだ。鱗の一枚一枚が、かすかに共鳴している。
——昔、この音のそばにいた。
いつ。誰と。
何も出てこない。音だけが残っている。
鼻歌が続いている。
寝床に向かった。西の森の奥。倒木が斜めに架かった窪地。岩と苔に囲まれた狭い場所。南の森の寝床より狭いが、家に近い。匂いが濃く届く。
鱗が冷えた岩に触れる。体を丸める。
鼻歌がまだ聞こえている。遠くなっていく。体が沈んでいく。
匂いと音。
それだけでいい夜だ。
西の森で、足音がした。
昼だった。寝床にいた。
匂いを嗅いだ。知っている。あの家の匂い。若い方だ。腰に二振り。片方は冷たく、片方は熱い。
もうわかっている。あの家の匂いがする人間だ。
目を開けた。窪地の縁に立っていた。
南の森の時は、柄を握っていた。今日は腕がだらりと下がっている。構えていない。
立ち上がった。向き合った。
一歩、前に出た。自分で出た。南の森では近づかなかった。今日は——一歩だけ。
鼻先を動かした。この人間の匂いの下に、あの匂い。この人間の体に、染みついている。
鼻先が震えた。体から力が抜けていく。
この匂いの近くに、自分もいたことがある。手が二本あった頃に。
身を翻した。振り返らなかった。
あの匂いの持ち主は、また来る。わかっている。
森に、別の匂いがあった。
いつもの匂いではない。
甘い。重い。腐った果実のような匂い。
——知っている。
鱗の下が震えた。疼きではない。共鳴でもない。もっと深い。もっと古い。体の芯が凍る。
この匂いを嗅いだことがある。
いつ。
体が覚えている。この匂いの中で目が覚めた。四本の脚で立っていた。何もわからなかった。この匂いの中にいた。
最初の記憶。
それより前は何もない。真っ白だ。何もなくて、この匂いだけがあった。甘くて、重くて、冷たい。喉の奥に絡みつく匂い。
匂いは南の森の奥から来ていた。
薄い。遠い。だが確実にある。昨日まではなかった。今夜、現れた。
巡回を中断した。
南の森に向かった。いつもの道ではない。奥へ。もっと奥へ。木々が密になる。月明かりが減る。
匂いが濃くなっていく。
甘い腐臭。青白い光。
——光。
目に映った。
森の奥の暗闇の中に、光がちらちらと散らばっている。蛍ではない。色が違う。冷たい。青白い。不規則に明滅している。
地面に何かが結晶化していた。
土の中から、青白い結晶が突き出ている。小さい。だが脈打っている。生きているように。生きてはいない。もっと別のものだ。
左の脇腹が痛んだ。
古い傷。鱗の下に埋まった結晶の欠片。あの日からずっとある。普段は痛まない。だがこの匂いの近くにいると、共鳴する。自分の体の中にあるものと、地面にあるものが、同じ周波数で脈打つ。
——あの日のものだ。
四本の脚で目が覚めた日。甘い腐臭の中で。
その日の残骸が、この森にまだ残っている。
近づかなかった。それ以上は。
近づけば、脇腹の結晶がもっと痛む。もっと共鳴する。
引き返した。
巡回に戻ろうとした。南の境界に沿って歩いていた。
別の足音が聞こえた。
重い。二本脚。若い方ではない。家畜と汗の匂い。恐怖の匂い。手に樫の棍棒。
人間が森の奥に歩いていく。あの匂いの方に。
人間は知らない。
——行くな。
声にならない。
虫の声が止まった。空気が重くなった。
影が来た。人間の背後に。あの日の残骸が、動いている。
体が動いた。考えてからではない。
影と人間の間に割り込んだ。吼えた。喉の奥から、自分でも知らなかった音が出た。
影が退いた。
人間が走っていく。森の外に向かって。
——行け。
虫の声が戻ってきた。
立っていた。
影が消えた場所を見ていた。暗闇だ。もう何もない。光もない。匂いもほとんど消えた。
脇腹が、痛い。
見下ろした。左の脇腹。鱗が裂けていた。
いつ。影と向き合った時か。吼えた時か。わからない。気づかなかった。
暗い赤が鱗の表面を伝っている。血だ。自分の血の匂い。鉄と苔と、かすかに甘い。
裂け目に何かが結晶化していた。青白い。冷たい光。脈打っている。自分の体の中にあったものが、傷口から露出したのか。それとも影の近くにいた時に共鳴して、鱗が内側から裂けたのか。
わからない。
痛い。
——動ける。
前脚を踏み出した。鱗が軋む。痛い。だが歩ける。
どこへ行く。
寝床か。西の森の窪地。倒木の下の、岩と苔の場所。
——違う。
体が、別の方角を向いていた。
あの家。
匂い。炉の煤。薬草。鉱石。石鹸。古い匂い。あの匂い。
行ったことはない。森の縁から見ているだけだ。匂いを嗅いでいるだけだ。あの見えない線を越えたことはない。越えようとしたこともない。
だが体が歩いている。血を引きずって。普段なら水のように動ける。今は引きずっている。
匂いが近くなる。いつもなら遠ざかる。だが今夜は、体が止まらない。
森の縁に出た。灯草が白く光っている。鼻歌が聞こえた。いつもの曲。
前脚が折れた。倒れた。
灯草のすぐ傍。家の敷地に入らない。ぎりぎりの場所。
——でも、ここまで来た。
目を閉じかけた。
体の奥から、何かが浮かんできた。
光。明るい場所。狭い部屋。瓶が並んでいる。炉がある。粉をすり潰す音。
——自分が、その部屋にいる。
手がある。二本の手。瓶を磨いている。隣で、誰かが鼻歌を歌っている。
この曲だ。
今、聞こえている曲。同じ曲。
隣にいた人の顔が見えない。匂いだけがある。あの匂い。炉の煤と、薬草と。
消えた。
何もない。
目を開けた。金色の目で暗闇を見た。月が傾いている。夜露が鱗の上に落ちている。
体が冷えている。脇腹の血は少し止まりかけている。だが痛い。
鼻歌が——止まった。
家の中で何かが動いた。戸が開く音。草履が地面を踏む音。
匂いが来た。
あの匂いが。直接。
近い。近づいてくる。
こんなに近いのは——初めてだ。初めてなのに、体が覚えている。この匂いはもっと近くにあったことがある。もっとずっと近くに。すぐ隣に。
足音が止まった。
膝をつく音。地面に布が触れる音。
手が——伸びてきた。
鱗に触れた。
冷たい手。小さい手。だが確かな手。震えていない。
——震えている。かすかに。気づかれないくらいに。
この手を知っている。
知らないはずなのに、知っている。鱗の下が震える。痛みではない。空洞が埋まっていく感覚。匂いのない空洞に、匂いが満ちていく。
声がした。
低い声。掠れている。言葉の意味はわからない。忘れた。だが声の温度がわかる。
古い声だ。
鼻先を動かした。
手に顔を寄せた。匂いを嗅いだ。直接。
炉の煤。薬草。鉱石。石鹸。
——この匂い。
体の一番古い記憶。
目を閉じた。
鼻歌が戻ってきた。いつもの曲。今度は近い。すぐ隣で。手が傷に触れている。冷たい液体が流れた。少し痛い。でも手は止まらない。
匂いと音。
ここにある。
体の震えが止まった。呼吸が深くなった。鱗の下の脈が、ゆっくりと落ち着いていく。
匂いと音が、ここにある。
——いい夜だ。




