第7駅 薄荷色の輪舞 — 記憶の広場
夜行バスは、霧のヴェールに包まれた緩やかな丘陵を静かに昇っていた。
窓の外では、街の灯りが遠くに沈み、夜の空気が薄く甘い香りを帯び始めていた。毎夜0:00に現れるバスに乗り、灯也は他人の「失くしたもの」を見届け続けている。胸の奥の空洞が、今夜は特に鋭く疼いていた。
バスが緩やかに速度を落とし、丘の上の開けた広場に静かに停まった。
車体前方の電光掲示板が、淡い薄荷色の光を夜風に溶かしている。
『薄荷色の輪舞』
扉が音もなく開いた。風のないのに、広場全体が静かに息づいていた。地面から淡い薄荷色の粒が無数に浮かび上がり、目に見えない旋律に導かれるように、ゆるやかに輪を描き続けている。光は儚く、しかし決して散らず、絡み合い、解けては再び結ばれる——まるで、忘れられた記憶が形を求めて踊っているかのようだった。
灯也は広場の端の木陰に立ち、息を潜めた。
広場の中心近くに、白いワンピースの裾を夜露に濡らしながら立つ少女の姿があった。十歳ほどの、星野 葵。頰はまだ幼く、瞳には大人びた影が宿っていた。彼女は一人で、足を少しずつ動かしながら、薄荷色の光の粒に合わせて小さなステップを踏んでいた。
やがて、光の粒が集まり、もうひとりの少女の輪郭を優しく形作った。
鈴木 美咲——葵の親友で、すでにこの世にいないはずの少女だった。
美咲は生きていた頃と同じ、しかしどこか透明で自由な笑顔を浮かべて手を差し伸べた。
「来てくれたんだね、葵」
二人はゆっくりと輪舞を始めた。光の粒が周囲を包み、足元で花びらのように舞い上がり、夜の闇を優しく溶かしていく。少女たちの足取りは軽やかだったが、葵の表情にはどこか緊張があった。
葵が囁くように言った。
「美咲……ずっと、またこうして踊りたかった。学校の帰り道、二人で秘密のステップを踏んだあの時間のように」
美咲はくるりと回り、笑顔を見せた。
「うん。ここでは何も怖くないよ。テストの点も、親の期待も、体の痛みも、全部ない。ただ、こうして踊れるだけ」
葵の足が、ふと止まった。光の粒が二人の間を照らす。
「美咲……生きてたときより、ずっと楽しそう」
美咲の笑顔がわずかに翳った。子供らしい素直な表情で、ぽつりと言った。
「うん。生きてるって、すごく重かったよ。でも……葵は私を思い出しすぎだよ」
葵が息を詰めた。
「え……?」
美咲はくるりと回りながら、子供らしい口調で続けた。
「私、もう思い出になりたいの。ずっと悲しんでる葵を見てるの、辛いんだ。ランドセルもまだ卒業してないのに、ずっと『美咲は死んだ子』として覚えててほしいの?」
葵の目に涙が浮かんだ。
「だって……最後に喧嘩しちゃったから」
美咲の動きが止まった。
葵は声を震わせて、抑えていた後悔を吐き出した。
「美咲が死んだ日……『もういいよ、そんな顔して』って言っちゃった。美咲が痛がってるのに、横で元気なふりをしてるのが辛くて。『もう笑わなくていいよ』って。最後があんな言葉で……ずっと、許してほしいと思ってた」
美咲は少しの間、静かに葵を見つめていた。子供らしい素直さで、目を伏せた。
「私だって死にたくなかったよ。まだ遊びたかった。明日の時間割を考えるのも嫌だった。お母さんを心配させたくなくて、葵の前で元気なふりをするのも、すごく疲れてた。でも……死んでみて、初めてわかった。生きることは、こんなにも息苦しいことだったんだね」
葵の涙がこぼれた。
美咲は光の粒に包まれながら、子供らしい声で続けた。
「私、葵の前でいつも笑ってたけど、本当は怖かった。痛いのも、息が苦しいのも、全部我慢してた。死んで、初めて『もう我慢しなくていいんだ』って思えた。でも……葵がこんなに重い顔をしてるのを見ると、嬉しくないよ」
二人の周りを光の粒が激しく輪を描き始めた。夏の夜のラムネ色に近い、透明で儚い光が、記憶の色のように二人の間を巡る。
葵が泣きながら言った。
「ごめん……私、美咲の分まで生きなきゃって思ってた。でも、重くて、たまに逃げ出したくなる」
美咲は優しく微笑んだ。ただ子供らしい優しさで。
「私の分まで生きて。でも、無理に重く抱えなくていいよ。時々、こうして思い出して、笑って。それでいいんだ。私、もう『死んだ子』として重く覚えられなくても、いいよ。ただ、時々『あのとき一緒に遊んだね』って、軽やかに思い出してくれれば」
光の粒が一瞬、強く弾けた。美咲の姿がゆっくりと無数の光となって夜空に溶けていく。
最後に、美咲は広場の端の木陰に立つ灯也の方を、ふと見た。
「ねえ、お兄さん」
灯也が息を詰める。
「あなたも、誰かを置いてきた顔をしてる。忘れたくない人がいるんでしょう? でも……その人も、きっと『重く覚えられなくてもいいよ』って思ってるかもしれないよ」
光が完全に溶け、美咲の姿は消えた。
残された光の粒は、なおも静かに輪を描き続けている。
葵は膝をつき、声を殺して泣いた。肩が細かく震え、白いワンピースの裾が夜露と涙で重く染まる。
やがて葵は立ち上がり、広場の端へゆっくり歩き出した。その小さな背中を、残された光が優しく照らした。
灯也は一人、木陰に残された。胸の奥の空洞が、薄く甘く、しかし鋭く疼いていた。
生きることは重い。死ぬことは解放される。どちらも痛い。でも、忘れられたくない誰かを、時には軽やかに思い出せること——それが、残された者にとっての、ささやかな救いなのかもしれない。
バスは再び動き出した。窓の外、丘の上の広場がゆっくりと遠ざかっていく。記憶の色をした光の粒が、夜風に乗り、灯也の視界の端でまだ静かに踊り続けているように見えた。
灯也はシートに深く身を沈め、胸に手を当てた。
そこにある空白が、わずかに軽くなった気がした。
夜はまだ深く、薄荷色の輪舞は、記憶の奥で、いつまでも静かに続いている——。




