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第二章壱幕「家族」

これだけ、ヘッダーに書かれた幕数が「ワンダーランド」と同じだった。

…あれ?

『この大地はかつて、同じ世界に生きる者同士による血で血を洗う醜い争いで荒れ果てていました。

欲望のみに身を任せて、同族種族関係なく殺りくを繰り返すすべての生き物に怒った火の精霊王によって一度すべての生き物とともに大地を跡形もなく焼き払って、もう一度一から創り直そうと自分と同じほどの力を持った精霊王たちに提案して了解をとると、大地を跡形もなく焼き払いました。このことから火の精霊王は死を司るとされています。

それから新たに風の精霊王が、焼き尽くされ、死に満ち満ちた空気を風で洗い流し、清潔な生き物たちの生きられる空気を作りだしました。よって風の精霊王は、清浄を司るとされています。

次いで地の精霊王が焼き払った大地を甦らせ、新たな国土を作り上げられました。よって地の精霊王は創造を司るといわれています。

そして最後に水の精霊王が焼き殺された命の記憶をすべて洗い流した上で、それぞれに新たな形を与え、生み出しました。よって水の精霊王、輪廻を司るとされています。

四大精霊王、その名の通りサラマンダーシフルノームウンディーネ、この四大精霊を司り、世界に満ちるすべての精霊と、世界に生きるすべての妖精を統べる存在であり、その力は神々をも凌ぐ唯一の最強の四人であります。

世界が混沌に呑まれたとき、異世界リアルより現れるといわれ、その姿なき時はそれぞれ天井の宮城にあって、神々の治める土地を守護しているとされますが、文献ではもう何千年と現れていません。先生は、今年で四十七歳になりますが、生きているうちに精霊王にお会いしてみたいものです。あ、ちなみに。精霊王には敬称を付けないことが慣例となっていますが、やはりそのお立場から付けた方が賢明でしょう。ですがリアルの習慣なのか、敬称を付けて呼ばれることを、精霊王ご自身から拒否されたなら、望まれた通りにするのがいいでしょうね。

よってこの地に時折現れる異世界から来たと言う、旅人たちを今日の我々は“リアルの民”と呼び、彼らの持っている雅な工芸の技術を、教えを乞うて学び、共に生きていく術を見出すのであります。ちなみに先生の友達の知り合いの妹の旦那さんはリアル人だそうで、先生は手先が器用でとても美味しい料理を作ってくれるの♪と自慢されて不機嫌になった友達を慰めた記憶があります。』

『このように、我々の住む国は歪んだ十字のような大陸全体から見て東側、正確には東北にあるわけでありますが、西の国境付近では日々悪魔の襲撃に怯え、しかし退去すればさらに奥へと悪魔たちの進行を許すこととなるのでそうするわけにもいかず、勇敢にも国境付近の住人達は命をかけて我々を守ってくれているわけであるが、国境には創造の時代にはまだ割れてはおらず、何代か前の精霊王が夫婦喧嘩の際に、白熱してうっかり割ってしまった痕だという外海からの水が流れ込んできている渓谷があり、そこに障壁を建てていると聞いたことがあります。そして渓谷沿い数万キロメートル南には、同じ夫婦喧嘩の際にできたと伝えられている標高三百メートル級の山々が連なる山脈があります。

 東の国の左側、悪魔が住む北の国は火山と砂漠が広がるだけの荒れ果てた土地で、水はなく、この数千年続く天使と悪魔間の戦争は、もともと水分不足に困った悪魔が天使の住む、美しい湖などで有名な西の国へ攻撃をしかけたことが発端であると言われています。現在では水に困っている悪魔も、水以外のあらゆる資源に困っている天使も双方ともに我々人間や南の半端者の国へ侵略し、略奪することで一時的にしのいでいる状態であり、戦争と我々への残虐行為を終わらせるためにはこれらの問題を解決させることが鍵であるわけです。

我々人間の住む国は鉱山などに恵まれ、いろいろな資源に恵まれているわけでして、半端者であるがゆえにあらゆる面で優れている半端者たちの暮らす国も、同じように天使や悪魔に荒され砂漠となってしまった一部を除いて緑あふれる素晴らしい国です。それぞれが歩み寄り、助け合おうとすれば簡単に平和になるというのに、その一歩がとてつもなく難しいのですね。ちなみに先生のお友達にハーフエルフの女性がいますが、彼女はエルフのお母様と一緒に暮暮らしています。お母様ともお会いしたことがありますが、とても優しく、ケーキ作りが得意なお美しい女性でしたよ。

こうして一人、一人を見ていけば、けっして歩み寄れない相手ではないのに。生き物の差がというものは恐ろしいですね。長らく争い、嫌いあっていくと発端の事件を知らなくとも、相手が憎く、殺してしまいたくなるのですから。そして、戦う相手以外の種族を見下して遊び道具として空き時間ができたら恐怖の遊びにわざわざやって来る。本当に不思議な生き物です。

さて、そろそろ時間なので、少し早いですが授業を終わります。』(東の国にある子供向けの教育機関で行われたとある授業の風景より一部抜粋)


 *


「うわぁ、綺麗ね~」と、元気になったアイリスがベンチに座り、体を捻って腰を下ろしたそばに両手を付いて身を乗り出しながら言った。

 彼女の視線を一身に受け止めているのは、海辺の近くでようやく見つけた新たな街で出会った儚く微笑む少女の胸に輝いている、ローズクォーツだ。

 海辺を一望できる町の絶景スポットに設置された木製のベンチ。そこに座って、アイリスと彼女は楽しそうに話をしていた。出会ったばかりの頃は憂いを秘めた瞳で、誰もかれも拒絶することで自分を守っていた彼女は、アイリスの純粋な明るさで救われたようだ。

 ときどき喧嘩もしているようだが、大体は仲睦まじい様子で、私やこの町の人々の目の保養となっている。

「今日はアイリスと一緒にじゃないのかい?」

 なんて言葉をかけられるたびに、「いつも一緒にいるわけじゃないってば!」と笑って答える彼女がいた。恋人を天使との戦闘で亡くし、塞ぎ込んでいたころの彼女は、もういない。

 楽しそうに何かを離すふたりの少女を視界に入れながら、私はここまでの道のりを思い出していた。

私たちは仲間から離れ、どこへ向かうのかわからないまま、闇雲に歩き続けた。進みながら、この世界がどんな国に分かれているのかを四人に教わる。私が最初に落ちたのは普段から動物とヒトが混ざった姿や人間と動物二つの姿を持つ二種類ある半獣や混血の半端者と呼ばれる者たちが暮らす南の国だったようだ。あまりいい思い出のないその南の国の砂漠を抜け、森を抜け、野原を抜け、南の国を出たのか、ここはどの国なのかわからないまま、人間や半獣はもちろん敵である悪魔や天使たちにも会うこともなく、何百と太陽と月が入れ換わる光景を見ながらただただ歩き続けた。

ボロボロのかろうじて五人乗れた、穴が開いていないか心配な木の小舟を漁師のおじいさんのご厚意に甘えてもらい、海へ出て波に揺られること三週間。食糧も尽きかけて、一番幼い外見のアイリスが歩けなくなり、そろそろ本格的に不味い、飢えとイライラで生き物として干からびてしまうかもしれないと思い始めたころ、この町に辿り着いた。砂で黄色く染まり、飢えて干からびかけている私たち五人を、町の人たちは快く迎え入れてくれて、ここがもう南の国ではなく、南と東の国境を越えて、さらに東へ進んだ国の外れだと教えてくれた。海を越えたときにはもう、東の国に入っていたのだと。それも、世界に四人、一国にひとりしかいない国を治めている男神の住まう神山も見える海辺の町だと言われて、実際に右の空彼方を見ると、うっすらと頂上の見えない一本の棒が見えた。神様の目が届く場所にいる、そう思うと、私たちは大きな安心を感じて、それ以来、私たちは戦うこともなく、一軒家を借りて穏やかな生活をしている。戦う以外に特技というものを持っていなかった私は、もっぱら家のことを任されるようになっていた。

あれからもうダリアさんやモンブランは医者として、リーリエはふたりのお手伝いとして、毎日町のいたるところを駆け回っている。家に帰って来るのは夕方を過ぎてからだ。アイリスは先に述べたとおり、仲の良い友人もできて、日々を楽しく過ごしている。医者というものはどんな世界でも忙しいもののようだ。大変だね。

 毎日家事に追われる日々を過ごしているうちに、ここでは天使とか悪魔とか、戦争とか、命の危機とかの現実が、遠いもののように思えてしまっていた。今もなお、遠い土地に残してきた彼らは戦っているのだろうか?

初めて経験する家事に四苦八苦していた当初、助けてくれた縁で仲良くなったおばさんたちと井戸端会議をしながらふと考えてみた。

 彼らは、どうなってしまったのだろうか。

 私はここへ共に戦ってくれる仲間を探しに来たはずで、こんな穏やかな生活を満喫している暇はないのではないか。そう思うが、私の話に耳を傾け、気にかけてくれるおばちゃんたちと話していると、つい忘れて行ってしまう。私は、ここへ何をしに来たんだろう?

 本当は、こんな穏やかな生活を望んでいたのだろうか。

 こうやって家族のために家事をして、近所の人たちと交流を持って、みんなと同じく笑いあう。差別も非難中傷もない、穏やかな生活。

 私は、どうしたいんだろう?

 疑問を抱いたその日から、寝ても覚めても、私は悩み続けた。なるべく前と同じように家事をこなして、家族には悟られないように気をつける。

にもかかわらず、悩み始めてから一カ月近くが経過した今もなお、モヤモヤとした想いを抱きながら、私は決断することも、穏やかな日常に戻ることもできずにいる。心が迷う、お前はどうしたいのだと心が叫ぶ。その叫びになんと返事をしたらいいのか、答えは出ないまま、日々を過ごしていた。迷い始めると、穏やかだった日常が、そうとは見えなくなってくるから不思議だ。これまで見ていたものが、歪んで見えてくる。

「アズサ、どうかしたのかい?顔色が悪いよ。」

 心配そうなおばちゃんの声で我に帰る。これから冬に向けて寒くなるから、座って編み物をしていた私の顔を上から覗き込んだおばちゃんは声音と同じ心配している気持ちを前面に押し出した表情をしていた。

 齢五十を数えた人間のおばちゃんは、ふくよかな体躯をゆっくりと私の隣に下ろした。その動作から、彼女が「話は聞くよ。」と暗に言ってくれているのだとわかる。わかるのだが、私は言えなかった。

 言えば、おばちゃんは心配して、反対してくれるだろうか、それとも、私の気持ちを押してくれるだろうか。

 わからないことが怖い。

 どうすればいいのかわからずに、私はただ首を横に振った。おばちゃんが表情を歪めたのが、空気の動きでわかる。ただ心配してくれただけなのに、申し訳ないことをしてしまった。けれど、これだけは言えないのだ、わかってください、おばちゃん。これはあなたのためでもあるんだ。こんな色を持って生まれた私でも、敵であるはずのハイエルフと一緒に流れてきた私たちでも快く受け入れてくれて、心配してくれるあなたたちを、巻き込むわけにはいかない。

「ダリアもアイリスも、リーリエだって、みんな心配しているよ。」

 私が悟られないように頑張って隠していたというのに、彼女たちには無駄だったようだ。そこにモンブランの名がないことには突っ込みを入れた方がいいのだろうか。それとも、恐らく返って来るであろう「モンブランだから」という半眼で答えられるだろう返答に、諦めて黙殺するべきか。

 私は後者を選び、モンブランについては触れないことにした。

「でも、」と返すと、話せることにか、それともモンブランについてじゃなかったことに安心したのか、おばちゃんがホッとひとつ息を吐く。おばちゃんはそれから、私の背中を軽く(本人は軽いつもりなのだ)、叩きながら豪快に笑って言った。

「もちろん、あたしたち元から町に暮らしている者たちも、心配してるよ?だってそうだろ?ここに来てからずっと明るくて幸せそうに笑っていた子が、初めてこんな暗い顔してるんだからさ!」

 若い男どもなんて、恋煩いじゃないかと冷や冷やしてるってのに、あんたは全く気付かないしね~、なんて気を使っての冗談には、ありがたくて、だけどそんな話題に触れる機会があまりなかったから照れくさくて、なんて言えばいいのか分からず、言葉で返すことはできなかったのでとりあえず苦笑を返した。

「アズサ、あんた…(冗談だと思ってるね…、あの子たちも可哀想に)」なんておばちゃんが私の後ろの大きなヤシの木の方を見つめながら想っていたなんてこと、私は知らない。

 私は、知らないことばかりだ。

 一年以上も前、私は仲間だと思って守ろうとしていた者たちを馬鹿だ、愚かだと罵った。しかし、ここへきてその考えを改めようか、見つめなおそうか迷う。最近の私は、いろいろ迷ってばかりだ。

 本当に無知で、愚かだったのは私なんじゃないか。

 無知は恐ろしいことだ。

無知ゆえに命の重さを知らず、無駄に散らせてしまった命の数を知らなかった者がいた。純粋に仲間を想い、ひとりで戦っていた彼に、私は冷たい言葉を浴びせかけた。それを聞いていた仲間たちは、みんな彼を庇い、私を非難した。あの時は、あちらが一方的に悪い、愚かな行いを正そうとしてあげているのに、どうしてそれに耳を傾けず、ただ死ぬばかりを選ぶのか、理解ができなかった。

 しかし今、穏やかな日常を手に入れてから考える。

 戦う術を知らず、ただ挑んでいくしかなかった彼ら。それを懸命に持てる力のすべてでもって、守ろうとした彼。それは本当に愚かで、無駄なことだったのだろうか。だって、守ろうとしたんでしょ。戦っていたんでしょ。

 ある半獣に、私は覚悟がないと言われた。

 当時の私は、死ぬ覚悟で挑みかかってどうするんだと思っていたから死ぬ覚悟について、持つだけ無駄だと思っていた。それが唯一だった。

 私は、どうすればいいのだろう?何がしたいのだろう?

「ごめん、おばちゃん。そろそろ買い物して帰るよ…。」

 背中を丸めて編み物を買い物かばんに仕舞って、立ちあがる。小さく苦笑を浮かべながらそう言えば、おばちゃんは皺の目立つおたふく顔でも、若く未来に希望を持っているような強く輝く瞳で私を見つめた。

「わかったよ、アズサ。でもいいかい?これだけは忘れないでおくれ。」

 そこまで言って、チラリと私の後ろに生えているヤシの木を見やってから続けた。

「ここに生きているのは、みんなアズサの家族だよ。全員が、あんたを大切に想ってる。たった一年だけどね、みんながみんな、あんたたちが大切なんだ。悩めばいいさ、時には苦しんだっていいさ。だけどね、ギリギリまで自分を追い込んだら、誰かに助けを求めてみるってのも、突破口を見つけるための手段の一つだよ。」

 おばちゃんは母親となった経験のある人特有の、何でも包み込んで、許し、導いてくれそうなあたたかい聖女のような微笑みを浮かべた。

「どこに行ったっていいさ。それはあんたの人生だからね。でもね、ここに、この町に助けてくれる者がいることを、家があることを、忘れるんじゃないよ!」

 涙が出そうだった。

 家に帰って、居間に張られたこの世界四国が記された横に長い長方形の地図を眺める。私たちが今いるのは、この東の最東端に近い場所、神に守られし土地だ。指先でここにきて教えられた場所を指先で撫でる。そして、彼らが戦っているのは南の、大陸の中央にほど近い西の国にも北の国にも触れられる場所。南の女神が住まう山からもっとも離れている場所だ。この土地に住む住人達は、もっとも神山から遠い場所を“神に見放された土地”と呼んでいた。

「神から見放された土地から来たのかい?大変だったねぇ。」

「神から見放された土地、そんなところで、よく生きていられたわね。」

 ここへ来て、どこから来たのかを汚れていた訳を含めて話していたときにかけられた言葉だ。善意で駆けてくれた言葉に、私の胸はなにか鋭いもので刺されたような痛みを感じていた。とてもつらい言葉だったので、よく覚えている。

 この町の人々は、私の色を何も言わず、好意的に受け止めてくれるが、神から見放された土地に生きる者たちには冷たかった。自分たちとはまるで違う環境に生きているから、理解できないのだろうか?

 地図を見ながら、また悩む。

 ここからあの土地へ戻るのも、来た時と同じような時間がかかってしまうだろう。そうすれば、ただでさえダリアさんという医者もなく、あるのは知識を持つ者のない医薬品。待っているのは無限とも感じられる数の敵ばかりだ。味方は一戦一戦確実に減っていく中で、戦いの日々。

 彼らは、まだ生きているだろうか?

 生きていなければ、私がいまさら向かっても意味などはない。下手をすれば私までもが悪魔か天使の手に掛けられて、仲間と決裂するきっかけとなったあの戦いで見た光景の中身となってしまうだろう。それは遠慮したい。

 ではどうすればいいのか、私は悩み続ける。


「行けばいいじゃないか。」

 食事中にそう軽く、夕飯のクリームシチューを木製のスプーンで口に運びながら言ってのけたのは、やはりダリアさんだった。彼女の切れ味のいい言葉は時として、体に絡みついたしがらみを切り裂いて自由にしてくれる救いとなるが、今のはまるで見捨てられたようで心に深く刺さって痛い。

「…でも、そう簡単にいくでしょうか?」

 自分が作った料理を味わう気分ではなくて、スプーンをテーブルに置いて両手を膝の上に重ねた。掌を合わせるようにして、ギュッと力を込める。ダリアさんをはじめ家族の顔を見ていられずに俯いた視線にテーブルの陰で暗くなった自分がいた。この先を案じているようで、また迷う。

 味わうためにダリアさんが両目をつぶりながら咀嚼するのが癖なんだと気付いたのはいつだったか。生まれて初めて一人で作った料理を食べてもらうとき、美味しくできたか気になって、不味かったらどうしようか、なにを言われるんだろうかと緊張していた。最初に料理を口に含んだダリアさんが両目を軽くつぶり、小さく息を吐いたことが、さらに体を強張らせて、震えさせた。あのときは、数秒ためた後、きちんと笑顔で「美味しい!」って言ってくれた。気を使って言ってくれているのではないかと疑う私に、何度も。その翌日も、そのまた翌日も。

 そうだ、ちょうど七日。一週間が経った頃だ。その頃にはもう疑うことは止め、一緒に死線を乗り越えてここまでやってきた、家族のような存在と認識していた四人を私は本当の家族のように感じ、本気でぶつかることができるようになっていた。だから、夕食最中聞いてみたのだ。いつもと同じ味なのにどうして味わっているように目をつぶって食べるのか。

 そしたらダリアさんはこう言った。

「大事な家族が丹精込めて作ってくれたものだから、いつでも同じように味わって食べたいの。」

 だけど、本当はそれだけじゃなかった。同じ日、夕食の片づけをしていた時、手伝いに来てくれたアイリスから来たこと。

「お母さんはあれだけを教えたけど、本当はもう一つ理由があるの。」

 続いた言葉を聞いて、私はこの人たちに着いて来て良かったと、この人たちの家族でよかったと心から思った。そして、心に決めたのだ。私はここで、この人たちと一緒に生きていくのだと。

「お母さん、手作りの物に弱くってすぐに泣いちゃうの。それを作っている間、どんな思いで、どんな苦労があったのかを考えて想像すると、涙があふれてくるんだって。だから、涙を堪えるために目をつぶっているのよ。」

 だから冬になったらなにか作って贈ろうかと思ってるの!もちろん、家族全員の分を作るから楽しみにしていてね!

 そう言ったアイリスの顔は、流しに流れる水に反射した光に照らされて、キラキラと美しく輝いていた。光のためだけじゃない、アイリスの放つ希望が、彼女の半世紀を生きてもなお幼い体を輝かせたのだ。

 ここに来てからの、印象深かったことを思い出してみる。別に、アイリスの年齢を知ってしまったから思い出深いのではない。それもあるが、それだけがすべてではない。

 アイリスとダリアさんが、家族だと思ってくれていることが嬉しかった。

 そして思い出す。地球に残された家族は、あれからどうしているのだろうか?この世界と同じ時間軸であるならば、私が消えてから一年以上も経っている。近所の人からなにか言われていないだろうか、私をまだ家族を思ってくれているだろうか、いなくなった娘の心配をしてくれているだろうか。疑問、不安が尽きない。

 地球への家族に向ける「私は無事です。」と伝えたい想い。

 捨ててきた仲間からの「大丈夫だ。」と聞きたい、確かめたい想い。

 二つが交差して混じり合う。私の目をまっすぐに見つめてくるダリアさんの、額に輝くローズクォーツの薄いピンクとは反対の青い瞳。アイリスのくりくりとした愛くるしい丸い大きな瞳と同じ色なのに、形が違うだけで印象は随分と変わるものであることを、ここにきて知った。細められた瞳が、迷って自信無げに情けない表情を浮かべている私を映し出していた。

 私が悩み、考え込んでいる間も手に持ったスプーンを離すことなく食事を進め、私の思考が戻ってきたことを察すると、彼女は食べ物を含む目的以外でもう一度、口を開いた。

「自分の命がどうのとか、もしも生きていなかったら無駄足だとか、そんなこと考える時点で止めた方が賢明だと、私なんかは思うね。」

 言い終わると、再び何事もなかったかのように瞼を下ろし、食事に戻る。私たちを横から見守る家族たちは、その間黙って事の成り行きを見つめていた。三人とも食事の手を止め、心配そうに表情を曇らせて問題の私とダリアさんを見比べていた。

「ふきにふればいい。」

 食べ物が口に入った状態で喋る。ダリアさんはこの中で恐らく、最年長だろう。けれど彼女はこんな風に、子供のような行動をとることがあり、それを注意するのはいつも私だった。アイリスとリーリエはそんなこと気にしないし、モンブランは怖くてできないと震えていたので、私しか残っていないのだ。

 ここでも、いつもなら注意する。これはもしかして、ダリアさんが気を使っていつも通りの私に戻りやすいようにとしてくれたのかもしれない。でも、逆にここを出ていきやすいようにかもしれない。どちらだろう?それにも迷い始めてしまい、私はどちらのタイミングも逃した。

 俯き、ガクガクと震えだした私に、さすがに見ているだけにはできないと我慢の限界がきたのだろう、横に座っていたリーリエが手を伸ばして私の膝の上に置いてあった拳にあたたかい手を乗せた。横を見て、リーリエが半獣の能力なのか、段々と冬に向かって寒くなって来ている今日この頃、それでもなお生まれおちた姿そのままの格好でいられるリーリエが、純粋にすごいと思った。

そう言えば、猫の半獣は服を着ていたが、牛はともかく馬も服を着ていなかった。普段から動物と人間が混ざった半獣はそれが流儀というか、それこそが身だしなみなのだろう。…見ているこちらは寒いが。

 ブルリと一度、足から頭まで震わせて寒気を逃がし、それからリーリエに微笑みかける。

 ダリアさんに背中を押してもらった。それなら、私は進まなければならない。進むためには、助けに行くにしろ行かないにしろ、どちらにしてもここから出なければならない。このあたたかい町にいたのでは、そのどちらもできないのだから。そして、どうせ出て行って旅に向かうのならば、最初に目指すのは南の国だ。

 私は進む道を決めた。

「ごちそうさま。」

 普段通りの声でそう言って、私は席を立った。心配そうな視線を向けてきたアイリスとモンブランにはにっこり「もう大丈夫だよ。」と笑顔を向ける。視界の隅で、ダリアさんが満足そうに笑ったような気がした。もしかしたら、そうであったらいいな、と思っていた私のイメージでしかないのかもしれないが…。確かめる勇気もその気もないので、気にせず私に与えられた、この一年ほどお世話になった部屋へ向かった。

 準備をしなければならない。

 リーリエと共同で使っている部屋へと入った私は、まず室内を見回した。アンティークというか古いというか、年代物の調度品で揃えられている私の部屋の物はすべて町の人たちから譲り受けた、いわば町との絆だ。服やら下着やらを入れている箪笥やリーリエの勉強も兼ねて薬草類を入れている銀属性の棚も、この家に入って最初の絆だったベッドも、おもにリーリエが使っていた机も、私だけが使っていた椅子も、ふたりともあまり使わなかった鏡も、窓際に飾ってあるリーリエが採ってきた薬草を植えた鉢植えも、すべてが絆。私たちが買ってきたものなんて、ひとつもこの部屋にはない。

 あたたかくて、優しかった部屋。料理を失敗して自己嫌悪に駆られた日にも、逆に成功して有頂天になっていた日にも、仲間を思い出して泣いているリーリエに、かけてあげられる言葉が見つからなくて、自分の無力に嫌気がさした夜も。すべてを見守ってくれた。

 視界に入る物、入る物、それぞれのかけがえのない思い出が蘇える

 部屋に入ってきたときは、目を赤くしていたら心配をかけてしまうから、ここの思い出たちはとても優しいものだから楽しく、笑顔で片付けよう、そう思っていたのに。思い出が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていくたびに涙が溢れてしまう。悲しくなんてないのに、止まらない。

 目をつぶって天井に顔を向けた。視界は瞼にふさがれて一面の暗闇だ。けれど、瞼の裏にはっきりと浮かぶ。この町に来て初めての絆。長年人に愛されて使われてきたことを感じさせる、茶色の濃い木の天井。木目が人の顔に見えるって、初めての夜泊まりに来たアイリスが怯えながらもはしゃいでいた。

 瞳を開けば、イメージ通りの天井。アイリスがはしゃいでいた一年前にも思ったけれど、年代を感じさせる木目は何度見ても人の顔には見えない。そこが鈍いと言われるところだろうか?

 私は箪笥の下着を入れてある段を開けた。色とりどりの下着が入っているが、目的の物はその一番奥。これはさすがに買った下着を掻き分けて、奥に手を入れる。指先に触れた堅い金属を手繰り寄せて、一年ぶりに取りだした。今はもう夜なので、日の光に当ててやることはできない。

 埃は着いていないが、なんとなくそうしたくなって、一年ぶりに外の空気に触れたガントレッドを撫でた。触れた個所から昔の感覚が戻って来るような気がする。腕にはめてみて、その感覚はさらに強まった。

 手の甲にちょうどはめ込まれている無色透明の水晶が来るように微調整をして、きっちり付けられると、甲の宝石がきらりと一瞬眩いばかりの炎ばりにあたたかい橙色の光を放った。一年という歳月を過ぎても正常に働けることを確認すると、本格的に荷支度を始める。といっても、その工程は至極簡単で、ただ持っていきたい物に水晶を向けるだけ。そうすると水晶から先ほどよりは弱いが範囲は広い光が、持っていきたい荷物を照らす。そうすると地球の青いネコ型ロボットのポケットや、教育テレビで絶賛放送中アニメの主人公平安時代から来た五歳児の烏帽子のように光の中へと吸い込まれることで、収納できるのだ。

 重さはガントレッドの分のみで、やたらと持ち運びたい荷物の多い女性に優しい代物だ。

何度もオレンジ色の光を放ちながら、必要なものをそれに仕舞っていく。毎回物に宿った絆を思い返して時のはざまに浸りながら進め、三十分くらいで支度ができてしまった。

窓を見て、空に星が輝いているのを見つめる。この空が明るく、太陽が輝き始めたころ、私はここを旅立つ。朝には誰にも声をかけず出ようと思っているので、今のうちに挨拶を済ませてしまいたい。夜も遅いため、町の人たちには「ただいま。」だけでいいだろう。私は生きて帰って来るつもりでいるのだ。町の人たちにわざわざ別れの言葉をかけて心配させる必要もないだろうが、家族にはそうはいかない。「行ってきます。」を言って、きちんと「おかえりなさい。」と「ただいま。」を言いたい。

私は二階にあるリーリエとの共同部屋から出て、軋む階段を下りる。まだ明りのついているリビングの扉を開けた。中にはこの家の主、ダリアさん。一人でコーヒーなどを飲むのに使っていたカップを左手に持って、右手は行儀悪く胡坐をかいた足を超えて椅子の淵を持っていた。ダリアさんは私の入って来たのに気がつくと、チラリと見てにやりと笑った。

「よっ、もう支度はできたのかい?」

 男らしい話し方にも、優しさを感じる。

「お前も酒、飲むか?」

「いいえ、遠慮しておきますよ。」

 苦笑して返す。

 いい加減に見えるこのハーフエルフだけどには、本当にお世話になった。この町に来てからは私の方が世話をしていたような気がするけれど、そのおかげで私は家事全般をマスターすることができた。無謀な勇気を語り、死にに行こうとしていた仲間たちに気付かせるきっかけも与えてくれた。彼女のまいた種を、私が回収しに行く。

 頷いて近寄ると、ほのかに香るお酒の香り。ダリアさん、実は酒豪で落語『抜け雀』に出てくる狩野派の画家のように、ここに来てから毎日たくさんのお酒を飲んで暮らしていた。それが一カ月経過した頃、それを聞いた患者さんたちが「そんな医者には安心して命を預けられん!娘ならなんとかしてくれ!」と食事一切を管理していた私に泣きついてきたのだ。泣きつかれて困った私は、どうすればいいのか迷って、結局ダリアさん本人にぶつかってみることにした。泣きつかれた後の夕飯で、いつものようにお酒を瓶で呑もうとしていたダリアさんののん兵衛でありながら細い手首をつかんで止める。不思議そうな表情を浮かべて私を見る。

「ダリアさん、お酒はもう止めてください!今日、患者さんに泣き着かれたんです『酒びたりの医者には命を預けられない!』って。」

 その言葉を聞いたダリアさんの綺麗な眉間にしわが寄った。でも、ダリアさんの健康のため、患者さんが安心して診察を受けてもらうため、ここで怖気づいて逃げるためにはいかない!

 子供のように口をとがらせるダリアさん。そこはやはり親子で、アイリスがすねたときとよく似ていた。

「今までだって、酒は飲んできた。どんなときでも、酒は裏切らないし、呑まないとやっていけないときもあるんだよ。それに、私は酒を飲んでも、酒に呑まれることはない!」

 手首をつかまれたままに胸を張るダリアさんだったが、そこにいつもある説得力はまるでなかった。

「威張らないでください!とにかく、この町には来たばかりでお互いによくわからないところなんですから、不安を感じている患者さんに安心して診察を受けてもらえるように、今日からお酒はしばらくお休みにします!」

 そう宣言して、ダリアさんが取ろうとしていた酒瓶を取り上げて、胸に抱いた。ごねるダリアさんに背中を向けて、隠すためにリビングを出て行った。

 いつか隠したはずの瓶が、コップを持って椅子の上で胡坐をかくダリアさんの後ろに見えている。

 ダリアさんは胡坐を解いて、隣の椅子を引いて座れるようにすると、その椅子をパチパチと叩いた。促されたのに従って、ダリアさんの横に座った。

「そのお酒、隠してたはずなんですけど…いつ見つけたんですか?」

 ダリアさんは私の料理を味わって食べてくれる食事のときと同じように目をつぶって、お酒を楽しんでいる。ニヤリと笑む口元が、なぜか寂しそうな気がして、ダリアさんを見つめてしまう。しかしそれは一瞬で、いくら見つめても、普段通りの表情に戻っていた。ダリアさんとアイリス親子は、強がる時に無理して平静を装おうとするのがそっくりだ。

 アイリスは転んで痛い時などに「大丈夫よ!」と強がったり、ダリアさんが忙しくて帰って来られないときや夜急に体調の悪くなった人のために出かけて行くときなど強がって平気なふりをする。見た目はエルフと人間のちょうど中間に位置するハーフエルフであるダリアさんと、エルフの血が入っていながらも人間に近くて容姿も人間に近いアイリス。顔立ちもアイリスは人間の父親に似たのか、ダリアさんとはあまり似てはいないが、性格や考え方なども、エルフと人間どちらにも疎まれて生んだ親からも見捨てられてそだったダリアさんと、人間である父とは寿命で死に別れたが、それまでは両親にそれ以降は母親に愛されて育ったアイリスでは、生まれ育った環境の違いか、あまり似てはいない。しかし、時折見せる仕草が、この母娘はとてもよく似ているのだ。

「さっき偶然見つけてね、アズサも明日出発するんだろ?お前たちの代わりに出てきてくれたんだよ、きっと。」

「無茶苦茶な理屈ですね。それにそのお酒は私の部屋の箪笥の上に隠しておいたはずです。…リーリエに取らせたんですか?」

 隣に座った呑んだくれに詰め寄って問う。丸いテーブルにドンッと勢いよく手をついて立ちあがる。片付けも終わらせて、ようやく落ち着いて座ったばかりだったのに。

 怒る私をよそに、ダリアさんはばれてしまってはしょうがない、とどこの悪役だと思ってしまうセリフを言うと、背中で隠していたらしい酒瓶を抱きしめ、こぽこぽと新しく注いだ。溢れそうになる瞬間に止めて、いっきにあおる。くぅ~と笑う表情が、アイリスのとてもうれしい時に浮かべる表情と同じだった。

 そんな子供のように純粋な表情を見せられては仕方がない。どうしようもないな、と私は苦笑して上げた腰をもう一度落ち着かせた。

「それで、私も、ってどういうことですか?明日出るのは、私だけなんじゃ?」

 ダリアさんの言葉で気になったことを問う。お酒を奪われることはないと感じ取ったダリアさんは、ついにカップの方をテーブルに置いて、瓶を右手で握って直接口をつけて呑み出した。胡坐という態勢も、ラッパ呑みという呑み方も、とことん女性らしくない人だ(いや、ハーフエルフだけど)。

「いや、お前と一緒にリーリエが行きたい、と言っていたからな。」

 一気に飲み干してしまったのか、瓶の狭い口から中を覗き込んで確認しながら私の疑問に答えてくれたが、リーリエからそんなこと、一言も聞いていない。そう聞くと、「お前が部屋に下がった後に言いだしたからな。」と答えが返ってきた。

 どういうことだ?

ずっと部屋の中で荷づくりをしていたが、部屋でもリーリエとは会っていない。リーリエはどこにいるのだろうか?一緒に来ることを止めはしない。ダリアさんやアイリス、モンブランが止めなかったのと同じように、彼女には彼女の生きる道があり、それに私が介入することはできない。自分で決めるしかないのだ。人生に【代理】はない。

「でもリーリエ、部屋には来なかったし…荷づくりとかいいのかしら?」

 心配してつい口に出してしまった疑問を聞きとったのか、頬を赤く染めたダリアさんは染まった顔で呆れたように眉を目と平行にした。立ちあがって、私の一目惚れで買った可愛い花の絵が描かれているカップにホットミルクを入れて持ってきてくれた。ありがとうございます、と受け取る。

「そもそも動物が混ざっているタイプの半獣であるリーリエになにか荷物が必要なのか?」

「…それもそうですね」

「だろ?」

「なら、リーリエどこに行ったのかしら?」

 受け取ったカップを両手で持って、顔に近づける。カップからあがる暖かい水分の蒸気が顔に当たって潤う、というより湿る。汗がにじんだような状態になってしまった顔からカップを離して、呟いた。その呟きもダリアさんに拾われて、今度はニヤリと悪い人の笑みを浮かべた。

「パートナーを定めたらそいつに一生を捧げるタイプの半獣であるリーリエだって、性別は女だ。そりゃあ別れの前に行っておきたいところがあるだろうさ。」

 頬に熱が集まるのを感じる。カップをテーブルに置き、熱を持った頬にあたたかい手を当ててダリアさんを見つめる。そう言えばこの人、こんな男性みたいな性格と口調だけれど、女性としての経験はこの家の誰よりもあるはずの先輩だ。

 いつもポヤポヤとしていて、私や家族にべったりのリーリエに限ってそんな!そう思うけれど、彼女の容姿は私が一番よく知っている。なんて言ったって、私がデザインしたのだ。

「でも、リーリエに限って、そんな!」

「そうかな?」

 にやにやと笑い続けるダリアさん。その顔は、人をからかって遊ぶ時の物だ。一年一緒にいたのだ。もうわかっている。

「か、からかわないでください!」

 叫んで、ダリアさんの抱えていた瓶を奪った。中は空だ、わかっている。それなのに、酔っ払いというのはなぜこうも中身の入っていない瓶を取られただけで情けない声を上げ、すねるのだろうか?

 ここに来た目的は、なんだった?忘れそうになるが、それを果たすため、私は真剣な表情を乗せてダリアさんを見つめた。今だけは、本気で答えてほしい。

 想いが通じたのか、ダリアさんは一度大きくため息をついて俯き、深呼吸してから顔を上げた。目は伏せられていて、憂いを帯びている。酔って染まった頬がどことなく色っぽかった。

 そして覚悟を決めたのか、泣きそうに潤んだ目で私を見つめる。瞳は泣きそうだったが、表情は真剣だった。

「で?なにか言いに来たんだろ。」

「はい。」

 緊張してきた。体に入った力を抜くために私も深呼吸をする。せっかくダリアさんが合わせてきてくれた視線を、伏せることで逸らしてしまった。

 息を吐くとすぐに顔を上げ、もう一度視線をしっかりと合わせる。

「明日、というか夜が明けたら、ここを出ようと思います。いままでお世話になりました。」

「ここはもうアズサの家だ。帰って来るなら、ここにしなさい。」

 段々と震えてくる声でそこまで言って、ダリアさんはふと笑った。

「もっとも、新しい家を作る気になったら、そっちに入ってもいいんだぞ?」

 笑いながら言っている意味がわからなくて、数秒ダリアさんの背中に手を回すため上げた手が止まる。少し考えてその意味を理解するとダリアさんの背中に急いで手を回し、バンバン叩く。

「からかわないで下さいってば!」

 彼女は楽しそうに笑っていた。くすくすと笑う体の振動が、抱きしめ会って触れている私の体にも伝わって来る。笑いがおさまると、ダリアさんは私の背中を幼子をあやすように優しく叩き、さする。

「わかっている。お前たちの家はここだ。やりたいことが終わったら、帰ってきなさい。」

 抱きしめられながら、私はあの言葉を聞いてからずっと考えていたことを伝えた。

「この旅に、リーリエは連れて行かないつもりです。」

「!しかし、リーリエはそうは思っていない。知っているだろう、あれは見た目に似合わず頑固だ。連れて行かなければ、なんとしてでも着いていこうとするだろう。自主的に連れていくか、それともドッキリか、だ。」

 自主的に連れて行った方が、安心だぞ?体を離し、顔を見えるまで抱きしめていた腕の力を抜いた。背中から肩に手を移動させて、ポンッと軽く叩く。いつもの調子を取り戻したのか、ニヤリと笑ってそう言ったダリアさんはとても楽しそうだった。

「…朝になって、リーリエが戻っていたら、私のそばにいたら……連れて行きます。」

 そう言ってから、ダリアさんを抱きしめた。

 帰って来る。

 願いがあるから、私は行く。

 見たい景色がある。会いたい人たちがいる。別れはつらかった、だから再会で喜びを感じたい。

「行ってきます。」

「行ってらっしゃい。」

 おかえりなさいを言わせてね。

 続いた言葉に、笑顔を返した。


 *


 幼馴染の梓が行方不明になってから、一年が経とうとしていた。

もちろん、その間警察に届け、調べてもらっていたがその捜査も一カ月で“家出”と結論付けられて終了した。幼馴染として長年一緒にいた俺ともう一人の幼馴染アヤメは、頼りにならない警察とは別に梓を探していた。

そしてつい三日前に梓が前日まで通い続け、消息を絶つその日にも、「行く」と言っていた店がある。警察は底も調べることなく捜査を終わらせていた。俺は今日、梓がいなくなって一番悲しんだアヤメを連れてその店に行く。

季節は巡り、梓がいなくなった季節がまたやってきた。

休日の今日、なかなかの込み具合で暖房は緩くかけられている状態だが、薄く汗がにじむ。西武新宿線、揺れる電車を五つ目の駅で下車。降りたホームの中ほど西武新宿線高田馬場駅をBIGボックス出口から出て、建物沿いに歩く。ピザやマクドナルド、ケンタッキー、美味しそうな匂いを漂わせる店を横目に、二つ目の信号を渡って、道の奥へと入り、小か中学校だろう、誰もいない広いグラウンドのある建物を左手に見ながら進む。住宅街へと入ってしばらく歩くと、ほら。見えてきた目的の場所。

 木造の外観はパッと見た感じでは昭和の駄菓子屋さん。入口の横には「たばこ」の文字が、増税された今日もまた、かかっている。歩く俺たちの横すれすれを走り去る乗用車をチラリと睨み、車と歩く私自身が生み出す風を感じながら店に近付いた。

【竜宮城】

 それが、この時代に取り残されたように平成の世に残る古ぼけた店の名前である。

 梓はここに通い、そして消えた。

 ここには何かがあるはずだ。梓が消えてしまったわけが。

 希望を持って、俺たちは顔を見合わせて頷き合うと、木のスライド式のドアを開ける。ガラガラとこれまた古臭い音を立てて、徐々に店内が見えてきた。が、中は薄暗く、奥の不はまるっきり闇だ。

 ちょっと不安になって、アヤメを見る。

 俺は男で、アヤメは女の子だ。

 にもかかわらず、アヤメは俺でも怖気づいた暗く怪しい店内をまっすぐに見つめて、いや睨みつけていた。

「…アヤメ?」

「行くわよ!」

 敵は竜宮城にあり!とでも叫びだしそうなアヤメは、梓とは逆の見事な黒髪黒眼だった。その髪を秋の冷たくなりかけた風になびかせて店内へ。それを追う形で、俺は情けなくも着いて入った。

「いらっしゃい。」

 店に入ってすぐ、横から声を掛けられて驚く。

 驚きすぎた俺は(けしてビビったわけじゃない!)、前にいたアヤメにしがみついた。俺たちの近くにまで来たばあさんと、アヤメに白い目で見られてへこむ。

 このちっこい皺くちゃのばあさんは店員だろうか。俺の腰辺りまでしかない身長、でも腰はシャキンとしていてまったく曲がっていない。俺たちを見据える瞳も澄んだ綺麗なもんで、俺のばあちゃんのように濁っていなかった。

「あたしたち、ここに来たきり行方不明になった入道梓って子を探しに来たの。おばあさん、なにか知らない?

 アヤメは店員だと思ったのだろう。膝をついてばあさんに詰め寄る。

 肩を持たれ、小刻みに揺さぶられたばあさんはなにかを話そうとするも、揺れる振動で口を開いても何を言っているのかわからない「くばばばばば」音が出てくるだけだった。

 このばあさん、ばあさんらしくないけど、お年寄りだ。顔も皺くちゃ、口元も皺くちゃ。この口なら当然、あれも入っているだろう。

「おいアヤメ、ばあさん揺らすの止めろよ。何言ってるかわかんねぇし、入れ歯出てきちまうぞ。」

「気にしたり、心配するのはそこかい!」

「…おばあさん元気よ?」

「元気でもやっちゃだめだろ。」

 呆れ顔で止める俺と、あんだけ揺すられたのにまったく酔った様子もなく、元気なもんだ。大きくゆすぶられるよりも、俺としては小刻みに何往復する方がきついと思うのだが、このばあさん、ただもんじゃねーな。

 このときはただ何気なく、元気なばあさんだ、くらいにしか思っていなかったが、四日後、俺は超人ばあさんの真実を知ることになる。同時に俺たち幼馴染に課せられた使命も知ることとなるのだが、このときの俺はまだ、知らない。

「ばあさん、俺たち梓がはまってたゲームやりたいんだけど、いいかな?」

 親しみやすい、とよく言われる笑顔でそう言うと、このばあさんも例外ではなかったのか、すっかり機嫌を良くしてそのゲームまで案内してくれた。

【ワンダーランド】

 不思議の国と名付けられたそのゲームは、いかにもゲーマーである梓が好みそうなゲームだった。あいつはUFOキャッチャーとかなんでも得意だが、景品も何もないゲームの方が好きで、よく一人で遊んでいた。時々俺とアヤメも参戦するが、いつも梓にコテンパンにのされるオチだったのだ。

「刀馬!今は梓を探し出すことの方が優先…」

 アヤメが怒ってそう叫ぶが、俺は長年の怒られ経験で慣れているからどうってことはない。ばあさんには不運だったな。

「まあまあいいじゃねぇか。まずは梓の足取りを知ることも大切だって!」

 この笑顔、いろんなところで使えるんだぜ。ニヤリと心で笑う。顔に出してはいけないのだ。出せば最後、アヤメに小一時間絞られる。

「さ、やってみようぜ。」

 そう言って俺は歩きだすが、すぐに

「坊や、そっちじゃないよ。【ワンダーランド】があるのはこっちじゃ。」

 言ってばあさんが歩きだしたのは、俺が進もうとしたのとはまるきり反対でした。

 かっこ悪ぃ。こんなときだけ、梓がいなくてよかったと思ってしまう。やっぱ、好きなやつにはかっこいいところだけを見ていてほしいから。

 思いながら、一人で照れて頬を染める。ふたりはそれを道を間違えて照れているんだと思ったのか、俺を置いてさっさと歩き始めてしまった。

 ふたりの背中を見て、「ようやくここまで来たぜ。」ここに、梓はいたんだ。

「あと少しだ。あと少しで、お前のところへ行ける。」

 待ってろよ!梓!拳を突き上げ、叫ぶ。

 何かリアクションがあると思っていたふたりは、すでに見送った背中が小さくなるほどに離れていた。

「あ、待てよ!」

 情けなく、俺は女二人の背中を追いかけた。薄暗い照明のせいで、二度、三度とコードかなにかに転びそうになりながら何とか走る。だてにテニスで鍛えてはいない。

 ふたりにはすぐに追いつけた。

 俺たち三人の前には黒くてデカイ美容院とかにあるパーマかけるやつがある。これが、【ワンダーランド】か。

「早くやろうぜ。」

「まずはデータを入力、パートナーを創らなきゃならんよ。」

「大丈夫よ、パートナーなら前梓に創ってもらったわ。」

「梓、デザインするの好きだったもんな。」

 俺が歩き出すとアヤメも歩き出し、その後にばあさんの声が続いた。それに返してシートに腰を下ろした。

横に付いている肘掛の前、カードを入れるスペースに、梓と行って以来見ていなかった、梓に選んでもらった、三人お揃いの愛らしい子犬が三匹走っている柄のカードを挿入する。椅子の上に付いているヘッドセットがカードを感知して頭に被さり、顔まで覆う。

「こんにちは。ミョウケンジ・トウマさん、【ワンダーランド】へ、ようこそ。」

冷たい印象を抱かせる機械的な女性の声が聞こえて、ジェットコースターで落ちる時のような結構楽しくて気持い浮遊感が俺を襲った後、意識が飛んだ。


目覚めるとそこは、見渡す限り緑一色でした。

 嘘です。木の幹とかの茶色も、現実では遠出しないと見られない綺麗な空の青もあります。でも、空の青が私の真上にあります。背中には草の柔らかい感触。大きく開いているから、草の感触が直接背中に触れてくすぐったい。

 顔の上に右腕を置いて、空からの光を遮り力なく伸ばしていた両足を立てた。

 楽しくなってきて、はははと笑う。

 立ちあがって左右を見回すが、一緒に来たはずのアヤメはいない。さてどうしようか。

 腕を組んで考え込む。そういうところをアヤメなんかには呑気だとか気が抜けるとかいろいろと言われるけど、梓はこんなところが好きだと言ってくれた。何だ?と考えて、結局わからずに空を見上げた。現代日本人が忘れてしまった綺麗な空を見上げる。俺は一瞬でこの創られた空を気に入っていた。

「綺麗な空だぜ。」

 呟くも、誰も答えてくれなくて切なくなる。

 そう思っていたのだが、

「トーマ、」

 知らない声が聞こえてきた。しかも、俺の名前と思わしき名前を呼んでいる。ぐるりと回って見回してみるが、俺の他に人はいない。

「トーマ。」

 また聞こえた。

 さっき俺以外の誰かが呼ばれているのかと人を探したときに見えた、彼女の声だろうか?

 他に誰もいないのだから、きっとそうだろう。

「トーマ!」

 また聞こえた声。同時に左肩がつかまれて、ぐるりと方向転換させられた。ダンスのように綺麗にとはいかず、ズ、ルリと回る。足元の草に足を取られたんだ。

 回った先には綺麗なショートカットの女性。だけど生憎俺は長い髪が好みだ。色は白で緩くパーマがかかってる。簡単に言うと梓なんだが。

 体は人間。首と胸、腰元に鳥の羽毛が覆っている。足は鷹。手には鱗が生え、爪は長く鋭かった。鳥(鷹か?)とヒトの混ざり合った姿をしている。あれ、この姿、どこかで見たことがある気がする。

 だけど、え、俺ここで殺されちゃったりするわけ?

 本当に怖い時は恐怖を感じないのか、俺は自然体で彼女に対峙していた。死ぬときには走馬灯が走るというけれど、俺の脳裏には会えずじまいだった梓で一杯だ。

「トーマ?」

 不思議そうに首をかしげる女性。

 この顔、姿。確かにどこかで見かけたはずなのに…、思い出せない!自慢じゃないが、俺は気になりだしたらとことん突き詰めなければ気が済まない性質だ。

 腕を組み、「う~ん」とうねる。

 真面目に考え込む俺の後頭部に、小さくて硬いものが当たった。小さいが、勢いが良かったのか結構痛い。

 誰が投げたのかと振り向いて確認すると、予想通りの奴がいた。

「なにすんだよ、アヤメ!痛いだろ。」

 抗議するも相手にされず。

「あんたこそ、パートナーと一緒に何遊んでるのよ。速く梓の手掛かりを探さなきゃ!」

 一瞥とともに一睨みして、アヤメはさくさく歩いて行った。どこへ向かっているのか聞いてみても、「適当」となんとも恐ろしい答えしか返って来ない。

 どうしよう、こいつ。

「俺、お前にとってもお得情報をやってもいいぞ。」

 眉根を寄せて、難しい顔で言うと、アヤメはにっこりと、それはもう綺麗に微笑んだ。

 その微笑みに背筋が凍る。

「あら奇遇。あたしもあんたにとっておきの情報を教えてあげる。」

「まじかぁ!」

 背筋を凍らせながら、それでも素直に喜ぶと、アヤメは溜息をついて後ろを着いてくる女性を見た。

「その腕に着いてるガントレットの水晶を見なさい。欲しい情報を脳裏に表示してくれるわ。」

 試してみると、本当に俺のイメージの中にこれまでの彼女との思い出、というか記憶が映し出された。そこには梓もいて、「ああ、梓が創ってくれた俺のパートナーだったのか。」思い出す。

「…名前は、ナダリア…?」

 表示された名前を見て、なぜその名をつけたのかを思い出す。

 俺はテニスプレーヤー。憧れの世界トッププレーヤー、ラファエロ・ナダルの名前を借りたのだ。

「彼女のこと、速く思い出してあげなさいよ。」

 そう言って歩き出したアヤメの背中を追いかけて、俺の持つ情報を提供。

「まずはレベル上げだぜ、ゲームをまったくしないアヤメちゃん!」

「それくらいは知ってるわよ!」

 基本情報だ。さすがにそれくらいは知っていたか。

「行くぞ、ナダリア!」

「ええ、トーマ。」

 嬉しそうに追いかけてきたナダリアと一緒に、アヤメの背中を追いかけた。


俺たちの戦闘レベルは、学校の合間でしかプレイしていない三日間で面白いほどよく上がった。

 機械の故障なんじゃないかと思うほどだ。ワンダーランドの中で出会った世界各国から来たプレイヤーは、俺たちの倍、クエストをこなしているのに、上がるレベルは俺たちの半分で、酷い優越感に浸る。

 俺たちよりも武装も武器も、何倍も立派で無骨なものを着こんでいるのに、いざ戦闘になれば俺たちの方が強く、一気にLPの半分を削り取る。相手の攻撃は、俺たちのLPゲージの色を目に見えるほど変えることはできなかった。そして次の俺の攻撃で、勝負は終わる。

 初日、何も知らなかったその日こそ負けを見たり、野生のダークエルフや悪魔に襲われて致命傷を負ったりしたが、二日、三日と遊んで行くうちに若い者の習性か、ゲームの要領をつかみ、それからは無敗だった。俺も、アヤメも。

 今日は【ワンダーランド】をはじめて四日目。にもかかわらず俺のレベルは990、アヤメのレベルは900までに上がっていた。今日もアヤメと一緒に竜宮城へと行こうと朝の登校時に約束していたが、アヤメは授業が終わると部活動のある俺を置いてさっさと学校から出て行った。帰宅部は気軽でいい。部活に所属して、かつレギュラーに数えられ、そして極め付けに試合が近い。そんなに日、学校が終わってすぐに遊びに行くなんてできない。

「じゃあね、部活頑張って。」

「…ああ。お前、気をつけろよ。」

「なにを?」

「いろいろ。背後に気をつけて歩け。」

「…速く部活行きなさいよ、青少年。」

「じゃあな!」

 俺とアヤメはそんな会話を交わして別れた。俺はリュック型のテニスバッグに教科書全部とノート全部を詰め込んで背負って、教室から走りだす。アヤメはそんな俺にいつもの白い目を向けながら、ゆっくりと丁寧に教科書を机で高さを整えて綺麗な通学バッグに入れる、ノートもトントン、と軽く机で揃えてから入れた。澄ました表情で、綺麗な黒い瞳を伏せて静かに作業するアヤメを、その本性を知らないまま憧れを抱く野郎がいることを俺は知っていた。そいつらに梓一筋の俺が、アヤメと寒気のする関係に置かれていることも。つくづく悪趣味なやつだ、と思うが、見た目だけなら梓の次に整っている女だから仕方がないか。

 そんなことを思いながら、俺は秋風に吹かれ、髪を巻き上げられながら走り続けた。

 コートのすぐわきにある十五畳ほどの、三十人近くで使うには狭いプレハブ小屋の部室に入り、フェアーに着替える。俺の着ているこれはレギュラー専用のものだ。全国大会に今年で五年連続出場を果たしたこの部、その八人しか着ることのできないレギュラー専用フェアーに憧れて入学する奴も多いときく。ちなみに俺は違う。梓と、ついでのおまけでアヤメがこの学校に入ると聞いたからだ。もしかしたら、梓と登下校ができるかもしれないと思って入ったのに、梓が学校に来たのは三年間でわずかに、片手で足りる程度。俺の野望は無残にも崩れ去ったのだ。しかもおまけにしか思って考えていなかったアヤメと妙なうわさが立ってしまったのだ、まったく運がない。制服を脱ぎ、フェアーを着る。胸元から首までファスナーをしっかりと閉め、赤いフレームのラケットをバッグから出して、二、三度握って感触を確かめる。その時掌にツブツブを感じる。ラケットを右手から左手に持ち替える。空いた右手を目の前に持ってきてよく見た。黒い粒々が指の下にいくつか付いていた。もう一度ラケットを見る。今度はラケットのグリップだ。見ると、そろそろ変え時なのかボロボロだった。力を入れて握ると、手に崩れたグリップテープの屑がつく。

 ああ!早く部活を終わらせて梓とつながれる【ワンダーランド】へ行きたいのに!神様は俺に試練をおあたえになるのですね?

 次々と授業が終わり部活にやってきた後輩が、俺を視界に入れないようにまっすぐ前を見ながら着替え、終わるとラケットを抱きしめるように持って、そそくさと部室から出て行った。他の三年はもうコートに出ている。先輩よりも後に来るなんてダメだぞぉ!と言ってやりたくなるが、振り返った時にはもう誰もいなかった。十五畳の部室に、ぽつりと一人。

 寂しくなって、グリップは部活が終わってから変えようと、そのままラケットを抱えて部室を出た。すぐにコートに着いて部長であり、俺の親友である樋崎珠代ヒザキ・タマヨ、会った瞬間に「女みたいな名前だな!」と言って大喧嘩になった過去を持つ。そいつに遠慮なく頭をはたかれた。

「また部室で入道のこと考えてたんだろ、三年が後輩に醜態を見せんなよ。」

 こいつは梓を気味悪がったりしない。どちらかと言うと、梓を思って壊れる俺のことの方を気味悪がって、名前みたいに女っぽい顔の眉根を寄せる。

 もっとも数えられるほどしか会ったことがないってのも、珠代が梓を拒絶しない理由なのかもしれないが、俺はふたりをよく知る者として、こいつは梓をきちんと見てくれる存在だと思っている。ただし、人間としてな!異性として好きになっちゃダメだぜ☆

 思いを込めて珠代を見ると、奴は腕を交差させてさすり始めた。寒いのか?

「お前、気色悪い目で見んなよ。寒気がする。」

 風邪じゃねえのか?寒さ対策はきっちりしろよ、部長だろ?

「誰のせいだと思ってんだよ。いいからランニング行って来い!グラウンド十周だからな。」

 お前はぁ?

「三年はみんなお前より三十分は早く来てんだよ、もうとっくに走り終わってるさ!」

 早く行け!と尻を叩かれて、俺はラケットをコートを囲むフェンスに立てかけて走りだした。

 テニスコートは区内でも大きい方に入る、百メートル走も余裕で直線で測れる広い校庭のすぐわきにあって、俺たちテニス部員が“グラウンド”と呼ぶのはコート+校庭のことだ。一周ちょうど一キロになる。これを部長である奴は、事あるごとに走らせる。十周が基本単位だ。多い時には百周走らされた奴もいた。そいつは確か、夏の全国大会前の三日間部活を無断欠席したのだ。

 先を走っていた後輩たちをことごとく抜き去り、「だらだら走ってんな!」とか声をかけながら走って、梓のことで一杯だった頭をテニスのことに入れ替える。こういう切り替えが大切なんだ。俺が三年間、歴代の部長より上の強さを誇っていられたのはこの切り替えの早さにある、って珠代は言っていた。褒められたのかと思って喜んでいたところをなんか言われて落とされたような気がするが、何を言われたのかは覚えていない。

 あはは~と後頭部に右手を当てて笑っていると、走るスピードが落ちたのか後ろから来た後輩三人に抜かれて、コートから珠代の「刀馬!お前あと五週追加な!気を引き締めて来いよ!」と声がかかった。無常だ。

 俺は結局、三十周走らされ、部活動の時間三時から八時までの約五時間のうち一時間をランニングに費やした。

 午後八時。空きになって風も寒くなり、照明がなければすぐ隣に立っているやつの顔もわからないほど暗くなって来たので、珠代の号令で今日が終わった。コートからネットを回収して片づける。正式なテニスコートが会って助かるのは、ポールを片づけなくていいところだ。校庭に即席コートを作って部活動をする場合、ポールを片づけなければならなくなるし、そうすると片づけの時間が増える。自然と部活動に使える時間も減ってしまうのだ。大切な大会とか試合の前だと練習もハードで疲れるし、疲れると苛立ちも感じてしまう。それに面倒だよな。

 コートとボールの片づけを一年生と二年に任せて俺たち三年はさっさと部室に戻った。風は冷たくなって来たけれど、走りまわれば汗をかく。大粒の汗を吸い込んだフェアーとタオル。十五畳の部室、隣接してある俺たちテニス部専用のシャワー室で汗を流してから行きたいが、俺にはこの後行かなければならない場所がある。

 俺は汗を適当に拭いて、フェアーの上に同じデザインのジャージを着ると挨拶も軽くすませて部室を出ようとした。

「刀馬!お前またあの怪しいゲーセン行くのかよ?」

「ああ!当ったり前だろぃ」

「…誰だ、お前」

「んじゃあな!」

 そう言いながら、ドアを開けて外へ出る、一度振り返って部室の中を見ると、珠代がロッカーに向かい、こちらに背中を向けて、右手を上げて左右に振っていた。その表情は見えないけれど、多分「仕方がないな、お前は」って言いたげに笑っているんだろう。小学校五年生からの付き合いだ。見えなくても、相手の動作で表情までわかる。それだけ俺たち親友の絆は強かった。

 出会った小学校五年の十歳からずっと、俺たちは一緒だった。別れることなんて家に帰る時しかなくて。テニスを始めたのも一緒だった。喧嘩して成長した今では口に出せないような暴言を吐いて別れた日も、次の日の朝にはお互いに笑顔で一緒に登校した。

 いろんなあったかい、優しい思い出が奴と俺にはある。だから、こんなことになった今でも、俺とあいつは同じ青い空の下で強い絆でつながっている。

 運動のために五駅離れた高田馬場まで走ろうかと思ったが、時間の関係上電車で行く。いつもと同じ道を、風を鳴らしながら走って、ぼろい外観が見えてきたところで速度を落とした。

中に入って、いつも通り「おっす、ばあちゃん!来たぞ~」と大声を出すが、いつもどこからともなく現れるばあちゃんは出てこない。

「…いらっしゃい。」

 空気を震わせるように静かにそう言って現れたのは、いつもはいない長い黒髪を腰の後ろまで伸ばした兄ちゃん。長い髪は綺麗で、顔も男には関心のない俺が目を見開くほどにはかっこいい。服装もヴィジュアル系で決めている。オタクっぽさもないし、清潔感溢れる…、というか、普通の人間とはなんかまとっている空気が違うような気がする。

 どことなく怪しい感じの兄ちゃんに挨拶を返して、俺は先に来て五時間プラいし続けているはずのアヤメを探そうともう四日目で慣れた【ワンダーランド】までの薄暗い道のりを歩いた。後ろから兄ちゃんが着いてくるのを感じる。なんなんだ?と思いながらもそのまま歩き続けるが、段々と気味が悪くなってくる。誤魔化すために、アヤメを呼びながら歩いた。とにかく、俺一人じゃないと思いたかった。

 こいつ、怖い。

 左頬に汗が流れ落ちる。逆の方に目をやって、なんとか後ろを歩く兄ちゃんを見ようとするが、真後ろは首から回さなければ見ることができない。ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。音が俺の後ろ、二メートル以内を歩く兄ちゃんに聞こえていないかと心配になるが、歩き続けた。いつもは一分とかからずに見えてくる【ワンダーランド】が、今日は遠く感じる。恐怖を感じながら動くのって、こんなに体力がいることなのか。

 ようやく見えてきた、薄暗い照明に照らされて、集中しているからか一台だけひと際明るい光に浮かび上がって見える【ワンダーランド】の椅子に座った。そこは、梓が使っていた場所だ。そして、アヤメも「梓と少しでも近い場所にいたいから」と好んで使用していた場所だ。ヘッドセットが降りてくるのを見ているふりをして、横を見る。黒い服で固めた兄ちゃんは、闇に溶けたようにそこにはもういなかった。

 いない、そう決めつけていたから気付かなかった。

 俺の座った【ワンダーランド】の後ろに立って、黒の兄ちゃんが蛇のように笑ったことに。

【ワンダーランド】が起動して、意識が飛ぶ一瞬声が聞こえた気がした。

「おかえりなさい、妙見寺刀馬。清浄の風を司りし風の精霊王。」

 そして、さようなら。

 こうして、俺妙見寺刀馬はこの地球から姿を消した。

 不気味な細い笑い声が響く。その笑い声を遠くの方で聞きながら、俺は理解した。アヤメもまた、この地球から消えていたのだと。どんなに呼んでも、梓も、アヤメも、もう答えてくれはしない。


 *


 暗い。

 それがわかって、私は目を開こうと瞼に力を入れた。

 開いてみても、視界は一面闇のままだった。

 寒い。

怖い。

 何が私を包んでいるのか、理解できないまでもここにいては不味いことはわかっていた。だから、ここから出なければと腕と足をばたつかせて何かにあたって、それが崩れればいいと思いながら暴れる。けれど体に何か当たる感触も、痛みも感じなかった。あるのは、闇だけだった。

 怖くて、寒くて、泣きそうになりながら体を震わせる。五分暴れていただけなのに、もう暴れるだけの力もなかった。もしかしたら梓も同じ目に会ったのかもしれないと思って同じ境遇にいられることをちょっと嬉しく思う。

 うふふ、と頬を染め、手を口元に当てて笑っていると、暗闇から響いた。空間ではなく、頭に直接響いてくるような声だった。

「おかえりなさい、創造を司る地の精霊王。一色アヤメ。」

 聞き終えると、また眠気が襲ってくるように突然意識が遠のいていった。

「…さようなら。」

 あの暗闇はどこだったのだろうか?もしかしたら地球と異世界【ワンダーランド】との境界線、はざまなのかもしれないな。

 そんなことを呑気に考えながら、意識がしっかりするのを確認してから目を開きそこをみた。

 古い木目が広がっていた。視界の端の方に見える窓から外から差し込んでくる暖かい黄色の光が照らしている。夜だったなら、顔のように見えてしまうのかもしれない。

「どこ、ここ?」

 だれかの家かしら。私が横になっているのはベッド?…私のよりだいぶ硬く寝づらい。

 失礼なことを思いながら呟いてみても、答えてくれる人は…。

「ここは東の国ですよぉ。」

 …いた。

 語尾が間延びした声が聞こえてきた方向を見てみれば、そこにはなんとも美しい男性が。男性にしておくのはもったいないくらい、尖った耳も、整った顔も美しかった。

 だけど私は梓に操を捧げている身、どんなに美しい人だろうと、梓以外の者に惑わされたりはしないわ!頬が熱を持っていることを気付かないふりをして、聞いた。私にとって、彼女以上に大切な者はいない。家族も、私にとっては他人と同じだった。梓に対しては一目で感じた愛情も、十五年ともに生きてきてそんなものを感じたことは一度としてない。

 私にとっては、消えた梓が唯一気を許せる相手だった。…刀馬は梓についた悪い虫。梓が刀馬に心を許しているから、ついでに仲良くしてやっている。

「【ワンダーランド】の…、え、ゲーム?よね。」

 でも、東の国なんて出てきたかしら?

 横になっていた態勢から上半身を起こし、座る。

私は梓のようにゲーマーで、ゲームに詳しいわけでも、刀馬のように幼いころから流行りのゲームに手を出したりはしてきてこなかったから、梓と刀馬のふたりに比べてゲーム全般に疎い。設定を見るのは好きで設定集を梓に貸してもらってよく読んでいた。だからわかるのだが、ゲームの【ワンダーランド】の舞台は猫の目のような形をしている。それも国の概念はなく、プレイヤーキャラクターとパートナー以外はいなくて、外からログインする人たちが一時、剣と魔法の満ちた国で夢だったRPGゲームを体感して遊ぶ空間、それが【ワンダーランド】なのだ。

 しかし、彼は今“国”だと言った。なら、この世界ではいくつかの国で分かれて暮していることになるのではないか。

 彼を見る。嘘をついて人をだますような悪い人には見えない。…見かけだけってこともあるけれど。

「ゲームの【ワンダーランド】ですかぁ?すみません、よくわからないのですが~…」

 でも確かにここはワンダーランドですぅ。

 前の言葉は困ったように、申し訳なさそうな表情を顔いっぱいに浮かべて、最後の言葉はにっこり、眩いばかりの笑顔で、彼はそう言った。

「地球、って知ってますか?」

 恐る恐る。細い割に身長のある彼を、下から見上げて言った。

 彼はああ知ってます!って言いたげな表情を輝かせる。

「リアルのことですか?あなた、リアル人ですかぁ」

 それじゃあアズサと同じですねぇ。

 人の良さそうな笑顔で、そう聞き捨てならないことをあっさり言ってくれた。

 アズサ。

 ずっと聞きたくて、ずっと聞けなくて、ずっと呼びたくて、ずっと呼べなかった名前。

 やっと聞けた名前を呼んだ彼の肩を、ムンズとつかんで小刻みに揺すった。

「ねえ、あなた梓を知っているの!どこにいるの、元気なの?」

「ちょ、ちょっと、おおお落ち着いてくださいぃ!そして放してぇ~…!」

 揺すられて目を回している彼のことはお構いなしに続ける。ぐったりした彼の肩を捨てるように突き放し、こんなところでじっとしてはいられないと座っていた白いベッドから立ち上がり、足元に置いてあったゲーム内での衣装と同じブーツを履く。

 勢いよく立ちあがったことでクラッと立ちくらみが襲うが、五センチほどのヒールブーツで踏ん張って耐えた。ここに梓がいた手掛かりをつかんだのだ、大切な彼女に会うまで倒れてなんていられない!女は気合だ!

「ねえ、寝てないで起きなさいよ!あんた梓のこと、知っているんでしょ?」

 簡易ベッドの横で白いベッドと並行に倒れている金色のエルフ。起こすために軽くつま先で蹴った。

「ねえ!」

 勢い余って強く出した足がお腹に入ってしまった。程よく肉のついたお腹につま先が食い込む。

 さすがにこれはやばいかと、他に人がいないかどうか室内を見回し、家の中に人の気配がしないか耳をそば立てて音を聞く。

 逃げるか、エルフが生きているか確かめるか。

 前者を選ぼうと足を踏み出したとき、扉が見える方向から物音がした。誰か来る!そう感じ取った瞬間にしゃがみ込んでエルフの桃色の頬を叩いていた。

「ちょっと大丈夫?何があったのかしら、急に倒れ込んじゃって!ねえ、起きてってば!」

 また肩をつかんで揺する。今度は大きく。

 そうしているところへ、物音の正体がやって来た。それは綺麗な女性で、彼女の耳は倒れている美しいけれど情けない男の耳と同じく尖っていた。ピン、と立った耳が、怪しい物を見て下がる。

「あんたたち、何してるの?」

 困ったように、心配そうにいまだ起きない男を見据えるその瞳。切れ長のそれはとても澄んでいて美しかった。とても綺麗に晴れ渡った日の海のような青い色。澄み渡った青に見つめられると、胸が高鳴る。ああ、私の心は梓の物よ!

 思ったことを気付かれたわけではないだろうけれど、彼女はブルリと肩を震わせて床に直接横たわっている情けない男、略してナオちゃんに遠慮をまったく感じられない力加減で蹴りを入れたナオちゃんの体が大きく跳ねて、ぴくぴく震える。これ、冗談抜きで大丈夫かしら。

 さすがに心配していると、逝ったと思ったナオちゃんが起きた。起こした上半身を右手で支え、蹴られたお腹に左手で抑える。

「うぅ~、先生酷いですよぉ」

「遊んでいるあんたが悪いわ。アズサが出発してから腑抜けてるんだから。情けないわね、シャキッとしなさい!」

 なんか、また聞きたかった名前を聞いた。

 目を見開いて、“梓”と言った彼女を見る。

 彼らの容姿を私は知っている。好んで読んでいたゲームの設定集に、よく似た姿を持つが属す側が違い肌の色も違う。黒いエルフと一緒に載っていた、白いエルフによく似ているのだ。

 ここはゲームの世界?

 なら彼らもまたプレイヤーだろうか。

 私たちはゲームをプレイしているのだ。ゲーム内に永住することはできない。ときどき現実が嫌でゲーム内に留まりたいと願い、なかなかログアウトしない人もいると聞く。それが問題となる前に、ゲーム会社は一定の時間以上プレイすることができないようになっているのだ。最大十時間。実際の時間とゲーム内で流れる時間は進む速さが違う。

 ゆっくり流れるゲームの時間。

 現実での時間を知るため、時計がすべてのプレイヤーに初期装備として配布されていた。

 パートナーに持たせている人、自分で持っている人、現実に戻るのが嫌で捨てる人(ただしこれは次回ログイン時に自動で戻っている。しかも取れないように腕にしっかりと着けられている。それでも外そうとするとログインできなく本社からロックされる)等々いろいろいるが、確実に着けていなければならず、そうでなければログインできない仕組みとなっている。

 その時計が着いているはずの腕を見るが、そこには服があるだけだ。この三日間で慣れ親しんだ冷たい感触がない。体温であったまったのか?とも考えるが、今日まで三回ゲーム内で過ごしてきたが、時計はその存在を忘れないようにするため、常にヒンヤリしている。それが今、腕にない。

 だが、そんなことよりももっと重要なことがある。

 ソレを確かめられれば、私は不安を感じなくなるだろう。ここに、この世界にもっと居たいと思うはずだ。

 だって、彼女がいれば、それだけで私は生きていけるのだから。

「あの、」

 声をかけて、私を見たふたりに笑顔を見せる。最初って大切よね。

「私、イッシキ・アヤメと言います。さっきからふたりしてアズサ、アズサって人の名前読んでますけど、もしかしてニュウドウ・アズサのお知り合いだったりします?」

 相手も知っている人の名前を聞いたからか、安心したように笑ってくれた。さっきも嫌ってはいなかっただろうけれど、全面的に好意的ってわけではなかったから、これでようやく信用してもらえたようだ。でも私が言うのもなんだが、そう簡単に会ったばかりの人間を信用してもいいのだろうか?私から見ても彼女たちは会ったばかりだが、それでもちょっとこの人たちが心配になった。

 やっぱり綺麗な人はどんな表情をしても麗しい。きらりと光るふたりの笑顔を見ながらそう思う。

「あなたも、アズサを知っているんだね。この間まであの子もここにいたんだけどね、一か月ほど前に南へ発ってね~。」

「アズサに会いにいらしたんですかぁ?」

 ふたりして間延びした語尾、ちょっとイラッとする。

「私、梓の幼馴染なんです。でも梓一年前から行方不明になっていて、心配してたんです。」

「あれ~、でも、アズサって一年くらい一緒にいましたよねぇ?」

「ああ、リアルから来てずっと私たちとともにいたんだな。これまでのリアル人も同じことになっていたんだろう。」

 梓が地球でどんな状況にあるかを伝えると、ふたりは神妙な面持ちになった。梓とは一年間一緒に過ごしていたと言うが、梓は自分のことを教えていなかったのだろうか。

「お母さん、モンブラン、夕飯できたよ!今日のご飯はシチューね!」

 いぶかしんでいたところへまた新たな声。今度は幼い子供がドアを開けて入って来た。お母さん、と言ったということは、彼女の娘なのだろう。…正直あまり似ていない。

「あれ、患者さん?」

 澄んだ綺麗な青い瞳で見つめられ、ニッコリ愛らしく笑われると、こちらまで笑顔になってしまう。子供が正直あまり好きではない私でもそうなるのだから、この子の愛らしさは相当だ。梓は澄まして人に興味がありません、という態度をとっていてもあれで子供好きだったから、きっとこの子を可愛がっていたのだろう。

「私はアヤメっていうの、あなたは?」

 私の肩ほどしか身長のない少女に合わせて視線を下げる。

 優しく尋ねると、少女も笑って答えてくれた。

「私はアイリス!お母さんはダリア、あの人はお母さんの助手をしているモンブラン!」

 どうせお母さんたちのことだから、自己紹介とか基本的なことしてないんでしょ?彼女は笑顔で母親とその助手を見て、そう言った。アイリスの表情は「仕方ないわね」と言いたげな大人の物のようだ。この中でもっとも幼い容姿をしているとは思えない器の大きさを感じさせる。

「私、梓の幼馴染で、梓を探しに来たの。」

 そう言うと、アイリスは一瞬キョトン、として、それから嬉しそうに笑った。よく笑う子だ。

「知ってる!アズサ、地球で仲の良かった、家族みたいだった幼馴染のこと、ふたりのときによく話してくれたの。この町に来たばかりの頃、お友達がなかなかできなくて寂しかった時に。すぐにお友達はできて、寂しくなくなったけど、それでも時々話してくれた。『アイリスに話すことで、一緒にいられなくてもずっと覚えていられるでしょう?』そう言ってたよ。」

 嬉しくて、涙が出そうだった。初対面の人たちに涙を見せることはできない。上を向いて、涙がひいて行くのを待った。その間に考えをまとめる。

 一年間、きっと梓は私たちを待っている、そう信じて梓を探した。だけど、なかなか見つけられなくて、会えない日が長くなるにつれて、私も刀馬も苛立ちだけが募る。そして、時間が経つにつれて、思ったのだ。

『梓は、もしかしたらどこか別の場所で私たちのことを忘れて、幸せに生きているんじゃないか』

 頭にその考えがよぎるたびに、私と刀馬は梓の忘れたい過去なんじゃないか、これで本当にいいのかと自分を疑い、悲しくて、寂しくて学校を休んで一日中泣いて過ごしたこともあった。

それが今、間違いだと知ることができた。私たちは、梓にとって忘れたい過去なんかじゃなかった。それどころか、梓は私たちを家族だって思ってくれていた。

私は梓を探してきた。まだ、見つかってはいない。

 なら、やるべきことはひとつだ。幸い、梓が向かった場所はわかっている。

「ありがとう、アイリス。ちょっと梓を信じられなくなりそうだったけど、これでまた信じた道を歩くことができる。」

 私は私を家族だと言ってくれた梓を探して、旅に出よう。

 だけど、なにかを忘れているような気がした。なんだっけ?

「南の国へ行くんですかぁ?」

 人の良さそうな、気の抜ける笑顔を浮かべたモンブランに聞かれる。あんたには関係ないでしょう?と言ってしまいたくなるが、梓に関係のある人たちだ。しかも、話ではとてもお世話になったようだし、下手な態度は取れない。地球で梓に誹謗中傷を浴びせかけていたおばさん連中とは違うのだ、見た目も中身も梓との関係も。

「そうですよ、梓を探しにここまで来たんだから。梓が行った場所へ、私は行くわ。じゃなきゃここにいる意味、ないもの。」

 つんと澄ました表情で言う。

 地球では冷めたこの表情と口調に、人は離れて行った。梓や刀馬には何度も止めろって、相手の気持ちを考えて表情を浮かべろって、そう言われたけれど、これは私の性格でなっているんだから仕方がないのだ。性格はなかなか変えられない。

「危ないですよぉ。」

 この人もそうなのだろうか?

 情けない表情を浮かべて小さく震える。何を思い出しているんだろう。でも、何と言われても私は引くわけには行かないのだ。だって、

「家族のためだもの。」

 不思議そうに私を見るモンブラン。考えていることを覗くことができるのならいざ知らず、何の脈絡もなく言いだしたのだから、彼らからしたら不思議だろう。ダリアさんは何を言いたいのかわかっているように、けれど私を信用に足る人間なのか見定めようとするかのように、無表情で見ていた。アイリスは心配そうに私と母親を見比べている。

 私は今までまったく考えずに言いたいことを言ってきたから、どう伝えたらいいのか迷う。

「梓は、私のことを“家族”だって言ってくれた。私も梓を大切な存在だと思ってる。それなら、例えどんなに危ない場所でも、そんなところに大切な存在が行っているのなら助けに行こうと思うのは当然でしょ!」

 家族だもん!

「でもアヤメ、トーマのこと忘れてるよ?」

 何を忘れていたのか思い出せて、すっきりした。

 私の刀馬に対する認識はその程度だった。とにかくすっきり。思い出せてよかった。

「それは別にどうでもいいわ。刀馬ならきっとどこででも幸せに生きていけるわよ。そう信じてるわ!」

 元気でね、刀馬!

 それから私は、「アズサの家族なら私たちにとっても家族だ!旅の準備は家でしなさい。アヤメの部屋も準備しなきゃね!」と言ってくれたダリアさんの言葉に、ありがたく従って、今日の仕事は終わりだと四人でまだ明るい道を三人、今日からは私たちの家へ帰った。

 家に入ってすぐ四人で二階にある洗面所で手洗いうがいをして、アイリスが一階のリビングキッチンに立って夕食の支度を始めた。ダリアさんとモンブランはふたりで食器を出したり、テーブルを拭いたりしている。私も何か手伝おうと考えてなにかないかを探すが、三人のチームワークは素晴らしく、隙がなかった。

 お互いにわかり合ったあたたかい家庭がここにはあった。

 梓は、ここで過ごしていたんだ。

 その事実に嬉しくなる。

 地球でも入道家は楽しく明るい家庭だったが、ここでの暮らしも梓にとっては幸せを感じられる空間だったことだろう。

 梓、

 この世界のどこかにいる家族へ語りかける。

 地球と違って嫌な言葉を聞くこともない、ここはいいところだね。明るくて楽しいダリアさんと優しいアイリス、情けないけどその笑顔で(リアル人にとっては名前でも)周りを 和ませてくれるモンブラン。

 ここに帰って来るって言ったんでしょ?

 必ず見つけるから。会いに行くから、一緒に帰ろう。

 ついでに、もしも会えたら刀馬も一緒に。

 帰ってこよう、私たちの家に。

 私たちを待ってくれている、家族のもとへ。


勢いって、深夜テンションと並んで大切。

うん。

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