第二十五話 相馬経(二)
馬商人の張世平から譲り受けた一冊の本。それはこの時代の馬の知識が書かれた『相馬経』という本であった。この本はこの時代の馬について、より世界を拡げてくれる存在であった。
「ふむふむ……。
『馬は頭が王なり、方なるが良い』
『方』……?」
僕が謎の単語にぶつかると、隣で世平殿が意味を教えてくれる。
「『方』とは方形、つまり四角いのが良いということです」
「なるほど……『目は丞相、光あるのが良い。脊(背骨)は将軍、強いのが良い。腹は城郭、張りがあるのが良い。四肢は令、長いのが良い』
聞きながらだけど、内容がわかってきたぞ。これは大いに参考になるな。
これをいただいてもよろしいんですか?」
僕の予想以上の食いつきぶりに、世平殿はニコリと笑って答える。
「ええ、差し上げます。
貴方が良き馬相見になっていただければ、私どもの良い取引相手になってくれるでしょうから。
これは未来への投資でございます」
「わかりました。喜んでいただきます」
喜ぶ僕に、世平殿は一応と、念を押すように説明を加えてくれた。
「ただ、その『相馬経』は大昔に書かれ、今となっては異本の多い書物でございます。
学ばれるのならいくつもの『相馬経』を読み比べるのも良いかもしれません」
「こんな本がまだまだあるのか。
それは楽しみです!」
不便な古代と思っていたが、こんな馬の専門書まであるとは思わなかった。それもいくつもあると聞けば心も躍る。
その僕の反応に、世平殿も喜んでいるようであった。
「知識があることを楽しまれる。それは大変よろしい傾向ですな」
食い入るように『相馬経』を読む僕に、世平殿は改めて尋ねた。
「ところで先ほどは『羸牛、劣馬は寒食まで(痩せこけた牛馬は寒さを乗り越えられない)』という諺がありたしたが、辰元殿は今はどういう飼料を与えていますかな?」
「え、馬の飼葉ですか?
干し草にたまに粟や大豆を混ぜて与えております」
僕は正直に与えているものを答えた。欲を言えば未来のように牧草の種類を使い分けて、与えるものをちゃんと管理したい。だが、残念ながらこの時代では馬が満足するだけの飼料を確保するだけでも大変だ。あまり贅沢は言えない。
「なるほど、一般的な飼料ですな。
ところでこういう草をご存知ですかな」
世平殿が後ろの荷駄馬から下ろした包みの中から一本の草を取り出した。
「これは?」
茎の長さは一メートルほど、丸い葉に、紫の小さな花、それにクルンと丸まった実をつけた植物であった。草花に疎い僕は見ただけではピンとこなかった。
「これは『苜蓿』という草でございます。これを干し草に少量混ぜることで、馬は今よりもたくましく育ちますよ」
「そんな夢みたいな草がホントにあるのか?」
世平殿の言葉に、劉備は半信半疑といった様子だ。
しかし、僕は世平殿の言葉にすぐにピンときた。草花の知識は無くとも、牧草の知識ならある。
だから、この『苜蓿』にすぐに飛びついた。
「それはまさか、アルファルファ!
いえ、マメ科の牧草ですか!」
「アルファルファやらマメ科というのはよくわかりませんが……どうやら、辰元殿はこの正体がおわかりのようだ」
現代、いや、未来において馬の飼料には、チモシー等に代表されるイネ科の牧草を主体とし、アルファルファ等のマメ科の牧草をいくらか混ぜるという飼育方法が確立されている。
馬の栄養源は主に繊維質で、それはイネ科の牧草から摂取する。それにタンパク質やカルシウムを含むマメ科の牧草を混ぜることでより強靭な馬を育てる事ができる。
しかし、マメ科の牧草の知識の無い僕は大豆やその草木を与えることで賄っていた。
だが、今差し出されたこれは、日本名をムラサキウマゴヤシ。海外での名をアルファルファ。未来でも使われるマメ科の牧草だ。
既にこの時代にマメ科の牧草が存在し、それを混ぜると良いという飼育方法が確立されていた。
(千八百年も昔のこの時代に既にアルファルファがあるのか!
それも馬の飼料として認知されている!)
「こ、このようなものが既にあるのですか!」
僕のあまりの食いつきの良さに、世平殿もフフと得意げに笑いつつ話を続ける。
「今から三百余年の昔、孝武(前漢の武帝)が張騫を西域に派遣され、数々の品々を持ち帰りました。そのうちの一つがこの『苜蓿』なのです」
(西域ということは……。
つまり、シルクロードか。シルクロードを通じて馬の飼料まで入ってきていたのか)
世平殿はさらに話を続ける。
「この『苜蓿』は寒さと乾燥に強く、また人の食用にも適することから、今では華北を中心に野生化しております。
探せばその辺りにも自生しているでしょう。
ですが、馬が食べるほど纏まった量となると、私どものように牧場を持っているところに注文するのが早いでしょうな」
なるほど、さすが商人だ。欲しければ買えという話か。僕は財布を握る劉備の方へと振り向いた。
「その苜蓿? ってのはそんなに良いものなのか?」
「良い軍馬を育てたいなら是非あった方がいい!
さっきの諺にもあったろ。餌をケチると馬は冬を越さないよ」
僕は強く劉備に勧めた。未来でも使われている飼料を与えられるんだ。絶対、損はしないはずだ。
「ああ、わかった。
じゃあ、先ほどの飼料にこいつも足しといてくれ」
「ありがとうございます!
いやぁ、知識のある方がおられると話が早くて良いですな」
新たに商談が纏まって、世平殿は上機嫌だ。
しかし、この譲られた『相馬経』の存在は本当にありがたい。
僕の馬に関する知識は未来のものだ。当然、優れている部分も多いが、わからない点も多い。そもそも馬の品種自体がまるで違う。馴染みのない中国の在来馬を知れるという意味でもこの本の存在は大きい。
「自分はこの彗星しか知りませんので、知識が増えるのは助かります」
その僕の言に、世平殿がまたも食いついて尋ねてくる。
「ほぉ、あまり他の地域には行かれていないようですな。
では、この中華の地にどういった馬がいるのかご存知ですかな?」
「いえ、わかりません。
是非、教えてください」
世平殿の尋ねることは中国の在来馬の種類ということだろうか。それならば是が非でも聞いておきたい。
「あなたの乗られている馬は北方の草原の馬でございます。最も盛んに用いられた馬ですな。体高はおよそ五尺六寸(約百三十センチ)ほどです。
辰元殿の愛馬は六尺(約百四十センチ)はありそうですので、北方馬の中では大きい方でございますな」
確かに彗星は他の馬に比べれば少し大きいという印象があった。今回、世平殿から贈られた馬よりも彗星の方がわずかばかり大きい。どうやら、贈られた二頭の方が平均的な大きさということなのだろう。
「もう一つは南方の山地馬です。こちらは主に荷駄用の馬で、体高は五尺(約百十センチ)ほどの小型馬でございます。なので、貴方様の好みからは外れるかもしれません」
なるほど、荷物の運搬用の小型馬か。いてくれれば物の輸送なんかが楽になるだろうけど、騎乗には向かないだろうな。
「それに西方より来た高原馬がございます。こちらの体高は六尺(約百四十センチ)ほどあります。さらに、西域より来たる馬の中には七尺(約百六十センチ)を超えるものさえいるとか。
これを大宛という国から来たので『大宛馬』、または血のような汗を流すことから『汗血馬』等と呼ばれております」
(汗血馬……。
つまり、それはシルクロードを通ってきた馬。サラブレッドの元となったアラブ種の馬のことじゃないか。
サラブレッドがまだ誕生していないこの時代において、最も未来の競走馬に近い馬じゃないか!)
「そうか、シルクロードから牧草が入るなら当然、馬も入ってきている!
この世界にはアラブ種の馬もいるのか!
世平殿、貴方の店ではその汗血馬を扱っておりますか?」
「申し訳ありません。うちは中山国を拠点にする牧場の馬を出荷しており、扱う馬は北方馬ばかりでございます。
西方馬は扱っておりません。
この辺りでしたら、やはり雒陽(洛陽)に行かれるのが良いでしょう」
「洛陽、その町の名は知っている。
漢の首都・洛陽か!
洛陽に汗血馬がいるのか。行ってみたいな」
僕が漢の都・洛陽に思いを馳せていると、横から劉備が口を挟んできた。
「おいおい、これから安喜県に行くのに何言ってんだよ」
「そうか、安喜県に行かないとな。
しかし、洛陽か。一度でいいから行ってみたいな」
僕は洛陽を思いながらも、劉備の新たな勤め先・安喜県へと向かう準備を始めた。。
安喜県、そこは物語でもお馴染みの督郵殴打事件のあった場所だということを、僕はまだ思い出してはいなかった。
《続く》
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