5 【完結】三年後
廃宮での暮らしに、三年の月日が流れた。
アービン殿下はこの三年間、完璧に「正気を失った子ども」を演じ続けた。診察に訪れる医師も、城からの使者も、誰一人として疑う者はいなかった。
殿下を追ってここへ来た日のことが、どこか遠い昔のように思える。
毎日、殿下は私のすぐ隣にいた。
一緒に魚を釣り、お弁当を持ってピクニックへ出かけ、木陰に寝転んで空を眺める。
二人で花を庭に植え、季節が巡るたびに色とりどりの花が咲き誇った。
ガタつく階段を修繕し、季節ごとに部屋を模様替えする。
寂しく暗かった廃宮は、少しずつ明るい温かな場所へ変わっていった。
ちゃんと食事もできてお腹も満たされている。
私はここで初めて、大切な人と生きる喜びを知った気がする。
――ずっと、この人とここで暮らしたい。
そう願う一方で、この幸せが永遠ではないことも分かっていた。
ここでの生活は殿下の私財で支えられており、いつか終わりが来るはずだった。
そして、その時は訪れた。
私は、少し膨らんだお腹を愛おしく撫でる。
ここには今、殿下と私の新しい命が宿っていた。
私の懐妊を知った殿下は、医師の前で大はしゃぎした。
『パパになる! パパになるんだ!』
それが演技なのかどうかは分からない。けれど、喜んでばかりもいられなかった。
時を同じくして、私たちに王城への帰還命令が下されたのだ。
重圧に耐えかねたシエール殿下が倒れ、元々の体の弱さもあって今後の政務は困難だという。
長年、血統を守るため血縁結婚を繰り返してきた王家は子に恵まれにくく、継承権を持つのは、兄弟王子二人だけとなった。
だから今――王家の未来は、私のお腹の中に宿る小さな命に託されようとしていた。
◇
もう、王城へ戻ることは怖くない。
この三年間、私たちは何度も未来について話し合ってきたのだから。
殿下は本来、とても有能な方だ。
ただ私と同じように『国のため、王家のため』と、己を殺して生きてきた。
王子としてそれは間違いではない。間違いがあったとすれば、盲目に従順であり続けたことだ。
そのことに気づいた殿下は、私との婚約解消をきっかけに、見違えるように生まれ変わった。
「やはり、シエールには耐えられなかった」
「本当のことを、陛下に打ち明けるのですか?」
「いいや。階段から転げ落ちて、ショックで正気に戻ったことにするさ」
「そんな都合よく……流石に怪しまれませんか?」
「ふっ、そうだとしても誰にも文句は言わせない」
殿下の声には確かな覚悟が宿っていた。
本当の勝負は、これからだ。
覚悟を決めた私たちを迎えるように――その日、王家の豪華な馬車が廃宮の前に到着した。
◇
王宮へ戻ると、騎士団と大勢の貴族たちが私たちを出迎えた。
その先頭に立っていたのは、あのサラン老侯爵夫人だった。
「お帰りなさいませ。再び妃殿下のお世話をさせていただけますこと、光栄に存じます」
深々と頭を下げる夫人。けれど、その笑みを見た瞬間に分かった。
彼女は以前と何も変わっていない。私を再び従わせる気なのだと。
「夫人、下がれ」
アービン殿下が私を庇うように立ち塞がる。
しかし夫人は殿下を意に介さず、私に視線を向けた。
「妃殿下のお腹のお子様も、私がお世話をいたしますので――」
「黙れ!」
殿下が迷わず剣を抜いた。
一閃。
夫人のドレスの裾だけが、見事に切り落とされた。
「ひゃぁぁあっ!」
恐怖に腰を抜かす夫人。
騒然となり、思わず動きかけた騎士たちへ、殿下の一喝が響き渡る。
「静まれ! 無礼は許さん!」
その鋭い眼光と覇気に、誰もが理解した。
アービン殿下は正気を取り戻し──真の支配者として戻ってきたのだと。
私は膨らんだお腹にそっと手を添え、一歩前へ出た。
「サラン夫人。あなたのお世話は必要ありません」
「な……っ!?」
「胎教に悪いですから」
「ご、ご無礼な! これは陛下のご命令ですよ!」
「それでも、お断りいたします。この子を守るために!」
私は怯むことなく夫人に告げる。
「あなたにお世話をしていただいたら、また酷い栄養不足になってしまいますもの。それではお腹の子が育ちません」
「……っ!」
夫人は言葉を失った。
ザワザワと夫人の悪行が、そこにいる貴族達にも広がっていく。
「二度と、私に近づかないでください」
私は胸を張り、殿下とともに王宮へと足を進めた。
「まずは正式に王太子へ復帰する。それからすぐに結婚式だ」
隣を並んで歩く殿下が、力強く言った。
「盛大に式を執り行い、君をこの国の王太子妃として認めさせる」
「はい」
「私について来てくれるか?」
「もちろんです」
私はアービン殿下を追いかけ続ける。
一生、どこまでも。
その後は、王太子へ戻った殿下の鮮やかな手腕によって、すべてが急速に動き出した。
間もなく執り行われた盛大な結婚式で、私は正式な王太子妃となった。
身の回りの者もすべて信頼できる人々に入れ替え、心穏やかにその日を迎えた。
――私は、母となった。
産声をあげたのは、元気な男の子だった。
この子には、私たちと同じ道を決して歩ませはしない。
たくさんの愛に包まれ、自分の意思で未来を選び取れる子に育てよう。
それが、私たち二人の誓い。
私たち三人の幸せな人生は――ここから始まるのだ。
最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。




