下
それから少しずつ、悪魔の誘惑は激しくなっていった。
まずは朝起きたその瞬間から。「もう少し寝ていてもいいんじゃない?」「ほら、ベッドだってもう少し君にいてほしいって言ってる」もちろん、そんな言葉は無視して起き上がる。洗面所のところまでは何となくついてくるけれど、扉をばたん、と閉めてやればそれ以上は入ってこない。けれど話はそれから。外に出れば、どこから調達してきたのか髪飾りなんてものを持っている。「どう? ほら、これ。短い髪にも似合うようなのを探してきたんだけど」余計なお世話。すり抜けてキッチンへ向かう。本当はちょっとだけ、興味がある。
ご飯を作っていると、またも悪魔は話しかけてくる。「ねえ、こんな料理はどう?」「油と砂糖をもっと使ってみない?」「芋を揚げてみるのはどうかな」このくらいならまだ可愛いもので、最近一番ひどかったのにはこんなものがある。
「ほら、これ美味しいよ。匂いを嗅いでみてごらん」
「……なんですか。その茶色のは」
「チョコレートミルク」
ほら、と言って悪魔は飲み物を近づけてくる。鼻を向けなくたってわかる。うっとりするような甘い香り。一度も飲んだことはないけれど、知識としては知っている。もう少し幼いころに、子ども向けの小説なんかで読んだことがある。甘くて、夢みたいで、そして自分は明らかに摂らない方がいい、糖分過多の飲み物。
「結構ですっ」
「そう? 僕は一番好きな飲み物なんだけどな」
「……いつか病気になりますよ。絶対」
「そりゃ、大抵の人間は長生きしてれば病気になると思うけど」
なんて退廃的な。
ミリスが親切心からしてやった忠告だって、まるで気にも留めないで、慎ましやかに紅茶を飲んでいる目の前で悪魔はチョコレートミルクを口にする。もしかすると、悪魔だからああいう飲み物をたくさん飲んだって病気になんかならないのかもしれない。
ずるい。
家の中を歩き回る間も、悪魔はずっと隣を歩いている。歌を歌っている。信じられないほど美しい声で。何の曲なんだろう、と思ってちらりと見たら、目ざとくそれに気付かれた。「さっき自分で作ったんだ。気に入ってくれたなら、この曲は楽譜に起こしてみようかな」そして、ミリスが本を読んでいる間、悪魔は黙ってそれを譜面に書きつけている。
本を読んでいる間だけは、悪魔は何もしてこない。どうしてなのか、と一度、それとなく、けんか腰で訊いてみたことがある。そのときの答えは「だって、好きでやってることを邪魔したら嫌われちゃうじゃないか」
「…………好き?」
「うん」
気付いてなかったの?と悪魔は驚いたように言った。
「君、本を読んでるときは、いつも笑ってるよ。……あ、険しくなった」
言われるまで、気が付かなかった。
ただこれまでの聖女たちがそういう風に過ごしてきたと聞いたから、同じようにしていただけだった。指摘されるとなんだか急にバツが悪いような気持ちになって、本に書いてあることが上手く読めなくなってくる。
すると、悪魔はミリスの目の前の本を手に取って、こんな風に読み上げ始める。
「『……けれど結局、幸せになってはいけないと一番に自分を押し込めていたのは、自分自身でした。一つのことが許されなかったとき、私はどうしても、全てが許されていないような気持ちになるのです。それは潔癖と呼ばれるものだったかもしれません。あるいは、完全主義か何かだったのかも。それともただ、得体の知れない怒りをどこかにぶつけたくて、でも人を傷つけたり憎んだりするのは嫌だから、自分にぶつけていただけなのかもしれません。何にせよ、私はそのときになってようやく気付きました。私たちは、完全な幸せを得られないからといって、部分的な幸せまであきらめる必要はないのだと。少しだけ幸せになるということを、自分で自分に、認めてあげてもいいのだと』」
ぱたん、と閉じて本を渡されれば、ミリスは怪訝な目になって、
「……本当に、そんなことが書いてありましたか?」
「最後まで読んでみれば、きっとわかるよ」
むきになって一生懸命に本を読んでいると、気付けばいつものように言葉が飲み込めるようになっていた。一番後ろのページまで捲り終えても悪魔が口にしたような台詞はどこにもなかったけれど、嘘つき、とはミリスは言わなかった。決して、それは嘘ではなかったから。
お風呂のお湯がいつの間にか知らないうちに、ハーブを入れられて香りと色が変わっている。どういうことですか、と問い詰めると悪びれもせずに悪魔はこう言った。「こっちの方が身体にいいんだよ」そう言われればそれ以上はミリスも何も言えなくなって、そのままその不思議なお風呂に入り続けている。正直に言うと、お風呂場の扉を開けるとき、ちょっとだけ楽しみにしている。今日はどんな色で、どんな香りなんだろう。でも、すぐに気を引き締めて、何も感じないように頑張ってみる。悪魔だってここまでは見ていないとはいえ、自分のことは自分が一番よく見ているのだから。
脱衣所も、出てくるころにはなぜだか暖かくなっている。前はずっとずっと髪の毛を乾かす時間を取っていたけれど、今は全然、そんなことはなくて。ベッドのある部屋まで帰ってくると、悪魔が待ち構えていて、さあ、と呼び掛けてくる。
「今夜は何をして遊ぶ?」
「遊びませんっ」
布団を被ると、悪魔もしつこくは誘ってこない。一言ぼそりと「せっかく色々用意したのにな……」と溢すだけ。罪悪感が芽生えるよりも先に、月の黄色によく似た声で、子守唄が歌われ始める。おやすみ、と囁く声に、おやすみなさい、と返してみれば、もうすっかり夢の中。
普通の人になる夢を見る。でも、ミリスは『普通の人』なんていうのがどういう生活をしているのかわからないから、細部はぼんやりしたままで、なんとなく両親と友達に囲まれて、なんとなく幸せで、そんな夢。
目が覚めると、悪魔が微笑んでいる。最近は、夢から醒めて、天井の次に見るのは彼の顔。
「おはよう」
その言葉に、素直に「おはようございます」と返せるようになったころ。
また一通、手紙が送られてきた。
*
「読まないの?」
そう、悪魔は訊ねた。
「読みません」
そう、ミリスは答えた。そして綺麗な白い封筒を、机の中にしまい込む。一思いに捨ててしまえないのは、まだ未練があるからだと、自分でわかっている。
「大事なことが書いてあるかもしれないのに」
「……そうですね。きっと大事なことが書いてあるんです」
「なのに、読まないんだ」
「……はい」
読みたくないんです、とか細い声で伝えれば、そうなんだね、と悪魔は頷いた。
それ以上は、何も訊いてこなくて。
意外に思ったから、ミリスの方から言ってしまった。
「……あなたは、『読んだらいいのに』って言うと思っていました」
そう?と悪魔ははぐらかすように、
「僕は、君のためになることだったら何でも勧めるよ」
「だったら……」
「でも、その手紙を開くのは痛みを伴うから。君が怖いって言うなら、無理に勧めたりはしない」
何だってお見通し、というような顔で口にした言葉は、実際にミリスの心を見抜いていた。
怖い。ずっと、この手紙を開くのが。封筒を見れば、誰から誰に宛てられた手紙なのか、簡単にわかってしまうから。宛先はもちろん、自分。
差出人は、両親。
怖かった。何が書いてあるのか、わからなかったから。うっすらと、この家と外の世界を繋いでいる縁が、確かめてしまえば本当に絶たれてしまうような、そんな気がしたから。
両親は、どんな人なのだろう。ほんの幼い、それこそ記憶だってないようなうちにだけ、触れあったことがあるはず。そんな人たちから届く手紙には、一体何が書いてあるのだろう。もしも、「あなたが聖女でいてくれるおかげで、日々の暮らしはとても楽です」なんて書いてあったら。「あなたには弟と妹がたくさんいますが、みんな仲良く、幸せに、普通の人として過ごしています」なんて書いてあったら。
それはきっと、喜ぶべきことなのに。
もしも自分が喜べなかったらと、怖くなってしまって。
「でもね、」
と悪魔は言った。
「確かめなかったら、きっと、いつまでも怖いままだよ」
そんなこと、自分でだってわかってはいるけれど。
*
ほとんど物心ついたころから、ミリスはこの家に住んでいた。
初めの頃は、料理人や世話係もいた。けれど、ほとんど何も言葉を交わすことなく、必要な時間にだけどこからか現れて、用事が済めばどこかへ去っていく。泣いたりもした。何度も、何度も。お家に帰りたい、と言った覚えはない。寂しい、と言った覚えも。自分の心をそんな風に見つめて言葉にすることが、その頃にはできなかったから。
ありがたいお話を、たくさん聞いた。これまでの聖女に関する出来事を、たくさん。皆さんとても尊いお方でした。世界中の皆のために日々を健やかにお過ごしになられて、最後には全員、笑ってお逝きになられました。聞けば聞くほど彼女たちの心は自分のそれとは比べ物にならないほど綺麗に思えたから、まずはミリスは、真似から始めることにした。つまりは、今まで続けてきたような単調な、完璧に変わり映えのない、美しい生活のこと。
料理人にも世話係にも、要らなくなりましたと伝えた。もう自分のことは自分でできますから、と伝えた。本当のところ料理だって上手くはなかったし、夜更けに一人でトイレに行くのだって怖かったけれど、やらなくちゃいけないことなら、いつかはやることができた。そうして一人きり。今までの聖女も、みんなそうだったと聞いた。その気持ちだけは、ミリスにもわかる気がした。自分と関りのない人間が傍にいたって、余計に孤独を感じるだけだった。ひょっとすると、そんな俗な理由を抱えていたのなんて、自分だけだったのかもしれないけれど。
できるだけ、欲望は抑え込んだ。それは悪魔の言ったとおり『普通の生き方』が許されなかったことで、『すべての生き方』が許されていないように感じたからかもしれなかった。あるいは、自分の人生が自分の思うようにならないことに覚えた苛立ちが、自分自身を丸ごと抑え込むように動いたのかもしれなかった。たとえばそう、お気に入りの本に汚れ染みがついたからと悲しくなって、一冊丸ごとを燃やしてしまおうとするみたいに。
そんな日々の中で、両親のことを思えば、平静ではいられなかった。
いい人だったらどうしよう。遠ざかって暮らしているのが寂しくなって、きっと胸はきゅうっと締め付けられて、二度と戻らなくなってしまう。
悪い人だったらどうしよう。あなたがいなくなってからの暮らしは楽しくて仕方ありません、なんて言われたら、本当の本当に、自分は孤独になってしまう。
開けられないまま、十数年。
ずっと手紙が溜まっていくのを見れば、本当はどっちが答えかなんて、わかってはいたのだけれど。
そしてその答えが見えたとき、自分がどんな風に変わればいいのかだって、ちゃんと知っていたのだけれど。
*
「悪魔、ですか?」
眼鏡の医者は、小瓶に血液をしまい込みながらそう訊き返した。
「変わったことをお聞きになりますね」
「あ、いえ。たまたま気になっただけで……。専門外ですよね」
ミリスが慌てて質問を取り消そうとすると、いいえ、と男は首を振る。
「これでも一応教会所属ですからね。悪魔のことだって、きっと普通の人よりはよく知っていますよ。どんなことを知りたいんですか?」
ええと、とミリスは言い淀みながら、
「あの……。これまでの聖女が、悪魔を見たとかそういう話って、聞いたことはないですか」
医者の目が見開く。だから、ミリスはさらに慌てて、
「あ、いえ! 私が見たとか、そういうわけではないんです。ただ、なんとなく、その、本を読んでいたら気になって……」
どことなく納得していないような雰囲気ながら、医者はそれ以上は深く訊ねることもなく、答えてくれる。
「そうですね……。私が知っている限りではそうした記録はなかったと思います」
「あ、そ、そうですよね」
「聖女様は、悪魔とはどんなものだと思っていますか?」
「え?」
かえって訊ね返されて、ミリスは戸惑う。
悪魔とは、人を誘惑して、魂を奪うもの。誘惑とは幸せを与えること。魂を奪うとは、死んでからもあなたを幸せにするということ。
あの山羊角の悪魔の言っていたことを纏めれば、きっとそういうことになるのだろうけど、でも、あまりにも常識的な感覚から外れすぎているように思えた。突然こんなことを言って、誰から教わったんですか、なんて訊ねられたら、上手く言い逃れできる自信がない。だから、ミリスはただ、首を横に振って答えた。よく、わからないんです。
「悪魔とは、人が隠していた心のことだと考えられています」
「……え?」
「悪魔は誘惑し、魂を奪うものだと言われています。誘惑とは、本当の心に従うこと。魂を奪うとは、その本当の心ばかりに、すべてを委ねてしまうことだと言われています」
「本当の、心に……」
ええ、と医者は頷いた。
「私たちの生きている世界は、私利私欲によってのみ出来上がるものではありません。私たちの食べ物はどこかの誰かが作ってくれるもの。服も、家も、なんだってそうです。人は一人では生きていけない。動物だって例外ではありません。お互いが、お互いを支え合って生きているんです」
彼の話しぶりに、ミリスはふと思い出した。この自分とそう年の変わらなく見える若い医者が、まだ見習いとしてこの場に来ていた頃。儀式を執り行っていた、老年の女性医師。まだ幼かった自分に、僅かな時間ながら、様々なことを教えてくれた人。それから、彼女がここに来なくなった日のこと。「今日から見習いの札は外れました」と言って、医者が笑った日のこと。
そのときに感じた、気持ちのことも。
「でも、本当のことを言えば、誰だって自分のことを優先して生きていきたいんです。お腹が減ったら、人の物を奪ってでも満たしたいし、何かが欲しいと思ったら、たとえその持ち主がどれだけそれを惜しんでも、自分のものにしたくなる。やりたいことがあれば、それがどんな結果を生んでしまうとしても、やりたくなる。本当は、誰だって自分のことが一番大切だから、本当の心に従ってしまいたいと考えているんです」
「それが誘惑で、魂を奪われるということですか」
「ええ、そのとおりです」
医者は小瓶を大切そうに鞄の中にしまい込む。それからは椅子に座って、ミリスの血が止まるまでの僅かな時間を、彼女に向き直る。
自分の、心。
ミリスは、そのことを思った。あの悪魔は、自分の心が生み出した幻。まやかし。自分が、自分の欲望のままに生きたいと思う、その心。遠い昔に蓋をしたはずのそれが、形を取って現れたもの。
愕然とはしたけれど、それを表に出すことはできないから、平気なように振舞って。
「それじゃあやっぱり……悪魔は悪いものなんですね」
「いいえ、そうとも限りません」
え、と顔を上げると、医者は笑って言う。
「何事にも加減というものがあります。本当の心だけでもいけませんが、本当の心をなくしていいというものでもない。自分を一番幸せにできるのは、結局のところ自分ですから。本当の心を押し込めすぎてしまうのも、よくないことなんです。特に聖女様。あなたの場合はね」
「え? えっと……」
「僭越ながら、あなたは色々なものを我慢しすぎです。少しくらい、悪魔の誘惑に屈するくらいがちょうどいいかもしれませんよ」
ぽかん、と。
医者の言葉があんまりで、ミリスは唖然として。
「そんなこと、教会の方が言ってもいいんですか」
「やっぱりまずいですかね」
医者は笑うと、人差し指を唇に当てて、小さな声でこう囁く。
「それじゃあこれは、二人だけの秘密、ということで」
*
「おかえり」
と言って、悪魔が出迎えた。
本当に、自分でもものすごく単純だと思うけれど、その一言でミリスは決めてしまった。
「あの……」
「ん?」
悪魔は優しく微笑む。本当の心。正体が自分のそれだったとしたら、自分も本当は、こんな風に笑えるのだろうか。
「手紙を、開けた方がいいと思う?」
こんなやり方は、ちょっとだけ卑怯かもしれないけれど。
自分で自分のやることを決めないで、悪魔に頼るなんて、ちょっとどうかと思うけれど。でも、もしも。もしもそうやって悪魔に頼ることだって、どこかで誰かが許してくれるというのなら。
自分で自分に、そのくらいのことは許してあげてもいいのかもしれないと、今なら思うから。
「本当は、もう答えなんて決まってるんでしょう?」
悪魔は言った。もちろん、何もかもお見通しですよ、という声で。そして懐から、一枚の封筒を取り出した。
え、とミリスは声を上げた。
だって、封蝋が開いている。
「実を言うとね、」
悪戯めかして、悪魔は唇に指を当てて、
「そうなるだろうと思ってたから、勝手に開けて、中身を見ちゃった」
「な、」
なんてことを、と言いながらも。
そうしてくれた悪魔が、こうして目の前で笑っていることに、安心して仕方がない。
いつの頃からか、ミリスは信じ始めていた。彼が自分の本当の心かもしれないとか、そういうこととは関係なく、彼が自分に優しくしてくれる存在であることを。
だから、半ば答えを予想しながら、ミリスは訊いた。
「どんなことが、書いてありました?」
「僕が伝えちゃっていいのかな」
「はい。……よければ、あなたの口から聞かせてください」
わかった、と悪魔は頷いた。そうして丁寧に細い指先で手紙を広げると、透き通った声で、こんな風に読み始める。
「『今日のご飯はどうでしたか。市場ですごく丸々とした魚が売っていたので、それを買ってきました。もしも気に入らなかったら、ごめんなさい。でも、いつも同じものばかりだから、せめて少しでもいいものを食べてもらいたくて』」
え、と声が洩れた。
けれど、それにも構わず、悪魔は続ける。
「『もうすぐ季節も変わっていきますね。風邪を引いてはいませんか。お風呂の温度は、あれでちょうどいいですか。そういえば、庭に新しい花を植えました。図書室とあなたの部屋の前はもう一杯だから、随分裏手の方になってしまいましたが。もしよければ、家の裏の方も覗いてみてください。私たちのできる限り綺麗に整えてみたつもりです。それから、お家のなかで育てている花はどうですか? この間、窓辺に花を咲かせているのを見ました。育てるのが難しいと聞いていたので、少し驚いています。ミリスにはひょっとすると、お花を育てる才能があるのかもしれませんね』」
そこで、ふっと悪魔は声を止めた。
「……続きは、自分で読んでみる?」
ミリスは何度も頷いて、悪魔からその手紙を渡してもらう。それを読み切れば、机の引き出しを開けて、ずっと、ずっと長い間、溜めていた全てを。目に涙を浮かべながら、隅から隅まで、二回も三回も、日が暮れるまでずっと、読み続けていた。そうして、ようやく。ようやく、わかった。
自分の暮らしを支えてくれていた、顔も知らない人たちは。
自分が一番、傍にいてほしい人たちだった。
茫然として、ずっと手紙を眺めていたら、キッチンから食べ物の匂いが香ってきた。不思議に思って近づくと、悪魔が料理をしていた。いつも自分が作っているのと同じメニューで、けれど、それより少し量を多くしたものを。
そして、ありもしない本を暗唱するような口調で、背中を向けたまま、語り掛けてくる。
「『ひょっとすると、このまま誰もあなたに教えてくれないのかもしれないから、私がここで教えてあげましょう。人は、人に優しくした分、誰かに優しくされるようにできているのです。そんなわけがないと思うのなら、少しだけ、周りを見渡してみればいい。それでも何もわからないというのなら、私が教えてあげましょう。あなたが振りまいた優しさは、確かにあなたの周りで芽吹いているということを。……本当のことを言うとね、他ならぬ私がそうなんです。羊さん。私はあなたに優しくしたいと思ったから、こうして遠くからやってきたのです』」
振り向けば、やっぱり彼は笑っていた。
「さあ、お風呂の時間はとっくに過ぎてるよ。きっと君の大切な人たちは、もうこの家の周りにいるはずだ。いつもなら庭の手入れをしているはずの時間なのに、どうして今日は娘がお風呂に入る合図を見せないんだろうと不思議がってる。あるいは、ちょっと不安になってるかも」
「私……、」
「だから、ご飯を食べてから行くといい」
大丈夫、と慌てるミリスを手で制して、悪魔は言う。
「もう十年以上も待っているんだから、今さらどこかへ逃げてしまったりはしないよ。ゆっくり、お腹をいっぱいにしてから行くといい。だって何しろ――」
積もる話もたくさんあるだろうから、と。
絶対に間違いのないことを、悪魔は言って。
ミリスは、ひどく久しぶりに、人が作ってくれた料理を口にした。こんなに味気ないものを食べていたのか、とちょっと笑ってしまうようなものだったけれど、とにかく量だけは多かったものだから、随分満腹になって。
庭へと駆け出して、会いたい人の下へ、十何年ぶりに顔を見せに行って。
それからずっと、流れる星の下で語り合っていた。
ほとんどは、これまでのこと。これからのことを話す時間なんて全然見当たらなくて、いつの間にか朝が来て、またお腹が空いていたけれど。
大丈夫、とミリスは思った。
語り合う時間は、これからいくらでもあるのだから。
*
そして最後に。
「聖女様、血色が良くなりましたね」
「え」
「何かいいことでもありましたか?」
まさか、と答えた。あの家の中にずっといるのに、今さらそんなことなんて起こりませんよ、と。
三ヶ月が経ってから、また聖血を採取する儀式に連れ出されて、ミリスは医者の男と向き合っていた。
でも、とミリスは言う。
「少しだけ、食事を変えたんです。今まではずっと同じものばかりを食べてきたんですけど、一品二品くらい、毎日少しずつ変えるように……」
「ああ、そうですね。そういえば、そんな報告が……」
言いながら、男は鞄の中を探る。綴じられた紙束を取り出して捲って、
「ああ、そうですね。うん、すごくいいと思います。栄養面も変わらず完璧ですし、やっぱり食が整ったことで精神面からいい影響があったんですかね。よければいくつかこちらでもレシピをお渡ししましょう。ずっと前から溜め込んでいたものがあるんです」
ええ、とミリスは曖昧に頷いた。たぶん、理由はそれだけじゃないと思うけど、でも、医者の男に言っても仕方のないことだと思うから。
そういえば、と男は言った。
「あれから悪魔はどうなりましたか」
一瞬、戸惑った。
三ヶ月も前のことだから、どんな風に伝えていたかを思い出すのに、少し時間がかかった。確か、別に自分は見ていないという形で話していたはず。だからきっと、この質問は『気になっていたことは解消されましたか』という意味だと受け取って、
「ええ、おかげさまで」
「そうですか。それなら悪魔も本望というものでしょう」
あれ、と引っかかって。違った、と思い出した。
そうだ、確かあのとき、最後の会話は『悪魔に屈してみたらどうですか』で終わったはずなのだ。それに『おかげさまで』なんて返したら、悪魔の言葉に従って生活しています、という風に聞こえてしまう。実際それはある程度事実なのだけど、外聞が悪い。慌てて訂正しようとして、ふと。
医者の男の黒髪に紛れて、何かが見えたような気がした。
まさか、と思った。思ったけれど、でも。
それでも、気になったから。
「あの……一つ、訊いてもいいですか」
「はい。一つと言わず、三つでも四つでも構いませんよ」
変なことかもしれないんですが、と前置きをして、
「一番好きな飲み物って、なんですか?」
「チョコレートミルクです。……それが何か?」
まさか、と何度も思うのだけど。
でも、これってほとんど確信で。
「悪魔って、」
「おや、本当に二つ目ですか」
「はい。……悪魔って、その人の本当の心だって言うのなら、もしかして性別は、その心の持ち主と同じなんでしょうか」
「場合にもよりますが、一般的にはそうなることが多いようですね。もっとも、悪魔が本当に人の心なら、という前提に立てばですが」
そして、一番最後に。
こればっかりは、きっと普通に生きてきたって、今の年齢の自分はやったことのないことだろうから。
だから、すごく勇気を振り絞って、ミリスはこう言った。
「その……、髪の毛を、触らせてもらっても、いいですか?」
男が手を止めた。血液の小瓶を鞄にしまい込んで。不思議そうにミリスを見て。中途半端に持ち上げられて震えている彼女の手を見れば、ふっと笑って。
唇に手を当てて、こんなことを言う。
「二人だけの、秘密ですよ?」
そのあとミリスの指先にどんな感触がしたか。
もちろんそれだって、二人だけの秘密だから。
だから、教えてあげない。
(了)