第九十二話【初めての一歩】
バンガムでは補給に必要な最低限の時間だけ休憩し、そして馬車はすぐに出発した。
最終目的地であるウェリズではなく、バリスへ向かって南下し続ける。
以前に訪れた時と変わらず、ユーゴが馬車から飛び出して戦う必要がなかったのは幸いだろう。
「――遅えぞ、テメエら。チンタラやってンじゃねえ、殺すぞ」
「――痛ぁい――っ⁉ 姉さん! 蹴らないで!」
「別に寄り道もしてないし予定通りなんだから! そうじゃなくても蹴らないで! いつか本当に殺されちゃいそうなんだけど!」
そして、そんな私達を出迎えたのは、前回のヨロク遠征――北方の林での測量と開拓の際には姿の見えなかったマリアノさんだった。
あの時は、ヨロクよりも更に北、例の組織との戦線に加わっていた……という旨の説明を受けたが……
「こっからウェリズまでは魔獣の数も多いからね。そりゃ当然、最終防衛線を超えるわけだし」
「そうそう、前にフィリアちゃんに聞かれたことがあったっけ」
「魔獣の跋扈する危険地帯を、どうやって潜り抜けて商売をやっているのか、って。その答えが……」
「マリアノさんに道を開いて貰って、そこを馬車で駆け抜ける……ということですか」
画期的なやり方じゃなくてごめんね。と、ジャンセンさんは笑った。
そういえばそんなことを尋ねたこともあった。
あの時は彼らにしか使えない特別なルートが――開拓した安全な道があるのでは……と、そんな期待を込めての問いだったな。
「そんなわけで、やってることはうちもフィリアちゃんも同じだったってわけ」
「無理そうなとこ、ヤバそうなとこへは、こっちもヤバいもんを連れて行く」
「魔獣の相手をさせてる限りじゃ、姉さんもユーゴも大体同――」
「こんなクソガキと一緒にしてンじゃねえ――っ! 叩き潰すぞ、クソボケが!」
ボゴ――と、鈍い音を立てて、マリアノさんの右膝がジャンセンさんの腹部を襲った。
あまりに容赦の無い一撃に、ジャンセンさんはうめき声をあげることも出来ずにそのまま崩れ落ちる。
ユーゴの言葉による攻撃も胸が痛むが、こうも無慈悲に襲ってくる暴力に比べたら、幾分も可愛いものに思えてしまう……
「……結局、それしかないのですね」
「危険な道を通る裏技などどこにも無くて、身を護れるだけの武力兵力を共に連れて行くしかない」
「無辜の民には到底真似出来ない、誰かを救う手段にはなり得ないものしか……」
「……その為にオレ達が居ンだよ、デカ女」
「テメエらがのうのうと生きてる間にも、オレ達は大勢を護って、運んできた。北も、南も、それに西も」
っ。それは……それは、なんとも頼もしく、そして悔しい言葉だろうか。
私達には出来なかった――少なくとも、父の代より今に至るまで、そういう策を実行出来なかった。
私達では、国では出来なかった――すべき筈だったことを、彼らは代わりにやってくれていた。
強い畏敬の念と同時に、焼けるような無力感にお腹の底を熱くさせられる。
「げほっ……げほっ……そ、そんな顔しないで、フィリアちゃん。姉さんも、口が悪いよ」
「そんなこと言い出したら、俺達がそういう細々したことやってる間、フィリアちゃん達は国を維持してくれてたんだから」
「背負える規模の最大値でみんな頑張ってた、そこは事実でしょ。姉さんはすぐに喧嘩売るんだから」
「うるせえ。コイツほど呑気な奴だと、これくらい言ってやらねえと伝わらねえんだよ」
そう……だな。それにも言い返すことは出来ない。
私達は――宮は、事実としてヨロク以北やカンビレッジ以南の実情を把握出来ていない。
こうして厳しい現実を突き付けられねば、きっとまだ救えるだろうという希望的観測のもとでしか動けないのだ。
しかし……しかし、だ。
「――はい、その通りです」
「今までの私では、きっと何にも気付けないままだったでしょう」
「しかし、今は違います。今は貴女が――マリアノさんのように、私達では気付かないものを教えてくれる、叱ってくれる方がいますから」
「貴方達が伝えてくださいますから、私はもう何も心配していません」
「……うん、そうだね。姉さんもちょっとは見習ってよ。これが大人の対応ってやつだからね」
ジャンセンさんの余計なひと言に、マリアノさんはまた無言で膝を彼の腹部に突き刺した。
ど、どうしてそう人体の急所へ容赦無い攻撃を加えてしまえるのですか……
加減しているのは間違いないのだ。
けれど、彼女の膂力を目の当たりにしたことがある以上……ジャンセンさんの腹部が破裂して、内臓も肉も撒き散らしながら死んでしまうのではないか……と、そんな不安を覚えてしまう。
「げほっ……おえっ……と、とりあえず出発はまた明日の朝ね」
「ユーゴ、お前は特にしっかり休んどけよ。道中は姉さんに戦って貰うけど、なんかあったら流石に引っ張り出すからな」
「うるさい、お前の指図なんて受けるか」
それもお見通しだったとはな。
なんと言うか……ジャンセンさんにもマリアノさんにも頭が上がらない。
ユーゴとは約束をしたのだ。
私はずっと目の届くところにいる、きちんと守って貰いやすいようにふるまうと。
心配はつまり不安。
ユーゴにそんな無駄な心労を与えない為に、私から離れないで済むやり方を――代わりに戦ってくれるマリアノさんを、事前にこうして呼んでおいてくれたのだろう。
「じゃ、俺達は宿取るよ。そっちはどうする?」 「役場へ行けば泊めて貰えるだろうけど……流石に護衛も軍も無しじゃ怪しまれるよね。でも、一緒の宿……ってわけにもいかない」
「そうですね。しかし、万が一を考えれば、出来る限り近い場所に固まっている方が都合も良いでしょう。では……」
出来るだけ近い宿へ、別々に泊まる。
言うだけなら簡単だが、しかし現実的に宿泊施設が近くに固まっているわけも無い。
観光産業に力を入れた、大きくて栄えた街ならば別だっただろう。
だがここはそうではない。
となると、当然そういったものの需要は、労働者――特に、街と街を移動する、商人や運送の馭者にこそあるわけで……
「……ま、出来る限り、だからね」
「そっちにはユーゴがいて、こっちには姉さんがいる。そもそも近くにいても連携なんて取れないし」
「そ、そうですね……」
街へどう入って来るか、どこへ向かって出ていくか。
そういった需要がばらばらと点在しているのだから、当然宿と宿との間隔は広い。
こればかりは仕方の無いことだ。
私とユーゴは街の中心に近い宿に部屋を借り、ジャンセンさん達は街の北端――最も人の出入りが多い場所の、大きな宿で休むこととなった。
「なんだか賑やかで楽しいですね。ギルマン達とヨロクへ赴いた時もこんな感じでしたか」
「全然違う。ギルマンも頼り無かったけど、人間としてはまともだった。でも、アイツは本物のクズだ」
「マリアノだって……マリアノは……マリアノはまあ、まともそうにも見え……いや、アイツだっておかしい」
「ジャンセンが特別おかしいからまともに見えるだけで」
な、なんて言われようだろうか。
しかし……この様子だと、ギルマン達には相当心を許していたのだな。
そうなると……彼らを簡単には呼べなくなってしまったこと、彼らとまた遠征に行く機会が減ってしまったことは、ユーゴにとっては不幸なのだろうな。
私達はそれぞれ部屋に入り、そしてすぐに眠りに就いた。
ユーゴもきっと……いいや、間違いなく休んでいることだろう。
ジャンセンさんに言われたから――ああいう筋の通った話に対しては、凄くまじめに対応する子だから。
何かあった時には――と、しっかり自分を律してくれるから。
そして、今朝もまたユーゴの声に起こされた。
それだけ心を許してくれているのだと思えば、それ自体は良いのだけれど……
「なんでこんなに荷物がぐちゃぐちゃなんだ。昨日来て寝て起きただけだろ。何やってたんだよ」
「いえ、その、着替えも中に入っていましたから……」
着るやつは出して畳む、着ないやつはしまう。ちゃんとやれ。と、まるで母親のようなことを言われてしまった。
心を許してくれて……いるのだ。
決して、私を情けない女だと思って世話を焼いてくれているのではない……筈。そうかもしれない。
「さっさとしないと、すぐ迎えが来るぞ」
「その時にまだ寝ぼけてたから待ってくれなんて、絶対言うなよ」
「マリアノにはまあお前が馬鹿にされるだけだろうけど、なんか……こう……ジャンセンが待ってやろうって顔するのだけは嫌だ」
「そ、そんな理由で……いえ、そういう理由が無くとも、ちゃんとしなければならないとは思いますけれど……」
思ってたらさっさとやれ。と、ユーゴはそう言って部屋を出てしまった。
文句を言いながらも、荷物を簡単にでも整理してくれている辺りに……あの子はきっと、兄弟の多い家庭で育ったのだろうな、と。
下の子達の面倒を見るのに慣れているから…………誰が幼児ですか…………
着替えを済ませて荷物を纏めると、タイミング良くジャンセンさん達が迎えにやって来てくれた。
ユーゴに起こされていなければ本当に待たせてしまうところだったのかもと思うと、これもまたあの子の直感――危機察知能力の一端なのかと感心してしまう。
いえ、そんなくだらないことにまで発揮されてくれなくても良いのだけれど……
「姉さん、お願い。ユーゴも、なんかあったら頼むぜ。ま、なんも無いようにするけどな」
「信用ならない。フィリア、いざとなったら…………うーん……担いでいくと流石に……」
魔獣を蹴飛ばす力があるのに、私を背負うのは重たいと言うのですか……っ。
街のはずれまでやってくると、マリアノさんは馬車から出て、別の馬に乗って私達の前を走りだした。
ユーゴのように馬車と並走するなどという人間離れした技は彼女には無理……か。
ちょっとだけ……本当にちょっとだけ、彼女ならば出来るかなと思ってしまっていた自分がいる……
豊かさこそまだ満ちていないものの、しかし安全はそれなりに取り戻したバリスの街を後にして、私達はウェリズの街を目指す。
私とユーゴにとって、それは初めての出来事。
初めて、最終防衛線の外の街へと繰り出すのだ。




