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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧
第一部 終点はまだ来ない

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13/19

第13駅 風の止まる場所 — 静止した頂

夜行バスは、夜の底を吹き抜ける風に逆らいながら、緩やかな丘を静かに昇っていた。


窓の外では、木々が激しくざわめき、谷間を渡る風の音が車体を包み込んでいた。灯也はシートに体を預け、胸の奥の空白が今夜は特にざわついているのを感じていた。風の音に紛れて、ずっと聞き流してきたものが、耳の奥で低く響いている。


バスが緩やかに停まった。


丘の頂上は、夜の底に浮かぶ島のように、完全な静寂に包まれていた。さっきまで木々の葉を激しく揺らし、谷間を渡っていた風が、唐突に息を止めた。虫の声も、遠い街の残響も、すべてが消え失せた。世界から音が抜け落ち、時間そのものが息を潜めたような、底知れぬ静止。


灯也は冷たい空気に包まれながら、丘の頂に降り立った。


そこに、四十七歳の男が立っていた。岡田おかだ 悠人ゆうと。背広の襟はくたびれ、肩は長年の疲労で深く沈み込んでいる。彼はゆっくりと両手を広げ、まるで自分を抱きしめるように胸の前で凍りつかせた。


「ここは『風の止まる場所』だ。ここに来ると、全部、見えてしまう」


声は風のない空気に吸い込まれるように小さく、しかし骨の髄まで響いた。


風が止まった瞬間、周囲の闇に淡い光の文字が浮かび上がった。それは悠人がこれまで、風の音に紛れさせてきた本当の声だった。光の文字は一つでは終わらなかった。夜空に浮かぶ文字は次々と増え、丘の上をゆっくり漂い始める。


『休みたい』


『一人になりたい』


『誰か気づいてくれ』


『本当は怖かった』


『助けて』


どれも小さな文字だったけれど、その一つ一つが悠人の身体を切り裂くようだった。悠人は目を閉じた。「全部、俺だ」かすれた声で呟く。「口には出さなかった。でも毎日思っていた」文字は風のない夜に浮かび続け、消えない。忘れていたはずなのに、何一つ消えていなかった。


「風って便利なんだ」


悠人は呟いた。


「強い風の日は、何も聞こえなくなる」


木々が鳴る。窓が揺れる。空気が唸る。

その中では、心の声なんて簡単に消える。


「俺は何十年も、自分で風を起こしてた」


残業。仕事。責任。義務。忙しさ。心配。不安。

考え続けること。動き続けること。立ち止まらないこと。


「全部、風だった」


悠人の視線が遠くへ向く。


「息子が小学生の頃だった」


静かな声だった。


「運動会に来てくれって言われた」


灯也は黙って聞いていた。


「仕事だった。どうしても休めなかった」


悠人は苦く笑う。


「いや、本当は違うな」


空を見上げる。


「休めたんだ」


しばらく沈黙が続いた。


「休む勇気がなかった」


光の文字が浮かぶ。


『ごめんな』


「結局、息子の競技は見なかった」


『本当は見たかった』


「帰宅したら賞状を見せてくれたよ」


悠人は小さく笑う。


「嬉しそうだった」


その笑みは、すぐに崩れた。


「なのに俺は仕事の話しかしなかった」


光の文字が、悠人の身体の周りをゆっくりと回り、長い間封じ込めていたものを容赦なく暴き立てるように、彼の顔を照らした。隠し続けたものが剥き出しになる痛みと、ようやく認められた安堵が、同時に表情を激しく歪めた。


「妻に、もう疲れたと言えなかった本音」


「息子に、ごめん、父親として失格だと言えなかった弱さ」


「鏡の中の自分に、本当は生きていたくないと叫べなかった絶望」


「毎日、笑顔を作りながら、心の底で死にたがっていた事実」


悠人は膝をついた。

地面の冷たさが掌に染み、骨まで冷やす。


光の文字が一つずつ、彼の胸の奥深くに沈み込んでいく。長い間外に置き去りにしていた自分が、ようやく帰ってくるような、重く、痛く、しかし確かに温かい感覚だった。


灯也は少し離れた木陰から、

その光景をただ見つめていた。


自分の胸の奥でも、何かが静かに、しかし確実に剥がれ落ちていく。風に紛れて隠し続けてきた、名前も顔も思い出せない誰かへの想い。灯也自身が、ずっと「大丈夫だ」「問題ない」と言い聞かせてきた偽りの声が、この風の止まる場所で、初めて剥き出しにされ、はっきりと聞こえてくる気がした。


灯也は胸を押さえた。

風が止んでいる。

だから聞こえてしまう。


自分の声が。思い出せない誰か。失ったはずの記憶。ずっと空白のまま残っている場所。その奥から、かすかな声が聞こえた気がした。──本当に? 灯也は顔を上げた。誰もいない。だが確かに聞こえた。


──本当に大丈夫だったの? 胸の奥が軋む。今まで何度も自分に言い聞かせてきた。大丈夫。問題ない。忘れた。終わったことだ。けれど。風が止まると、その言葉は驚くほど脆かった。


悠人はゆっくりと立ち上がった。頰を伝うものは、涙か、それとも風の残した最後の冷たい雫か、わからない。


「風に紛れさせていた『本当の自分』……俺はそれを、ずっと失くしていたんだ。風が止まる瞬間、ようやく気づいた」


風が、再び吹き始めた。最初は弱く、しかし次第に勢いを増していく。光の文字は夜の闇に溶け、木々がざわめき、谷間の音が戻ってくる。世界が再び、容赦なく動き出した。


悠人は静かに微笑んだ。


その笑みには、深い疲労と、ようやく重いものを手放した解放が、静かに混ざっていた。


バスへ戻る直前、

灯也は一度だけ丘を振り返った。


悠人の姿はもうない。だが、風は吹いていた。先ほどまでの風とは違う。何かを隠すための風ではない。何かを運ぶための風だった。灯也は目を閉じた。風が頰を撫でる。その音の奥に、まだ聞きたくない自分の声がある。けれど今は、少しだけ耳を澄ませてみようと思った。


夜行バスの扉が閉まる。

エンジン音が静かに響く。


夜はまだ深い。風は吹き続ける。だが、一度でも風の止まった世界を知った者は、もう二度と、自分の声が存在しないふりだけはできないのかもしれなかった――。

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