第4章「妻と柴犬」⑲
前原家の庭には、大きな木が数本あり、その隙間にぽっかりと空間が空いていた。
夫人の提案に従い、坂本は庭の一角に穴を掘り、犬の死体を横たえた。
「さぁ、お別れを言って」と彼女に促され、坂本の孫は、まだ涙を浮かべたまま、「トム、さよなら」と震える声で言った。坂本はじっと黙って見守ったが、夫人の忠告に従ったことを少し後悔もしていた。
だが、同時に、一線を越えなかったことで、安堵もしていた。
それからしばらくは、何事もなく過ぎ、前原夫人と顔を合わせても、あの日のことに触れず、当たり障りのない会話をした。彼女も今までと変わらず接してくれた。
季節が過ぎ、まだ寒いながらも草木が芽吹く時期になったころ、前原家の庭の椿が花を付けた。
その年の花の色は、いままで目にしたことがない赤黒い色をしていた。
坂本は、その色を見て、あの赤黒い石のことを思い出した。
「ちょっと変わった色ねぇ」と前原夫人は、苦笑しつつ、剪定ばさみで花を切り落とし、水盤の上に幾つか花を浮かべていた。
坂本は、庭に埋められた犬の死骸との関連性を思わざるえなかった。だが、その考えに何か根拠があるとも言いきれず、内心の懸念を、前原夫人に伝えるのはためらわれた。理解してもらえるとは思えなかった。日々が過ぎるうち、花は散り、赤黒い花弁が、庭の地面に降り敷かれていった。
春が来てしばらくしたころ、前原夫人は長く家を空けることになった。
「しばらく、留守にしますので」と坂本に挨拶をしたとき、彼女は少し痩せたように見えた。
それから、人づてに、彼女は重い病で入院したことを聞いた。
そして、彼女はそのまま自宅には帰って来なかった。




