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月香姫を探して  作者: 流山晶
第二章:豊穣祭
19/52

追う者と追われる者

 通りから小路を窺っているエドワード・ヒルシュのそばには、ローブを羽織ったビックママと長剣を佩いたヒロシ・グエンがいて、辺りを警戒している。その小路の一番奥に扉があり、申し訳程度の小さな看板から薬問屋と知れる。対石の光り方から、カナに持たせた練習用の剣がこの問屋の中にあるのは間違いない。

 商人の風体をした部下が三人、エドの元にやってくる。

「裏口を固めてくれ」

というエドの指示に

「すぐには、難しいのですが」

と部下が難色を示す。裏口を探し当てるのが難しいのだ。

 王都シエーナの中でもこの辺りは、無計画に建物を建て増しして街を築いたという経緯から、街は複雑怪奇な構造をとっている。一体、どこからどこまでが一軒なのかがわからないのはまだいい方で、入口がどこにあるのかわからないような家もある。そんな街だから、薬問屋の裏口がどこにあるのかはもちろん、裏口があるのかさえ怪しかった。

「とにかく、六七人連れて行って周りを囲んでくれ」

水も漏らさぬ包囲網が無理であるのはいたしかたない。肝要なのはカナを安全に確保すること。拙速はやむをえまい。


エド達が足音を忍ばせて扉の前に立った。と、その時

『おい!』

『キャっ!』

『バン!』

『くそっ、お前はここにいろ!』

扉の向こうから音がする。

 青ざめたエドがすぐさま扉を開けようとしたが、扉はうんともすんとも言わない。扉をドンドン叩き、

「警備隊だ。開けろ! すぐに開けろ!」

と叫ぶが反応はない。

「くそっ、突入だ!」

いつも冷静なエドも、この時ばかりはあせっていたようだ。扉に体当たりするが、丈夫な樫の扉はびくともしない。

「バールでこじ開けろ!」

エドの指示に二人の部下が鉄の棒を持ち出し、細くなった先を扉の隙間に差し込む。てこの原理を利用するのだ。きびきび働く部下は、訓練を受けているのだろう。何度かの試行錯誤の後に簡単に扉を開けた。

 踏み込んだ一行の前に口髭を生やした男が茫然と立っている。

「あっ、お前はアリじゃないか!」

ヒロシが叫んだ。

「きょ、教官!」

アリの返事にはおびえとあきらめが混じっていた。

「誰だ、こいつは」

というエドの問にヒロシが答える。

「最近、アカデミーの厨房で働き始めた男です。アリ、こんな所で何をしているんだ」

「それは、その~」

エドがカウンターの上のナイフを見つける。黒月晶石の片刃のナイフである。

「カナのナイフだ。やっぱり、カナが居たんだ。どこへ行った?」

殺気だったエドに男は震えあがりながらも

「う、裏口から出て行きました」

と答えた。

「ホセ・ガルシアも一緒か?」

エドの問に男が頷く。


「対石の発光が弱くなっていきます。遠ざかっているようです」

部下の一人が報告した。

 エドはヒロシと部下に指示を出す。

「ヒロシ、それから、ケリー、私と一緒にカナ達を追う。一つずつ、対石を持つんだ」

対石の光の強さで標石が近いか遠いかを判断できるが、標石の方位は、試作品ではわからない。方位を見極めるには複数の対石を使えばよい。エドはそう考えて、二人に対石を持たせた。

 今度は、小瓶をビックママに渡しながら、エドは

「ママは、そいつに『真実の種』を飲ませてくれ」

と言った。本来なら、それなりの容疑が無ければ、自白剤となる真実の種を飲ませるわけにはいかない。が、カナの身が危ない今は、躊躇している暇はない。ビックママは黙って、小瓶を受け取った。

 エド達が荒々しく裏口の扉を開けて出て行く。ビックママはため息をついて

「というわけだ。洗いざらい吐いてもらうよ」

とアリに言い、ニヤリと笑った。


 ビックママの予想に反して、彼が語ったのは、青靴会の陰謀であった。事の重大さに彼女は頭を抱えることになる。

 アリは調理人であり、合格した新人巫女達の野外研修を担当することになっていた。野外研修は一種のサバイバル訓練である。訓練の一つが食べ物の確保であるが、野生の獣を捕える所までが新人巫女達の仕事で、それを捌いて実際に調理するのは、調理人の役目である。その時に、新種の『聞き種』を料理に混ぜるというのが青靴会の計画であり、アリはいわば実行犯である。

 聞き種は、他者の指示に従順になりやすくなると言う効能がある。また薬物依存性を示し、ひどい場合には、飲まされた者は奴隷と化す。人に対してそれを用いることは禁じられているが、家畜に対しては、時折用いられる。もっとも有名な用途は、早文を運ぶ伝書鳩への使用であり、大きな成果を上げている。

 聞き種は、独特の香りと味を持つため、人間がそれを好んで食すことはないし、誤って食すこともない。だから、聞き種の危険性はそれほど高くないと考えられており、禁制品でも規制品でもない。

 実際にアリが使う予定の種が店に保管されていた。それを調べて、ビックママは頭を抱えた。独特の香りと味がほとんどしないのである。

 聞き種の原料はある種のハスの実である。アリの吐いた情報によれば、この新種の聞き種では、香りと味の弱い特殊なハスを使っている。さらに、精製段階に今まで知られていない工程を入れて、香りと味を抑制しているらしい。

 香りと味がほとんどないから、気づかない内に服用させることができる。強固な依存性のため、服用した者が気づいた時には、種なしではやっていけない状態になっている。つまり、人が人の奴隷となる。これは何としても防がなければならない。そのためには、原料と工程を王国から抹殺しなければならず、簡単なことではない。

 まずは、首謀者を突き止め、捕まえる。そのために真実の種を飲ませたのだ。

 ビックママは、脱力状態で座っているアリの耳元でささやく。

「それじゃ、この聞き種は、いつ、誰から受け取ったんだ?」

アリが何かを思い出そうと顔を上に向ける。閉じられた瞼がぴくぴく痙攣し、白眼をちらちらと見せる。

「昨日、運送屋が持ってきました。木箱に入った種を持ってきました」

ビックママが改めて木箱の蓋をみると、宛先に店の名前が書かれてある。しかし、差出人の名前も住所も書かれていない。

 ビックママはため息をついて、尋問を続ける。

「誰が、指示したんだ? お前さんは誰の命令で動いているんだ? ホセ・ガルシアがお前さんに命令しているのか?」

「いいえ、ガルシア様ではありません」

「では、誰だ?」

「黒い……」

アリの返事がつかえる。何かを思い出そうとしているようだ。

「黒い? 黒い服を着ているのか? そいつの名前は?」

「名前はありません。黒い…… 黒いカラスです」

「はぁ? カラス?」

「カラスです」

「冗談だろう! カラスが喋るはずがない!」

「……」

ビックママの強い口調に、アリはビクっと肩を震わせ考え込む。そして、口を開いて、きっぱりと言う。

「カラスが喋ったかどうかは、覚えていません。ですが、カラスの指示で、準備をしておりました」

ビックママは、椅子にどっかりと腰を下ろし、腕組みをした。眉間にしわを寄せた彼女は近づきがたいオーラをまとっていた。

 この事件を契機に青靴会とアカデミーとの全面対決が王国内の各地で勃発することになるのだが、この時のビックママはそれを予感していた。


 ビックママは、カナの居た地下室を丹念に調べた。カナが受けた仕打ちを探ろうと思ったのだ。

 部屋に入って、すぐに、髪の焼けた臭い、肉の焦げた臭いに気づいた。

 テーブル上の飲みかけの紅茶は、まだ香りを残しており、カナが飲んでから一刻もたっていないことがわかる。ビックママは紅茶を一口含んで、何が入っているかをすぐに理解した。筋弛緩作用と幻覚作用を持つ夢種の一種である。これも聞き種と同様に独特の香りと味を持つはずであるが、紅茶では、香りと味のバランスが普通と異なることから、味と香りが抑制されているのかもしれない。

 もし、カナがこれを飲んだとすれば、最悪、酩酊状態になっているはずで、逃げることはできないはずである。

 カナが座っていたと思われる椅子には捕縛用の蔓が仕掛けられていたが、どの蔓も鋭利な刃で切られている。クリスから譲り受けた黒月晶石のナイフを使った可能性もあるが、あれは、一階にあったから、別にものを使ったはずだ。

 一体、この部屋でカナとホセと呼ばれる男の間に何が起きたのか。普通に考えれば、紅茶を飲ませて、動きが鈍くなった所で、からくり蔓で捕縛し、黒月晶石のナイフを取り上げたと推測される。

「ならば、いったいカナはどうやって逃げだしたのか? ホセの気が変わって、カナを逃がしたとは考えにくいし……」


 ビックママは、もう一度、部屋の中を見回して、二つのものを発見した。一つは、一部が焼けて灰になった蔓である。もう一つは柄が異様に光っている紅茶用のスプーンである。


 おそらく、カナは捕縛していた蔓を焼き切ったのであろう。髪と肉の焦げる臭いは、蔓と一緒に焼けた髪と皮膚の臭いと考えられる。

 蔓を焼くにはその中に含まれている精霊素を燃やせばいい。ただし、蔓が生きている状態では、その中の精霊素は蔓の記憶をもち、人間がその精霊素を簡単に燃やすことはできない。つまり、精霊素は宿主の指示には従順に従うが、そうではない者には簡単には従わない。この世界では、自明なことである。

 その宿主の意向や記憶に逆らって、精霊素を支配下に置くのが術師と呼ばれる精霊使いの仕事である。だから、術師には精霊素を従わせるだけの力と集中力が要求される。一方、巫女は、宿主のために精霊素を活性化するから、ある意味、術師とは逆のことをする。

 このからくり蔓の場合は、からくりとして動作するよう術師が精霊素を仕組んでいるから、宿主である蔓の記憶は上書きされて消えているはずである。術師の指示をさらに上書きすることによって、初めてそれを燃やすことができる。術師としての才能が無ければ燃やすことはできないが、飛び抜けた才能が要るわけではない。

 ビックママは、一年ほど前に家にやってきた黒衣の剣士を思い出していた。

「確か…… リョウ・カンザキと名乗っていたな」

怪しい男と思って、葛の仕掛けを使って捕縛したのだが、一瞬で葛の中の精霊素を燃やして葛を粉砕した。術師としては、一流以上の能力であった。さすがに、今のカナにはそこまでの力はないから、徐々に燃やして、その際、自らの皮膚を焼いたのだろう。自由になった手でナイフか何かを使って残りの蔓を切ったのだろう。

 ビックママは、紅茶用のスプーンを吟味した。柄のふちがキラキラと光を反射している。試しに、テーブルをこすってみると傷がつく。カッターナイフのようなものである。キラキラ光っているのは結晶化した精霊素、一種の月晶石であるから、刃のように硬い。カナが使った技は、いわゆる『鋭変』と呼ばれる剣術の奥義である。空気中の精霊素を刃先に結晶化させ、刃を鋭くする技である。

「カナ、お前さんの才能と知恵には感心するよ。だから、死ぬんじゃないよ。お前さんはあたしにとって……」

つぶやきの最後は声にならなかった。彼女の想いと期待は、短い言葉にできるほど浅いものではなかったから。


     *    *     *     *


 左手に練習用の剣を持って、カナが小路を駆けていく。胃がキリキリと痛み、右手首は火傷でただれているが、そんなことにかまっていられない。いくつもの曲がり角と分岐を走り抜けて、たどり着いた先は行き止まり。最後の分岐まで戻るべきなのだろうが、ホセに追いかけられているカナには、それも適わない。

 上を見上げると、三階建の家屋が連なっている。窓枠や小さな庇に手をかけ、足をかければ、登れるかもしれない。

 視線を石畳にやると、一か所だけ、金属の取っ手がついた石が目に入る。おそらく、下水道への入り口、いわゆるマンホールなのだろう。

 上か下か。判断に迷うが、自分には下の方がふさわしいとカナは考えた。

二つの取っ手を両手でつかんで、腰を落として、ふんっという気合とともに五十センチ四方ほどの石を持ちあげる。幼児二人分ぐらいの重さはありそうだ。

 カナの視界にホセが映る。

「ふふふっ、行き止まりですね」

殺気をはらんだ眼光は、眼鏡を通しても圧力を持っている。ホセは腰に差した細身の直剣をゆっくりと抜く。手入れの行きとどいた両刃は街灯を反射して妖しい光を放つ。

 カナは、石を持ったまま、ぐるんと一回転し、その遠心力を使って、ホセの方へ放り投げた。丁度、ハンマー投げのように石を飛ばした。

 十メートル以上の距離を真っ直ぐに飛んでくる石。

「な、なに?」

冷や汗をかきながらもホセは紙一重で石をかわす。石は背後のブロック塀に激突し、ゴンという大きな音ともに、砂塵が四方八方に飛ぶ。ホセは思わず目をつぶった。

 砂塵が収まると、ブロック塀が両手の幅程、崩れていた。

「象なみの馬鹿力か」

振り返るとホセが悪態をついた相手は、すでにいなくなっていた。

「くそっ! リスなみのすばしっこさか」


 穴に飛び込んだカナは下水道特有の臭いに顔をしかめながらも、すぐにあたりを探った。足元には、くるぶしの上まで汚水が流れている。人の背丈よりやや高い天井、両手を広げれば触れるぐらいの幅の四角いトンネルが続いている。そこを十歩ほど歩いた所で、何も見えなくなった。穴をとおして入ってくる光もそこまでしか届かない。

 立ち止まるわけにはいかない。カナは、目をつぶり息を止めた。頭の中で周囲を『探る』。路はしばらく真っ直ぐ続き、右へ折れている。小さな水路がいくつも注ぎ込んでいるが、人が通れるほどの路は他にない。

 目を開けて、あっと小さな声を上げた。カナの髪が淡い紫色の光を放ち、それが周囲を照らし出しているのだ。

「そうか、これを明かり代わりにすればいいのね」

 足元に気を使いながら小走りに下水道を行くカナ。追手を撒けると期待して、分岐を適当に選んで進んでいく。カナの作る水音は、下水道に注ぎ込むいくつもの水音に埋もれて目立たないから、音を目印にすることはできないはずである。

 ホセは紫色の弱い光を追った。そして、二人の距離が徐々に縮まっていく。決して、カナが遅いのではない。ホセはまるで明るい路を行くかのように駆けているのである。


 次第に近づいていく殺気にカナは立ち止り振り返った。

 暗闇から大きく見開いた一対の瞳が現われる。ゆっくりと近づく人影は、妖しげな光を放つ一振りの剣を下げている。

「しまった」

髪の光は、カナの明かりになるとともに、ホセにとっては目印となったのだ。だから撒くことができなかったとカナは気づくが、気づくのが遅すぎた。

 カナは、髪の光を意識して消した。そうして、そうっと後ずさりした。これなら、ホセも闇の中だ。カナは『探り』で周囲とホセを把握する。

 ところが、ホセは止まらない。なぜと思うカナにホセが答える。

「不思議か? 闇をも見通す視力、それが嗅覚の代わりに得た力。妖変の力だ」

「そんなことが……」

「そんなことがあり得るんだ」

闇の中でホセがニヤリとしたような気がした。カナが吐く息、吸う息、心臓の鼓動までもが、見られている気がした。

 無音で一足の間合いまで近づいたホセが、やはり無音で直剣を正眼に構えなおす。カナは、練習用の剣を鞘から抜き、片手で正眼に構える。左手の鞘を静かに離した。ぽちゃっと音を立てて水に落ちた鞘が下流へと静かに流れて行く。

「鞘を捨てるのですか?」

そう言われてカナははっとした。鞘を粗末にする者は命を粗末にする者、生きる意思のない者だとエドに言われたことがあった。抜いた剣を再び鞘に戻す気がないから鞘を捨てるのだと。

「では、望み通り殺して差し上げましょう」

ホセはそう言って、一気に間合いを詰めて、必中の突きを放つ。

 カナは上体をずらしながら、自分の剣を合わせて、突きをいなす。わずかに軌道がずれたホセの剣がカナの左ひじをかする。カナは、すぐにバックステップで間合いを確保する。

「まぐれですか」

ホセが静かに呟く。カナは左ひじから血が垂れるのがわかった。恐ろしく切れ味のよい剣である。

 上段から振り下ろされる重い塹撃を剣で合わせる。その途端に、ホセの剣はまるで鞭のようにしなり、カナの体を叩き、浅い傷を作る。硬い剣がしなるはずはなく、ホセの手首の動きが特別なのだろう。

 神速の刺突としなるような塹撃のコンビネーションがホセの技である。カナは何とか防御する。

 漆黒の闇の中で剣戟音だけが十合、二十合と響く。

 二十合も凌げば、自信と油断が生まれる。もし、ホセが旅団一の剣の使い手と呼ばれていたことを知っていれば、カナは油断はしなかったかもしれない。

 刃引きした練習用の剣でも鋭変を施せば切れるはずである。そう考えてカンター攻撃を狙おうとした時に、カナは、ホセのフェイントに引っかかってしまった。

 上段から塹撃と見せかけて、ホセは剣を引いて空を切らせた。その直後の突きにカナの対応が遅れた。その結果、左肩に剣が深く刺さった。すぐに大きく間合いをとる。

「うっ」

カナは痛みに小さなうめき声を漏らした。

「おかしいですね。これだけ防がれるとは…… 見えているのですか?」

ホセが疑問を口にした。

 見えていなければ、ホセの攻撃を回避できず、今頃は、息の根を止められていただろう。

 しかし、元より、闇の中。カナは剣を見てはいなかった。カナは『探り』で剣を感じていたのだ。ホセの剣が精霊素を含んだ空気を切り裂くのを知覚していたのだ。


 突然、ホセの胸元が発光する。

「あっ」

とホセが声を上げた。双子石が光ったのだ。荒い息を吐きながらカナが言う。

「メルセデス。あなたの娘でしょう」

「えっ! なぜ知っている?」

「会ったことがあるわ。可愛い娘さんね」

満身創痍と言っていい中で、左肩の傷が一番深い。骨まで届いた傷は、奇跡的にも動脈を外れていたが左腕に力が入らないから神経が切れたのかもしれない。痛みに歯を食いしばりながら、カナは声を絞り出す。

「どうして、娘さんに会わないの? あなたのことを待っているのよ」

「お前には関係ない」

「彼女はスリをしていたわ。スリをしないと生活できないのよ」

「ばかな、仕送りはきちんとしている」

「悪妻の所で止まっているのかも」

カナはそう言って、壁に背を預けて、息を整えた。意識を左肩の傷に向けると、骨にひびが入っているのが分かった。

「マリアか、許さん!」

「許さないも何も、メルのそばに居て守ってあげるのが先じゃない」

カナは、そっと剣を壁に立てかけ、右手を左肩にやり、ひびの治療を始めた。このままでは、いつ折れてもおかしくない。カナの髪が紫色の光を発し、眉間にしわを寄せたホセの顔が浮かび上がる

「俺には夢がある」

「その夢の中にメルは居ないの? メルが居なくていいの?」

「そ、そんなことはない!」

「だったら、こんなことをすべきじゃない。あなたのすべきことは何?」

「うるさい! 異界人のお前に何が分かる」

ホセが髪をかきむしりながら叫んだ。

「そうね。私にはわからないかもしれない。この世界のどこにも、家族が居ない。

親戚もいない……」

でも、友人はいる。見守ってくれる人もいる。初恋の人もいる。この世界が私の生きて行く世界だとカナは思った。

「やり直せと言うのか。嫌だ、なぜ、俺だけがそんな面倒なことを……」

 ホセの口調は弱々しい。

 カナの自己治療は遅々としてはかどらない。精霊素を用いた治療は、繊細な操作が必要である。首に掛けた調しらべを取り出して使うこともできず、目の前の敵に注意をしながらという状況では、治療など不可能に近い。


 突然、ゴォーという音が響いてくる。最初は小さな音だったのが、徐々に大きくなっていく。何かが近づいてくるのだ。際限なく大きくなる音の正体を二人が同時に言い当てる。

「「水!」」

そして、それが何のためであるかをカナは思い当った。

「清掃用の水!」

メルセデスがカナとナパの観光案内をした時に、最初に連れて行ったのが広場の噴水。そのそばに大きな穴があった。下水道の清掃のために、時々、その穴に大量の水を流し込むのだとメルは説明していた。

 下水道の断面一杯に広がった水がやってくるのがわかった。探りでわかったのか先か、カナの髪の発光で見えたのが先か、どちらが先かわからないほどの速さだった。

 水に飲み込まれた瞬間に、まるで床に叩きつけられたような強い衝撃がカナを襲った。薄れいく意識の中で、体が水中を漂っているのがわかった。

 カナは不思議だった。水に飲み込まれる直前に、まるでカナを庇うかのように、ホセがカナを抱きしめた。なぜ、ホセがそんなことをしたのか、それが不思議だった。そして、意識が途絶えた。


     *    *     *     *


 エド達は、標石を追いかけた。カナに持たせた剣の鞘に試作品の標石を仕掛けておいたのだ。対石の光でわかるのは、標石が近いか遠いかであり、方位まではわからない。

 分岐に行きあたると、エドは

「散」

と命じ、ヒロシと部下のケリーが左右に分かれる。

「こっちは光が強くなった」

とヒロシが叫び。

「こっちは光が弱くなっていきます」

とケリーが報告する。これで、ヒロシのいる分岐を進めばいいことがわかる。四叉路、すなわち通常の交差点では、エドも出て、進むべき方向を決める。エドの方法は実に合理的な方法である。

 ただ、誤算が二つあった。カナ達が地上ではなく地下の下水道を行っていたこと、カナが標石のつけられた鞘を捨ててしまったことである。そして、不運なことに、清掃用の大水でカナはマルテン湖まで流されたのに、鞘は途中で引っかかった。

 その結果、苦労してエド達が鞘を探し当てたものの、カナを見つけられなかった。また、清掃用の大水にも、カナがマルテン湖に流された可能性にもエド達の考えが及ぶことはなかった。

 カナの消息は絶えた。


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