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『夜行バス 0:00発 終着なし』忘れたはずの喪失が、今夜も隣の席に座る  作者: 比古狭霧


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12/17

第12駅 反射する絵画 — 歪んだ洋館の回廊

夜行バスは、雨上がりの坂道を静かに上っていた。


窓の外では、路面が黒い鏡のように街灯の光を長く引き、すべての景色を歪めて映し出していた。世界そのものが、ゆっくりと自分の姿を塗り替えようとしているかのようだった。灯也はシートに体を預け、窓に額を寄せていた。胸の奥の空洞が、今夜は特に重く、ざわついていた。いつも隣にいるはずの影の旅人がいない。その空白が、かえって彼の内側を深くえぐる。


バスが『反射する絵画』で静かに停まった。


古い洋館が丘の上に佇んでいた。壁は磨かれた鏡のように夜景を歪めて映し、館の入口には小さな看板がかかっている。灯也は重い扉を押し開け、薄暗い廊下へと足を踏み入れた。


廊下の両側に、無数の絵画が掛かっていた。すべて人物画。だが、どれも生きていた。描かれた人物が息をし、瞬きをし、時折こちらに視線を向ける。空気は古い油絵具と埃の匂いに満ち、足音が吸い込まれるような静けさだった。


灯也は一枚の絵の前に立ち止まった。


そこに描かれていたのは、三十代半ばの女性だった。神崎かんざき 玲奈れな。彼女はすでに館の中にいた。玲奈は壁の一枚の前に立ち尽くし、震える指で額縁に触れていた。


「全部、私……」


玲奈の声は小さく、かすれていた。


灯也は少し離れた位置から彼女を見守った。玲奈は肖像画家だった。依頼主の望む顔ばかりを描き続け、いつしか自分自身の顔すら分からなくなっていた。


壁一面に、玲奈の姿が並んでいた。


ある絵は、完璧な笑顔の「理想の娘」

ある絵は、優しく包み込む「理想の妻」

ある絵は、自信に満ちた「理想の社会人」

ある絵は、華やかで成功者の「理想の芸術家」


どれも美しい。

どれも嘘だった。


玲奈は一枚の絵の前に跪いた。その絵の中の自分は、完璧に化粧をし、完璧に微笑んでいた。


「これが、私だって……信じてた」


絵の中の玲奈が、ゆっくりと目を細めた。


「あなたは私たちを描いた。でも一度も自分を描かなかった」


声は玲奈自身のものだったが、どこか冷たく、遠い。


「依頼主が望む顔、売れる顔、好かれる顔……あなたは毎回、違う色を選んだ。本当の色を、怖がって隠した」


玲奈の肩が震えた。


廊下の奥では、額縁たちが小さく呼吸していた。油絵具の匂いに混じって、乾ききらなかった涙の匂いがする。誰かに見せるために描かれた顔。誰にも見せられなかった顔。それらが何十年も、ここで静かに乾き続けていた。


別の絵が動き始めた。高校時代の玲奈。美しくもなく、笑ってもいない。ただ絵筆を持って、窓辺で集中しているだけの姿。


その絵だけが、静かに言った。


「描きたかったのは、これでしょう?」


玲奈は崩れ落ちた。涙が頰を伝い、床に落ちた瞬間、壁の絵画たちが一斉に淡い光を放ち始めた。偽りの顔たちが、次々と色を失っていく。


「もう、偽らなくていい」


最後に残った本物の絵が、優しく微笑んだ。


玲奈は長い間、床にうずくまっていた。やがてゆっくりと立ち上がり、灯也に一瞬だけ視線を向けた。彼女の目は、初めて本物の色を取り戻したように澄んでいた。


玲奈が去った後、館は再び静かになった。


灯也は一人、廊下の中央に立った。すると、壁の最後の一枚が淡く光り始めた。


そこに映っていたのは、灯也自身だった。

しかし顔だけがぼやけ、輪郭が揺れていた。


「……誰だ?」


灯也は呟いた。


絵は答えない。ただ、幼い頃の灯也の輪郭だけが一瞬浮かび上がり、すぐに溶けた。


「まだ思い出さなくていい」


その言葉だけが、静かに響いた。


灯也は胸に手を当てた。空洞が、初めて自分の形を、はっきりと浮かび上がらせたような気がした。


無数の偽りの自分が、ようやく色を失い、還っていった後の、ひやりとした静寂だけが残っていた。


やがて、彼はゆっくりと出口に向かった。夜風が頰を撫で、遠くの街灯がまだ歪んで見える。反射する絵画は、すべてを映し、しかし何も映さない鏡のように、彼の内側を静かに問い続けていた。


本当の自分を、いつか取り戻せるのだろうか——

その問いすら、まだ絵の具が乾いていないように、胸の奥で揺れ続けていた。


バスは再び動き出した。窓の外、古い洋館がゆっくりと遠ざかっていく。灯也はシートに深く身を沈め、胸に手を当てた。そこにある空白が、初めて少しだけ、自分の色を取り戻した気がした。


夜はまだ深く、反射する闇は、静かに次の姿を待ち続けている——。

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