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第6駅 足音の行き先 — 路地の幻

夜行バスは、街の裏側を静かになぞるように走っていた。


窓の外では、街灯の光が濡れた路面に細い金の線を描き、その線はまるで灯也の胸の奥にある空白をなぞるかのように、ゆっくりと揺れていた。霧が低く立ち込め、路地の隅々に干からびた時間が積もっている。風が吹くたび、それらは小さく音を立てて崩れ、夜の闇に溶けていく。古いビルの壁にへばりついた看板の文字はすでに色褪せ、誰も読まなくなった広告が、まるで忘れられた時間の墓標のように並んでいた。


隣の席に、老いた野良猫が座っていた。


灰色の毛並みはところどころ白く抜け、耳の先が少し欠けている。体は瘦せ細り、かつての敏捷さは影を潜めている。灯也が隣に腰を下ろすと、猫はゆっくりと顔を向け、かすれた、しかし不思議と澄んだ声で語り始めた。


「足音が消えるってのはな、誰にも気づかれなくなるってことだ」


その声は猫のものとしては不思議に人間的で、しかしどこか路地の湿った空気そのもののようにも聞こえた。灯也は黙って聞いた。猫の瞳には、夜の路地の色が映っている。黄ばんだ街灯の光と、遠い記憶の残光が混ざり合ったような、複雑な輝きだった。


猫は続けた。


「元々、俺の足取りは小さかった。猫ってのは、そもそも音を立てずに歩く生き物だろう。肉球が地面を優しく撫でるだけで、ほとんど何も響かせない。だがな、音ってのは物理だけじゃねえ。誰かが耳を澄ますことで、音になることがある。お前が窓を開けて、俺を見て、名前を呼んでくれたとき、俺の小さな気配が音になった。お前の目が、俺の存在を音に変えてくれたんだよ」


灯也の胸の奥で、幼い日の記憶がひとつ、ゆっくりと浮かび上がる。小さな手が窓の桟に触れ、牛乳の匂いが夜に溶けていたあの時間。彼は名前などないはずの猫に、「クロ」と呼びかけていた。毎晩のように窓辺に座り、路地を眺めながら、誰にも言えない寂しさを、ただ猫の気配に預けていた。


猫は静かに語り続ける。


「お前が大きくなって、窓を開けなくなった。学校やら勉強やら、友達やらで、夜にいることが減った。誰も耳を澄まさなくなった瞬間、俺の気配は音になれなくなった。路地を歩いていても、自分の存在が薄れていくのがわかった。誰かの記憶に触れて初めて、存在は音になるんだ。忘れられるってのは、そういうことだ。音が消えるんじゃねえ。誰かに聞かれる機会が、永遠に失われるんだ」


猫の言葉は説明ではなく、路地の湿り気のように灯也の胸に染みた。足音が消えるというのは、物理的な音が消えることではない。誰かに「そこにいる」と認められることが途絶えることだ。灯也は自分の幼い頃の孤独が、いつのまにか誰にも見えない影になっていたことを、はっきりと感じた。あの頃の自分が、窓辺で猫を待っていた時間は、本当は猫が彼を待っていた時間でもあったのかもしれない。


バスが緩やかに減速した。


車体前方の電光掲示板が、淡い光を夜の霧に落としている。


『足音の行き先』


扉が音もなく開いた。


外は、灯也が幼い頃に住んでいた古いアパートの路地だった。錆びた階段、割れた窓ガラス、薄暗い廊下。懐かしいはずの景色が、どこか遠い夢のようにぼんやりと浮かび上がっている。路地の端には、当時と同じように古い自転車が倒れていて、時間だけが止まっているかのようだった。


猫はゆっくりと立ち上がり、扉の前に歩み出た。踏み出すたびに、その影が薄くなっていくように見えた。肉球の気配はほとんどない。だが灯也には、かすかに、懐かしい振動が胸に響いてくるような気がした。


灯也は問いかけた。


「お前は、誰なんだ?」


猫は振り返らずに答えた。


「俺は、お前の忘れた孤独だよ。お前が夜に窓を開けてくれたとき、俺はそこに座っていた。お前が成長して、孤独を閉まい込んだとき、俺は音を失った。忘れられることも、抱えられることも、どちらも優しさの形だ。お前が忘れていったものを、俺はずっと抱えていた」


その言葉は責めでも慰めでもなく、ただ静かな事実として置かれた。猫は一歩、路地に降りた。足音はない。だが灯也の胸に、かすかな振動が戻ってくるような気がした。忘れていた何かが、音にならずとも確かにそこにあることを、彼は感じた。


猫は小さく呟いた。


「もう、鳴かなくてもいい。お前が覚えているかどうかじゃなくて、俺はここにいたってことだけでよかったんだ」


その言葉とともに、猫の姿は夜の霧に溶けるように消えた。影だけが、灯也の足元に残り、ゆっくりと彼の影と重なっていく。まるで、長いあいだ別々にあったものが、ようやく一つに戻るように。


バスは再び走り出す。窓の外、古い路地がゆっくりと遠ざかっていく。灯也は胸に手を当てた。そこにある空白が、静かに疼き、少しだけ形を変えた。


――俺は、いつから自分の孤独を忘れようとしたのだろう。


夜は静かに続いていく。


街のどこかで、またひとつ、誰かの足音が音にならずに消えていった。

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