逢 魔 決別
鋭敏になりすぎた聴覚は、脳に鈍い痛みをもたらす。
ともすれば、対峙する村人達の血の巡る音さえも感じ取れるような――
あきらかな異常。
間をじりじりと詰めてくる村人達へ、刀を正眼に構えた。
明確な殺意を向けてみても、村の住人は刃物に怯える様子はない。
それどころか、女王蜂を守る兵隊のようにマヤを後方へと隠す隊列を組んだ。
「まさか斬るおつもりですか? 化物ではなく、人なのに?」
「それは試せばわかることだ」
妖や霊の類いは幽体で構成されているため、人の手で触れることは不可能。
であれば、試す方法はマヤや老婆に確認したときと同じ。
空虚な目をした村人の男が、低い唸りと共にふらふら駆け寄ってきたかと思えば、手にした鉈を振り上げる。
遅く鈍重な振り下ろしを難なくかわし、片手で胸を突き飛ばす。
男はあっけなく転倒して後ろ手をついた。
男を突き倒した自身の右手を、俺はじっと見下ろした。
感触は確かなものだ。
実体がある。
「確認はお済みになったでしょうか」
「…………っ」
実体を持つということは、村人達が生きた人間であるという証明に他ならない。
魔憑きか?
あり得るのか? これだけの人数を一度に狂わせる化物など出会ったことも、聞いたこともない。
「ああ……退魔師様。どうか、この村をお救いくださいませ」
言葉とは真逆、マヤは村人を焚きつけるかのように手を振りかざす。
亡者の如き群れが一斉に襲いくる。
刀の刃先がピクリと反応するが、納刀して玉砂利を踏み込んだ。
人間を斬るわけにはいかない。
村人の集団に突撃し、肩や肘で人垣をこじ開ける。
村人達の農具が続々と地面に突き立ち、小石が弾け飛んだ。
憑かれているのならどこかに本体がいるはずだ。
オニヤンマと呼ばれる、俺が滅するべき化物が。
人波を突っ切り、マヤの隣を駆け抜ける瞬間。
「ここから逃げるのですか? あなたも」
背筋を冷やす声を置き去りに、庭の石垣を乗り越えた。
陽光に照らされた村は相変わらずのどか過ぎる風情で、たった今マヤ邸で起きた事態も幻だったのではないかと思わせる。
風の音が、水車の軋みが、川のせせらぎが直接頭にガンガンと鳴り響き、脳が警告を発する。
こんな感覚――……おかしいのは、俺なのか?
突如聞こえてきた大きな羽音に、空を振り仰いだ。
我が目を疑うのは何度目か。
翼の生えた人間――と、そうとしか表現できない。
創作で見る天使のように、巨大な翼を蓄えた十数人の村人が、空から真っ直ぐこちらへ急降下してくる。
「く……馬鹿げた話だ――ッ!」
推進力の乗った鍬の一撃を、水平に構えた鞘で受け止める。
強烈な衝撃は踏ん張ることも敵わず、鍬の男と一緒くたにあぜ道へと投げ出された。
馬乗りになった男は俺の首元を目がけ、鍬の鈍い刃をギリギリと鞘へ擦りつけてくる。
「ぐっ……どけ!」
男の腹を蹴り上げ、拘束から逃れる。
立ち上がった直後に降ってきたスコップをかわし、持ち主の顔面を鞘で殴打する。
泥に突き刺さったスコップを足場に跳躍すると、草刈り鎌の男を宙空ですれ違いざまに叩き落とした。
「はあっ、はあっ」
上空にはまだ大勢の翼人がひしめいている。
俺は踵を返し、田んぼのぬかるみをバチャバチャと駆けた。
取り憑いた人間の肉体まで変えてしまうなど、そんな事例はこれまでなかった。
一体どうなっている?
化物なのか? 全員。
実体まで得た常識外れの化物がこの世に存在するというのか?
広々とした田園を突っ切った先には、村を分断するように一本の川が流れている。
流れは速く、色味から深さもある。
いっそのこと飛び込んで身を隠し、下流で態勢を立て直そうか。
実行しようとした矢先、水面に大きな影が浮かび上がった。
戸惑う俺の目前で、盛大に水柱が立ち昇る。
水面から跳ねたのは、優に五メートルは超える巨大魚だった。
「なんだ、これは」
魚とは思えない牙の生え揃った口を開け、巨大魚は深く川底へと沈む。
津波のような水を浴び、ポタポタと垂れるしずくも気にせずただ立ち尽くす。
「村のどこにも、逃げ場などありませんよ」
振り向くと、村人達を引き連れてマヤが微笑んでいた。
村人は翼を生やした者だけでなく、獣じみた剛毛に覆われ四足歩行する者、全身の皮膚を突き破って何本もの農具が飛び出た者など様々だった。
およそ人間とはかけ離れた姿。
今の巨大魚もそうだ。
現実では起こり得ない白昼夢の如き光景だ。
濡れた顔を服の袖で拭い、ふとカサリと乾いた感触が気になって自身を見下ろす。
指先からはたしかに水滴が落ちているのに、着ている服はそうではなかった。
肌の露出部分だけが濡れ、服は乾燥していた。
つまり、これは――
「幻、か?」
呟くと、マヤは少女同然のあどけなさで小首を傾げる。
では、どこからが……どこまでが幻なんだ。
なにがこんな光景を俺に見せている?
また風がザワザワと騒ぎ、村人の足音や吐息、衣擦れの音が鼓膜に届けられる。
「……目が見えず、手足も無かったら」
「はい? なんでしょうか?」
さっきのマヤの台詞だ。
盲目で、物に触れる術もなく世界を認識するには、もう耳か鼻に頼るしかない。
村へ入ってからの聴覚の異常を考えれば、答えは自然と一つに絞られる。
ただ、可能……なのか?
「退魔師様。こちらは暗く、陰鬱な世界です。夜が続き、色もなく、決して朝は訪れない。わたしが住む世界は、そのような寂しい場所です」
音のみで、世界を構築するなど――
「だから創り上げました。太陽も、村も、住人も、全部」
両手を広げるマヤに呼応して、背後に控える村人達がスクラムを組むように寄り集まった。
いや、単に集まっただけじゃない。
骨をベキベキと不自然にねじ曲げ、互いの肉体をグチグチと混ぜ合いながら、一つの大きな肉塊へと変容していく。
こんなものは幻だ。幻覚に過ぎない。
だが、皮膚や筋繊維の裂ける音や、生々しく潰れる肉の音は、たしかに可視化された現実として俺の瞳に映るのだ。
「人の認識などとても曖昧で、脆いものです。幻肢というものをご存知でしょうか。本来無いはずの手足を認識したり、痛んだりすることがあるそうです。他には……そうですね、磔にされたキリストと同じ傷が手に刻まれる聖痕現象などは、聞いたことありませんか?」
「なにが言いたい」
肉塊は赤黒く巨大な手足を生やし、山の如くそびえ立った。
存在するはずのない化物は、日の光を遮って辺りに広く影を落とす。
「あまりに精密な幻は、精巧であるがゆえに人体に錯覚を引き起こします。痛みを与えることも、水で濡らすことも……つまりは死に追いやることさえ可能」
「所詮は、まやかしだ」
肉の巨人が拳を振り上げる。
咄嗟に後方へ飛び退くと、つい今しがたまで俺が立っていた場所に深々と拳が突き刺さった。
豪腕は固い地盤を抉り、村全体をも地震同様に揺らしてみせる。
「まやかしでも、殺せると言っているのです」
ハッタリではないのだろう。
事実、村人には感触まで存在した。
あの巨体に踏み潰されたとしたら、現実に俺は死を迎えるのだろう。
――だが、おまえは侮っている。
「誰が、誰を殺すだと」
巨人の鈍重な踏みつけを飛び込むようにかわし、刀を横薙ぎに足首へ叩きつける。
バランスの崩れた巨人は必死に体勢を立て直そうともがくが、そのふくらはぎ付近に片手で触れた。
支点とした軸足を一気に捻り、順に腰、肩と螺旋に力を繋げていく。
最後に、全身から絞り出した力を巨人へ触れた手の平より発する。
パァンと乾いた発破音が鳴り響き、巨人はボトボト細かな肉塊を落として崩壊した。
地に積み上がった大量の肉片は、それが幻であるということを裏付けるかのようにフッと消失する。
「まあ……すごい」
「内気功というものだ。一つ聞きたい、おまえはもしかして俺を聖人かなんかだと勘違いしてないか」
俺は他人を救うために、化物を滅しているわけじゃない。
「俺はただ、きさまら人外の存在が許せないだけだ」
すべては自分のため。
肉親を殺されたあの日に始まった。
国内も海外も巡り、役に立ちそうな技能は死に物狂いで習得した。
青春と呼べる一切は投げ売った。
幸い、そっち方面への才覚は人一倍備わっていたらしい。
「かわいそうな人ですね」
煽りなど意に介さず、ゆっくり歩んでマヤとの距離を詰めていく。
「おかげで、こうして化物相手にも臆しないで済む。安いものさ」
「友も恋人も、信ずる相手も持たず、完結した孤独な世界に一人きり。まるでわたしのよう」
「一緒にするな、と激昂してみせればいいのか?」
「一緒ですよ。いずれ、行き着く先はわたしと同じ地獄でしょう」
「なんだそれは。脅しのつもりか笑えない冗談か」
「いいえ事実です。あなたを待つ地獄は、このような――」
マヤが顔を伏せると、足元の土くれがボコボコと蠢き始めた。
周辺の地面が一斉に波打つと、芽でも伸ばすように無数の腕が生えてくる。
「っ!?」
俺の足首が何本かの手に掴まれる。
どれも幼児や赤子のそれを思わせる、ごく小さなサイズだ。
やがて土中から這い出してきた本体は、想像した通りの姿をしていた。
まだ歩くこともままならないような赤子や幼児が、マヤとの数十メートルの間に大勢横たわっている。
赤子達は這いずりながらこちらへ手を伸ばし、足や太ももにしがみついてくる。
無邪気な姿形からは想像もできないが、その怪力は尋常ではない。
――ただの幻だ。
落ち着いて刀を構え、足に縋りつく一人の赤子へ振り下ろした。
「……夏になれば、この辺りではオニヤンマがよく見られました」
先ほど斬った肉塊の巨人のように、斬れば消えると思っていた。
しかし転がった赤子の首は目を見開き、いつまでも俺の顔を見上げている。
「く……っ」
怯むな、これが現実でないことはわかっている。
足元に群がってくる赤子を両断し、子供を串刺しにする。
絶命した赤子らの遺体はやはり消失することなく、血生臭さすら漂わせる。
「勇壮に飛ぶオニヤンマを見るのが好きでした。あの時代、あの季節が永遠に続けばいいのに、と」
込み上がる嘔気を堪えながら、がむしゃらに敵を斬り捨てていく。
小さな体から噴き出した血溜まりと臓物を踏みしめ、ようやくマヤの眼前までたどり着いた。
「はあっ! はあっ! 終わりだ!」
着物の襟首を掴み、マヤを引き寄せる。
青白い手が、俺の頬にそっと差し出される。
「かわいそうに、こんなに苦しそうなお顔をして」
「――っ!」
思わず払いのけるも、マヤの手に触れることが出来ずに通り抜けた。
掴んでいた胸ぐらの感触も消え失せ、マヤがはだけた着物を正す。
「幽体は、生きている人間には触れられない。退魔師様がそうおっしゃっていましたね」
「ああ……そうだな」
上段から袈裟斬りに刀を振る。
「か……っ!?」
マヤの胴体に斜めの傷口が走り、闇のような黒い気体が噴出した。
「ただし“霊器”を除いては、だ」
たたらを踏んで後退するマヤへ、一歩一歩距離を詰める。
「人が死ぬと魂は幽界へ向かう。そのとき身につけていた物、手にしていた物も魂に引っ張られて、幽界に片足を突っ込むことになる。それを霊器と呼び、きさまら幽体を持つ者に対して唯一の武器として扱う」
「はぁ、はぁ、そうですか。そうやって退魔師様は化物を滅してきたのですね」
「きさまは、この刀に封じる」
告げると、マヤの瞳が大きく揺らいだ。
「……滅しては、くださらないのですか? 後悔しますよ? わたしの呪いは、ひどく単純で、強いものです」
動揺、焦り。
マヤの言葉には、そんな感情が込めらている気がした。
「呪いを恐れていては、こんなことは続けていられない。……まだ何かを恨んでいるのか?」
「いえ、もう何も。ですが呪いは消えません。そういうものなのです。もう一度言いますが後悔しますよ。あなたは夏まで生きられないでしょう」
息を荒く喘ぎ、マヤは睨みつけるような視線をよこす。
今度は余命宣告か。
預言者か占い師のようだな。
「“祓詞”だ。……“嘆きは、降り止まぬ。烈々たる慟哭に、もはや鎮魂も否なりと解す”」
「刀の中に封じられても、あなたの血肉の匂いは忘れません。たとえ持ち主が代わろうとも、何代も、何代も、呪いは命を途絶えさせる……!」
「“ゆえに絶無――”」
もう一度、傷をなぞるようにマヤの体を両断した。
「“消失を以て、救いとせん”」
斬った箇所から黒い粒状に崩れていき、マヤは徐々に刀へ取り込まれていく。
「あ……あ……」
やがて完全にマヤが消え去ると、ふと聴覚まで失った感覚に襲われる。
空に、不意に影が差す。
太陽が、遠くの山々が、田園が、家が真っ黒に塗り潰されていく。
オニヤンマの鮮やかな緑の目は、死ねばたちまち黒ずんでしまうというが。
なんとはなく、それを思い出していた。
シンと静まり返った山道を、足元も見えないような暗闇の中、進んでいく。
真っ暗な世界でただ一つ、マヤが住んでいた家にだけ微かな明かりが灯っていた。
吸い寄せられるように家へ近づけば、玄関前に老婆が立っている。
「……母を、ありがとうございました。ご依頼は、私が出しました」
老婆は深々と頭を下げる。
依頼主……いや、それよりも。
「マヤが、母……?」
「母の本当の名前は“ゆき”と言います。マヤは……私の名前なのです」
話が見えなかったが、説明を求めて老婆を仰ぎ見ると小さく頷いた。
「もう、戦時中の話です。父はガダルカナル島で戦死したと聞いております。まだ十五の母とは婚前だったようですが、お腹には私を身籠っておりました」
ソロモン諸島の一つ、ガダルカナル。
飢餓の島と呼ばれた激戦区だったとは聞いているが、そこまで戦中の話に明るいわけじゃない。
「村も空襲で焼け、一人、また一人と村を離れる中、母はここで私を産み、大病を患っても決して村を離れようとはしませんでした」
「……なぜ?」
「父と出会い、過ごしたこの村を愛していたのだと思います。やがて……人がいなくなり、廃村となった村が、急に賑やかになったのは幼心に覚えています」
村は過疎化が進んでいた。
まだ年端のいかない娘が、大病に侵されながらどうやって赤子を育てたというのだ。
「今にして思えば、母はきっと私を産んで、すぐに亡くなっていたのでしょう」
「そんな馬鹿な。それで、どうやって――」
「見たはずです、あなたも。私は活気のある村の夢を、ずっと母に見させられていた」
不可能だ。
食べ物はどうしていた? まさか化物となった母が食べさせてくれていたとでも?
ありえない話だ。
「母の見せる幻は相当に強力なものです。私の体もとうに尽きております」
「なんだと……?」
「もう終わりにしたかった。きっと母も同じ想いのはずでした。だから……ありがとうございます。これで、母の待つ場所へ、私も……」
老婆はもう一度深く頭を下げ、その場に崩れ落ちた。
「おい!」
慌てて駆け寄るも、差し伸べた手が止まる。
倒れていた老婆から急速に髪や皮膚が剥がれ落ち、たちまち白骨化してしまう。
何年も曝され風化したように骨はひび割れ、触れればボロボロと崩れてしまいそうなほど脆い。
戦慄した。
この老婆は幽体ではない。
ちゃんと実体があって、生きていたのだ。
マヤ――“ゆき”の音の幻覚によって、生きていると錯覚させられていた。
心臓の鼓動。
血管を巡る血や酸素の微細な音。
身体中にある臓器の活動する音を再現し、朽ち果てた身体を騙し、生かし続けていたのだ。
いったい、何十年もの間――……
白骨の背後で、マヤ邸が闇に消えた。
遠景の山の隙間から太陽が顔を出し、朝日に照らされる。
俺が立っている開けた場所にはなにも無かった。
村も、村人も、水車も、田んぼも、一切が存在しなかった。
川の水面を揺らす強い風だけが吹きつけ、老婆の骨を粉にして運んでいく。
何気なく見送れば、夏の山々を飛翔するオニヤンマの群れが……
このときたしかに、そんな光景が目に映ったことをはっきりと覚えている。




