↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/61

第058話:豪商は笑顔の奥で値踏みする

「……叔母様?」


 レイシャの口から零れた呼びかけは、普段の彼女からは想像しにくいほど柔らかく、わずかに幼い響きを帯びていた。店の入口近くには、内覧会を見に来た客たちがまだ途切れず立ち入り、焼いた肉と香辛料の匂い、淹れたての茶の香り、新しい木材が持つ清潔な匂いが幾重にも重なっている。その賑わいの中でありながら、レイシャの周囲だけはほんの一瞬、遠い昔へ引き戻されたように時間の流れが緩んだ。


 質素な上着に落ち着いた色の長裙、髪も目立たぬよう簡素にまとめた女性は、どこにでもいる旅慣れた中年の婦人にしか見えない。だが、よく目を凝らせば、その立ち姿には無駄がなく、背筋の通り方も、周囲へ向ける視線の配り方も、ただの見物客とは明らかに違っていた。後ろに控える二人も同じだった。男は荷運び人に見える厚手の服を着込み、女は市場帰りのような布袋を腕に下げているが、二人とも主人より半歩後ろの位置を崩さず、客の流れを妨げず、それでいて逃げ道や入口、店内の人員配置まで静かに把握している。


 女性――ゼルフィナ・ラーデンベルグは、驚いたまま動けずにいるレイシャをしばらく眺め、それから口元に上品な笑みを浮かべた。


「ええ、久しぶりね、レイシャ。もっとも、わたくしの方は噂を通して、あなたの近況を少しばかり聞いておりましたけれど。元気そうで何よりです。こちらへ来た頃より、ずっとよい顔をするようになりましたね」


「そんなに変わっていません。叔母様こそ、どうしてここへ。知らせの一つもなかったではありませんか」


「知らせてしまえば、あなたは迎えの準備をして、店の方々にも余計な気を遣わせるでしょう。わたくしが見たかったのは、用意された顔ではなく、普段に近いあなたです。それに今日は内覧会なのでしょう。客のふりをして紛れ込むには、ちょうどよい日でした」


 ゼルフィナは穏やかにそう答えたが、レイシャはその言葉を額面通りには受け取っていないらしく、わずかに目を細めた。長く会っていなくとも、相手の性格を忘れたわけではないのだろう。単に姪に近い存在の様子を見に来ただけならば、ゼルフィナほどの人物が部下を二人も連れ、わざわざ身なりまで庶民に合わせて現れるはずがない。そのことをレイシャ自身が最もよく理解しているようだった。


「……噂を聞いた、というだけではなさそうですね」


「もちろん、それだけではありません。ですが、今ここで商談を始めるほど無粋ではありませんよ。まずは店を見せてくださいな。あなたが何を見つけて、どのような場所に腰を据えたのか、それを知りたいのです」


 言葉遣いは終始柔らかい。それでも、聞く者に拒否の余地をほとんど与えない静かな圧があった。ゼルフィナの後ろに控えていた二人も、主の意図をすでに理解しているようで、男の方は入口付近に立って混雑を眺め、女の方は棚に並べられた商品へ自然な足取りで近づいていく。いずれも露骨に調査する様子はないが、値札の位置、客が手に取る順番、店員が声をかける距離まで見ているらしく、オルゼンには彼らがただの護衛でも付き人でもないことがすぐに分かった。


 レイシャもそれを察していたのか、少しだけ困ったような息を吐いてから、オルゼンの方へ顔を向けた。


「オルゼン、紹介します。ゼルフィナ・ラーデンベルグ。私にとっては叔母に近い方ですが、血縁ではありません。幼い頃から何かと面倒を見てもらっていました」


「ご丁寧にどうも。店主のオルゼンです。今日は内覧会なので、まだ不慣れなところも多いですが、自由に見ていってください」


 オルゼンが頭を下げると、ゼルフィナはすぐに返礼せず、まず顔を見た。次に肩、手、靴、腰へとごく短く視線を移し、それから店の奥へ目を向ける。その一連の動きは露骨ではなかったが、自分だけでなく、働き方や生活の癖まで一息に値踏みされたような感覚があった。


「あなたが店主なのですね。思っていたよりお若い方です。けれど、若いというだけで侮るほど、わたくしも商いを浅く見てはいません。レイシャが長く留まる場所を選んだのですもの。興味を持つには十分でしょう」


「留まる場所、ですか」


「ええ。この子は昔から、合わない場所に無理をして居続けるような性格ではありません。逆に、自分が納得した仕事なら、愚痴を口にせず、体の方が先に限界へ近づくほど続けます。ですから、楽しそうに働いているという噂を聞いた時には、むしろ少し心配したくらいですよ。楽しさは人を強くしますが、自分の疲れを見えなくすることもありますから」


「叔母様、その話をここでする必要はありません」


 レイシャはわずかに眉を寄せたが、声に本気の拒絶はなかった。普段の彼女なら、踏み込まれた話にはもっと明確に線を引く。それをしないのは、ゼルフィナに対して気を許しているからなのだろう。


「必要があるかどうかは、聞く側が決めることではありませんよ。ただ、安心はしました。顔色も悪くありませんし、目の動きも鈍っていない。それに、店内で誰かに命じられるのを待っているのではなく、自分で次に必要なことを探している。少なくとも、ただ使われているだけではなさそうです」


 そう言いながら、ゼルフィナは一度だけレイシャへ視線を向けた。そこには評価する商人の鋭さがあったが、それより深いところに、長く会えなかった相手を確かめる親しみが滲んでいる。レイシャもそれを感じ取ったのか、反論を重ねる代わりに、ほんのわずかだけ口元を緩めた。普段ほとんど笑わない彼女の変化は微細だったが、ゼルフィナは見逃さなかった。ただし、それについて言葉にすることはせず、何事もなかったように店内へ視線を戻した。


 その間にも内覧会は続いている。厨房側ではボルガムとカイルがテイクアウト用の肉料理を次々と仕上げ、注文を受けた分だけ紙包みへ移していた。これまでのように最初から十個だけと決めず、仕込みと火力、人の流れを見ながら販売を続けているため、厨房には常に緊張感がある。だが、混乱はなかった。カイルは荒っぽく見える手つきの中に妙な正確さを備え、焼き上がった肉の厚みや汁気を確かめながら包みに回し、ボルガムは炉の火加減を調整しつつ、次に必要となる量を先読みしていた。


「カイル、次の肉は一度に全部入れるな。客足が今のまま続くなら三分の二で十分だ。残りは少し遅らせた方が、包む時に汁が落ち着くし、売れ方が鈍った時にも無駄が出ねぇ。数を決めずに売るってのは、闇雲に作り続けることじゃない。今ある流れを見ながら、次の流れが変わる可能性まで残して仕込むってことだ」


「分かってるって、師匠。さっきより外の列が少し伸びたから増やそうと思っただけだよ。ただ、見物だけの客も混じってるな。店に入った人数を、そのまま注文数だと思うと読みを外す」


「そこに気づいてるなら悪くねぇ。客の足と腹は別物だ。人が多いから売れるとは限らねぇし、少なく見えても一人が家族分を買うこともある。だから注文の間隔、包みの減り、会計の滞りまで合わせて見る。料理人が鍋だけ見てりゃいい店は、店が小さいうちだけだ」


 ゼルフィナはその会話を聞き取ったらしく、歩みを少し緩めた。表情は変わらないが、後ろにいた男の部下がごく小さく頷いたのを、オルゼンは見逃さなかった。


 販売側ではクィナスが全体を見ながら客の流れを調整し、説明を求められた時だけ必要な言葉を添えている。押しつけがましく商品を勧めることはないが、客が迷っている理由を一度で見抜き、価格なのか量なのか、持ち帰り方なのかを切り分けて答えるため、会計前で人が詰まることが少ない。ミレイユは店の一角で茶葉と淹れた茶を販売し、料理に合う種類を尋ねられれば、香りの強さや後味を分かりやすく説明していた。クィナスはその様子を横目で確認しながら、客の波が一段落した隙にオルゼンへ近づいた。


「マスター、入口の滞留が少し長くなっています。見物だけの方と購入する方が混ざっているので、店内を一周してから会計へ向かえるよう、案内を変えた方がよさそうです。それとミレイユさんの茶を目当てに来た方が、料理の列へ紛れています。入口で目的を分ける案内を一つ置きましょう。今のうちなら混雑になる前に直せます」


「すぐやろう。立て札を一つ増やせば足りるか」


「立て札だけだと読まずに入る方もいます。入口に一人置いて、最初の一言で振り分けた方が早いですね。ただし、声を張り上げる必要はありません。ここは市場ではないので、賑やかさを作りすぎると店の雰囲気まで安く見えます。マスター、せっかく広くなった店を、客の数に浮かれて雑に見せないでくださいね」


「俺がもう浮かれてるみたいに言うなよ」


「まだ浮かれてはいません。ですが、これだけ人が来れば、そのうち口元が緩みます。緩む前に釘を刺しているだけです」


 隣で聞いていたゼルフィナが、そこで初めて少し面白そうに目を細めた。


「よく見ている方ですね。店主へ遠慮せず意見を出せる人間がいるのは、店にとって大きな財産です。もっとも、意見を言えるだけでは足りません。それを受け止める店主でなければ、やがて優秀な者から黙って去っていきますけれど」


「耳が痛いですね」


「痛いと感じるうちは、まだ大丈夫でしょう。自分に都合の悪い言葉を雑音だと思い始めた商人は、帳簿が赤くなるより先に、人が離れますから」


 クィナスはゼルフィナの言葉を聞き、相手が何者なのか詳しく知らないままでも、ただ者ではないことを察したようだった。オルゼンへ向けていた柔らかな圧とは異なる、よそ行きの丁寧な笑みを浮かべながら、軽く頭を下げる。


「その点は心配ありません。この店のマスターは、聞きたくない話ほど後で気にして眠れなくなる人ですから。反論はしますが、無視はしません」


「おい、クィナス。それ褒めてるのか」


「かなり褒めていますよ。反論もしないで聞き流す人より、ずっと扱いやすいです」


 ゼルフィナは声を上げて笑うことこそしなかったが、口元の笑みを少し深くした。レイシャはその横で、叔母に近い人物とクィナスが初対面から互いを探り合っている様子を見て、困ったように息を吐いている。


「叔母様、店の人を試すような真似は控えてください」


「試してはいませんよ。見ているだけです。そして、見れば分かることを、分からないふりもしません。あなたがここへ残った理由は、少しずつ見えてきました」


 その言葉にレイシャは何か返そうとしたが、ちょうど客から声をかけられたため、短く会釈して販売台へ戻っていった。ゼルフィナはその後ろ姿を見送ったあと、オルゼンへ向き直る。


「少し、お時間をいただけますか。店を止めるほど長くは取りません」


「構いません。奥の方なら少し落ち着いて話せます」


 内覧会の最中で完全に手を離すわけにはいかないため、二人は店内の端、厨房と販売台の両方を見渡せる場所へ移った。ゼルフィナの部下二人は近くへついてこず、自然に別々の位置へ散った。一人は商品の並びを見ながら客の反応を記憶し、もう一人はテイクアウトの受け渡しを眺めている。主の会話を守るために距離を空けたというより、会話中も店の観察を続けることを優先しているようだった。


「率直に伺います。あなたは、レイシャをこの店でどのように扱うおつもりですか」


「扱う、という言い方なら、たぶん俺の答えは気に入らないと思います。仲間として働いてもらうつもりです。必要なことは頼むし、向いていることは任せる。ただ、道具みたいに使うつもりはありません」


「きれいな答えですね」


「そう聞こえるでしょうね。でも、他に言いようがないんです。レイシャは自分で考えて動ける。だから俺が全部決めて、その通りにさせる方が店にとって損だと思ってます」


 ゼルフィナはすぐに言葉を返さず、店内へ視線を向けた。ちょうどレイシャが客へ保存方法を説明し、その後ろでメルフィアが包みの形を整えている。メルフィアは慌てている客に対しても声を急かさず、品物を渡す時には必ず両手を添えていた。


「損得で語れるのは悪くありません。人を大切にすることと、人の能力を正しく使うことは、別の話ではありませんから。ただし、仲間という言葉は便利です。責任の所在を曖昧にし、苦労を分かち合っているように見せて、実際には誰か一人へ負担を集める店もあります」


「それは分かっています。だから、俺一人が全部覚えて、全部決める形はやめようとしてるところです。最近も、知り合いに似たようなことを言われました。任せるなら責任まで捨てるな、でも責任を持つからといって全部抱えるなって」


「よい助言者がいるようですね」


「何人かいます。エルマばあちゃんにも、昔から散々好き勝手言われてきましたし」


 その名が出た瞬間、ゼルフィナの表情が初めて明確に止まった。ごく短い変化だったが、それまでどの話題にも余裕を崩さなかった彼女が、瞬き一つ分だけ反応を遅らせたのが分かる。


「……今、何とおっしゃいました?」


「エルマばあちゃんです。身内じゃないけど、俺にとっては祖母みたいな存在で。小さい頃から何かと面倒を見てもらってました」


 ゼルフィナはオルゼンの顔を改めて見た。先ほど店主として値踏みした時よりも、今度の視線はさらに深く、何かの符合を確かめるようだった。


「そのおばあさんというのは、銀色の髪に翡翠の瞳を持ち、大きな杖を肩へ担いで歩く方ですか。見た目だけなら少女ほどにしか見えず、口を開けば何十年も年上の者を叱るような話し方をなさる」


「ええ、そのエルマばあちゃんです。知ってるんですか」


「知っている、という言葉では少し足りませんね。わたくし自身が深く取引をしたことはありませんが、名のある豪商であれば、一度はその名と逸話を耳にします。商人、運び手、採掘師、薬師、領主、場合によっては国の役人まで、関わった者の数だけ話がある方です」


 オルゼンは思わず眉を寄せた。自分の記憶にいるエルマは、勝手に家へ上がり込み、茶の味が薄いと文句を言い、食事時には誰より早く席へ着き、困っている時だけ妙に的確な助言を残していく人物である。もちろん普通ではないことくらいは分かっていたが、豪商たちの間で名が通るほどだとは考えたこともなかった。


「エルマばあちゃん、昔なにをしたんだよ……」


 その呟きに、ゼルフィナは静かに微笑んだ。


「一つや二つではありません。干上がりかけた交易路へ、誰も価値を見いださなかった保存食を流して三つの都市を飢えから救ったとも聞きますし、暴落寸前だった鉱石を別用途へ転じて、潰れかけた鉱山町を立て直したとも聞きます。逆に、約束を違えた大商会から仕入れ先と運び手を一晩で引き上げさせ、半年も経たずに看板を下ろさせたという話もあります。どこまでが真実で、どこからが誇張かは分かりませんが、複数の土地で似た話が残っている以上、何もしていない方ではないでしょう」


「そんなこと一度も聞いてないぞ」


「ご本人が語らないのであれば、あなたに知る必要がないと考えているのでしょう。あるいは、知れば余計な目で見ると分かっているのかもしれませんね」


「いや、今までだって十分余計な目で見てたけどな。勝手に現れて、勝手に食って、いつの間にかいなくなるし」


「それを本人の前で言えるのでしたら、あなたはかなり気に入られているのでしょう。あの方へ遠慮なく物を言い、それでも縁を切られない人間は、そう多くありません」


 話しているうちに、厨房からボルガムがこちらへ視線を向けた。エルマの名が聞こえたのか、ほんの少しだけ顔をしかめている。クィナスも帳面へ書き込みながら耳だけは明らかにこちらへ向けており、二人とも普段なら見せない種類の警戒を滲ませていた。


 ゼルフィナはそれにも気づいたらしく、興味深そうに二人を眺める。


「どうやら、あちらのお二人もご存じのようですね」


「知ってるというか、苦手なんですよ。エルマばあちゃん、あの二人には特に遠慮がないから」


 それを聞いたクィナスが、離れた位置からすぐに口を挟んだ。


「マスター、聞こえていますよ。苦手なのではなく、あの方は人の隠したいところを見つけるのが上手すぎるんです。しかも、見つけた後で黙っていてくれるような慎みもありません。必要な忠告なのは分かりますが、もう少し順序と配慮というものを覚えていただきたいですね」


 ボルガムも肉の焼き加減を確かめながら、低い声で続ける。


「俺は年寄りに説教されるのが嫌なんじゃねぇ。筋の通った話なら聞く。だが、あの婆さんはこっちが何年もかけて積み上げてきた考えを一言でひっくり返した挙げ句、説明を求めると『自分で考えよ』で終わらせやがる。間違ってねぇのが余計に腹立つんだ。しかも翌日になると、何もなかった顔で飯を食いに来る。苦手にもなるだろうよ」


「二人とも、本人がいないからって随分言うな」


「本人がいたら、もっと言えませんから」


 クィナスが即座に返し、ボルガムも否定しなかった。その様子を見ていたゼルフィナの笑みには、先ほどまでの値踏みとは違う、純粋な可笑しさが浮かんでいた。


「なるほど。噂の通りのお方なのですね。そして、その方があなたを気にかけている。少なくとも、偶然だけでここまで来た店ではなさそうです」


「いや、エルマばあちゃんの名で店を評価しないでください。あの人が何者でも、この店を作ったのはここにいる皆です」


 オルゼンが少し強く言うと、ゼルフィナはかえって満足そうに目を細めた。


「今の言葉は悪くありません。後ろ盾を誇る者より、後ろ盾へ店の価値を預けない者の方が、長く商いを続けられます。ただし、縁を持っていることまで否定する必要はありませんよ。商いは人と人の間に道を作るものです。誰と繋がっているかは、それ自体が信用にも危険にもなりますから」


「それは分かっています。使える縁は使う。ただ、それを理由に自分たちの準備を怠りたくないんです」


「では、一つ覚えておきなさい。大きな縁ほど、借りた本人だけでは返せません。あなたが誰かに助けられたなら、同じ相手へ同じ形で返す必要はないのです。別の場所で、別の者を支え、その者がまた誰かを支える。商いの人脈とは、本来そうして太くなっていくものです。損得の帳尻だけを合わせようとすると、むしろ縁は細くなります」


 その言葉は商人らしく損得を語りながらも、単なる利益の話ではなかった。オルゼンは少し前、支援者を訪ね歩いた最後に聞いた助言を思い出した。任せることと責任を手放すことは違う。見えないところで受け取ったものは、自分が持っていたことさえ後になって分かる。あの赤い扉の向こうで投げかけられた問いまでもが、ゼルフィナの言葉と重なるような気がしたが、今ここで口にすることではないと思い、胸の奥へ沈めた。


 ちょうどその時、テイクアウトの受け渡し口から少し大きな声が上がった。売り切れを心配した客が、家族分をまとめて注文できるか尋ねたらしい。カイルが答えようとしたが、ボルガムが先に前へ出る。


「お待たせして悪いな。今の仕込みなら、その数でも用意できる。ただ、まとめて包むと中の熱がこもって食感が変わるから、二つに分けた方がいい。持ち歩く時間が長いなら、片方は少し冷ましてから包む。急いで渡すこともできるが、食べる時に一番うまい形を選んでもらった方が、こっちとしても気持ちがいい。どれくらい歩く予定か教えてくれ」


 知らない客に対して仲間の名を出すことなく、料理を作る側として必要な説明だけを丁寧に重ねる。客は最初こそ戸惑っていたが、自宅までの時間を答え、最終的には二包みに分ける形で注文した。ボルガムはすぐ厨房へ戻り、カイルへ低い声で指示を出す。


「カイル、あの分は後入れの香草を少し減らせ。歩いてる間に香りが強くなる。店で食うのと持ち帰りじゃ、同じ仕上げが正解とは限らねぇ。売る数を増やすなら、こういう違いを面倒がらず拾え。数が多い時ほど、一つ一つの客が見えなくなりやすいからな」


「了解。二つ目の包みは少し空気を逃がすように折る。家に着く頃にちょうど良くなるだろ」


「それでいい。考えて動けるなら、手は止めるな」


 ゼルフィナは二人のやり取りをしばらく眺め、それからオルゼンへ目を戻した。


「よい料理人ですね。技術だけでなく、売った後の状態まで考えている。あのような者は、店の規模が大きくなるほど貴重になります」


「本人に言うと調子に乗りますよ」


「聞こえてるぞ、マスター」


 厨房からボルガムの声が飛び、オルゼンは肩をすくめた。ゼルフィナはまたわずかに笑い、今度は店全体をゆっくり見渡した。新しい建物はまだどこか硬く、棚や壁にも使い込まれた店特有の馴染みはない。それでも、そこを動く人々の間には、互いの不足を補いながら一つの流れを作ろうとする意志があった。内覧会ということもあり、手際が乱れる場面や、客を待たせる瞬間もある。だが、誰かが失敗すれば別の者が責めるより先に穴を埋め、その後で原因を確かめている。


 ゼルフィナはそれらを見届けると、ようやくレイシャを呼び戻した。


「レイシャ、少しだけこちらへ」


 レイシャは客への案内を終えてから近づき、姿勢を整えた。先ほどより落ち着きを取り戻しているが、目の奥にはまだ再会の驚きが残っている。


「店は見ました。あなたがここで何をしているかも、概ね分かりました」


「それで、どう思われましたか」


「その問いに、わたくしが答える必要はありますか。あなた自身が満足しているなら、それが一番でしょう」


「叔母様は、そんな曖昧な答えをする方ではありません」


「相変わらず、言いにくいところを正確に突きますね。では、はっきり申し上げましょう。まだ店としては若い。規模を広げたばかりで、仕組みも人も完全には馴染んでいません。客の熱に支えられている部分もありますし、珍しさが薄れた後に同じ流れを保てるかは未知数です。けれど、失敗した時に誰か一人へ責任を押しつける空気がない。そこは評価できます。それに、あなたが自分の考えを持ちながら、他人のやり方を受け入れている。それは以前のあなたには少なかった変化です」


 レイシャは返事をせず、ただ静かに聞いていた。ゼルフィナは続ける。


「あなたは昔、やりたいことがあると言ってここへ来ましたね。それが何なのか、あの頃のあなた自身も、完全には言葉にできていなかったのでしょう。だから芽が出ない時期が長くても、帰るとも諦めるとも言わなかった。わたくしは、結果が出ないことを恥じる必要はないと何度も伝えましたが、あなたは納得していませんでした」


「覚えています」


「今も、やりたいことの答えを一つに絞る必要はありません。ただ、続けたいと思える場所を見つけたのなら、そのことを軽く扱わないことです。楽しいから続ける、という理由は、商いの世界では時に甘いと笑われます。ですが、苦しさしかない仕事を何十年も育てられる者は少ない。楽しさは、使い方を誤らなければ立派な力になります」


 レイシャの表情は大きく変わらなかった。それでも、視線がわずかに揺れ、しばらく会えなかった相手からようやく認められたような安堵が胸の内に広がったことは、そばにいるオルゼンにも分かった。


「私は、ここへ来てよかったと思っています。最初から何もかも上手くいったわけではありません。でも、今は明日試したいことが毎日あります。それを楽しいと言うなら、きっとそうなのでしょう」


「そうですか」


 ゼルフィナはそれだけを返した。褒めるでもなく、抱きしめるでもなく、ただ一度頷いた。しかし、その声には商談の時には見せない穏やかな温度があった。レイシャもそれ以上を求めず、ほんの少しだけ口元を緩める。ゼルフィナはその笑みを確かに見ていたが、やはり言葉にはしなかった。


 やがて、部下の二人が自然なタイミングで戻ってきた。男の方はゼルフィナへ小さく頷き、女の方は購入した茶葉の包みとテイクアウトの料理を手にしている。どうやら観察だけでなく、客としてきちんと金も払ったらしい。


「お時間をいただきましたね。今日はこれで失礼します」


「もう帰るのですか」


 レイシャの声には、ごくわずかな名残惜しさが滲んだ。


「内覧会の日に長居しては迷惑でしょう。それに、わたくしはあなたの顔を見に来ただけではありません。店を見た以上、考えることもできました。いずれ改めて、正式な身なりで伺います。その時は客ではなく、商人としてお話しすることになるでしょう」


 オルゼンは思わず姿勢を正した。


「商談ですか」


「まだ決めてはいません。ただ、龍人族の領域で扱われる品と、こちらの店の商品には、組み合わせ次第で面白い道がありそうです。わたくしは目的を持つ者へ手を貸すことを惜しみませんが、準備のない者へ金と人脈を渡すほど親切でもありません。次に会う時までに、この店がどこへ向かうのか、もう少し明確にしておいてくださいな」


 柔らかな声で告げられた言葉は、応援と試験の両方を含んでいた。レイシャもそれを理解し、口を挟まずオルゼンの返答を待つ。


「分かりました。今はまだ、広くなった店を回すだけで精一杯です。でも、何を売りたいかだけじゃなく、どういう店にしたいかまで考えておきます」


「よいお返事です。では、レイシャ。また近いうちに」


「はい。今度は先に知らせてください」


「考えておきましょう」


 それはおそらく知らせない者の答えだったが、レイシャは追及しなかった。ゼルフィナは来た時と同じく、どこにでもいる婦人のような歩調で出口へ向かう。二人の部下も後ろへ続き、外の人混みに紛れていった。その姿が完全に見えなくなってから、レイシャはしばらく入口を見つめていた。


「すごい人だな」


 オルゼンが横から声をかけると、レイシャはゆっくり息を吐いた。


「はい。自分にも他人にも厳しい方です。失敗そのものを責めることはありませんが、理由を考えず同じ失敗をする者には容赦がありません。それでも、目的を持って動く者には力を貸してくれます。私がここへ来る時も反対はされませんでした。ただ、途中で投げ出すなら、自分で帰る場所まで決めてから行けと言われました」


「レイシャが長く気にするのも分かる気がする」


「叔母様は、気にしていることまで見抜きますから。言葉にしなかっただけで、今日も多くのことを見られていたと思います」


「俺なんてエルマばあちゃんの名前を出した途端、急に見る目が変わったぞ」


 その名を聞いたクィナスが、少し離れた場所から帳面を閉じながら近づいてきた。


「それは変わるでしょう。マスターは、自分にとって身近な人が世間でどう見られているかを知らなさすぎます。エルマ様に関しては、私も全容を知りたくありませんが、少なくとも普通の旅人ではありません。今まで何度もおかしい場面があったのに、なぜそこで疑問を止められるのか不思議です」


「だって、聞いても教えてくれないんだよ。昔なにしてたんだって聞いたら、どうせ『少し歩き回っておっただけじゃ』とか言うぞ」


 ボルガムも厨房の手が一段落したところで近づき、腕を組んだまま重々しく頷いた。


「言うだろうな。あの婆さんにとっては、国境を越えて商会を一つ潰すのも、山道を散歩するのも、たぶん同じ『歩き回った』に入る。普通の尺度で問い詰めても、まともな答えは返ってこねぇ。だが、マスターが知らずにいること自体は、悪いことばかりじゃない。肩書きを知れば、言葉を聞く前に恐れたり、ありがたがったりする。あの婆さんは、そういう目で見られるのを嫌ってるんだろうよ」


「ボルガム、お前それなりにエルマばあちゃんのこと分かってるじゃないか」


「分かりたくて分かったんじゃねぇ。何度か痛い目を見れば、嫌でも学ぶ。人を見る時に名前や噂から入るなってことも、たぶんあの婆さんなりに叩き込んでるんだろう。もっと穏やかな教え方があるとは思うがな」


「そこは同意します」


 クィナスが即座に頷き、二人の間に珍しい完全な一致が生まれた。オルゼンは思わず笑ったが、当の二人から同時に睨まれ、咳払いをして誤魔化した。


「まあ、エルマばあちゃんの昔は今度本人に聞くとして、まずは内覧会を終わらせよう。まだ客は残ってるし、今日見えた問題も多い」


「今度聞く、と言いながら忘れないでくださいね。もっとも、聞いたところで煙に巻かれるでしょうけれど。それよりマスター、今の時点で大きな問題は三つです。入口の案内、テイクアウトの待ち時間表示、それから販売台の補充経路。特に補充は、客の前を横切る回数が多すぎます。今日は内覧会なので許されますが、本営業では見た目にも危険にもよくありません」


「分かった。閉店後に位置を変えよう」


 ボルガムも厨房側を振り返りながら、少し長めに息を吐いた。


「こっちは火力そのものは問題ねぇが、仕込み台と包み台の間が近すぎる。忙しくなると、熱い皿と冷たい材料が同じ場所へ寄る瞬間が出る。今日みてぇに客が増えても、事故が起きなかったからいい、で済ませるな。事故は一度起きれば、それまで百回うまくいった実績を簡単に食い潰す。今夜のうちに台を半歩ずらして、役割を分けた方がいい」


「師匠、半歩で足りるか。俺が包みに回ると、肘が当たりそうになる時が二回あったぞ」


「お前の動きが大きいのもある。だが、慣れで縮めるのを待つより、先に空間を作った方が早い。店は人を型にはめるためにあるんじゃねぇ。人が無理なく正しい動きを続けられるように作るもんだ。だから半歩じゃなく、一歩分取る。代わりに棚を縦へ回して、材料の位置を近づける」


「それならいけるな。俺もその方が動きやすい」


 レイシャもすぐ仕事の顔へ戻り、客の流れを確認しながら言った。


「販売側は、見物の方を急かさない案内が必要です。買う人だけを優先すると、興味を持って来た方が居づらくなります。今日は内覧会ですから、見に来ただけの方も客として扱うべきです」


 メルフィアも包みを抱えて近づき、少し考えてから口を開いた。


「私は、商品を並べる高さを少し変えたいです。前の方が低すぎて、後ろから見えませんでした。レイシャさんの案内が上手なので今は流れていますけど、見ただけで分かる形にできれば、説明する回数も減ると思います。それと、ミレイユさんのお茶の場所は香りが広がっていて素敵なんですが、料理を受け取る方が近くを通ると少し混ざるので、間に小さな棚を置いてもいいかもしれません」


「いいな。それも閉店後に試そう」


 誰か一人が命じ、他の者が従うのではなく、各自が自分の場所で見つけた問題を持ち寄り、次の形へ変えていく。ゼルフィナが見たものは、おそらくこの空気だったのだろうとオルゼンは思った。


 内覧会は夕方まで続いた。噂を聞いただけの者、以前の小さな店を知る者、ただ人だかりにつられて入ってきた者、取引先として設備を見に来た者、料理を持ち帰るためだけに立ち寄った者。客の目的はさまざまで、店側の想定通りに動く者ばかりではない。それでも、販売数を最初から十個へ限らなかったことで、来た者へ可能な限り応えるという新しい方針は、実際の形を伴って手応えへ変わっていった。


 最後の客を見送り、扉を閉めた時には、全員の顔に疲れが浮かんでいた。だが、それはやり切れずに残った重さではなく、次に直す場所が見えた充実した疲労だった。


 オルゼンは店の中央に立ち、まだ新しい床へ落ちる夕暮れの光を見ながら、静かに口を開いた。


「今日はありがとう。問題は多かったけど、やれることも分かった。十個で止めず、出せるだけ出す方針も、今の人数なら続けられそうだ。ただし、無理をして数だけ増やすんじゃなく、今日みたいに客の流れを見ながら調整する。それでいこう」


 クィナスは帳面を抱えたまま、少しだけ呆れたように笑った。


「ようやく、数を増やすことと、無制限に作ることの違いを言葉にできましたね。今日のマスターは途中まで、客が増えるたびに嬉しそうな顔をしていましたから、少し心配していました」


「してない。普通の顔だった」


「自覚がないなら、なおさら心配です。ただ、判断を現場へ任せた点は悪くありませんでした。次からは最初からそうしてください。全部の列を自分で見ようとして、三度ほど同じ場所を往復していましたよ」


 ボルガムも疲れた肩を回しながら、低く笑った。


「まあ、最初の大きな場にしちゃ上出来だ。客が来た時に慌てるのは仕方ねぇが、慌てたまま終わらなかったのが大きい。今日見つけた問題を、明日までに一つでも減らせば、内覧会をやった意味はある。逆に『何とか回ったからこのままでいい』と思った瞬間、今日の苦労は全部無駄になる。だから今から少し休んで、頭が冷えたら配置を直すぞ、マスター」


「休んでからって言いながら、もう棚を動かす顔してるぞ」


「それはお互い様だろうが。だが重い物を勢いだけで動かすなよ。疲れてる時の怪我は、たいてい『これくらいなら』から始まる。俺とカイルで厨房を見る。マスターはクィナスと販売側を決めろ。レイシャとメルフィアは客から出た意見をまとめてくれ」


「分かった。じゃあ、まず茶を飲んでからだな」


「その判断だけは早いですね、マスター」


 クィナスの生意気な言葉に、店の中へ小さな笑いが広がった。


 その夜、作業の合間に飲んだミレイユの茶は、昼間よりもずっと香りが深く感じられた。レイシャは湯気の向こうで静かに杯を持ち、時折、入口の方へ目を向けている。久方ぶりに会ったゼルフィナの姿を思い返しているのだろう。だが、その顔に以前のような迷いはなかった。厳しい目で見られ、未熟さを指摘され、それでも今いる場所を否定されなかった。その事実が、彼女の中へ確かな芯を一本通したように見えた。


 一方のオルゼンは、茶を口へ運びながら別のことを考えていた。


 三つの都市を救った。鉱山町を立て直した。大商会を潰した。豪商の間で知らぬ者はいない。


 そんな人物が、自分の記憶の中では、菓子を勝手に食べ、杖で頭を小突き、眠いと言って椅子を占領する小さな老人なのである。


 今度会ったら、絶対に問い詰めよう。そう心に決めながらも、その場面を想像しただけで、エルマが翡翠の瞳を細めて笑い、『昔話より今の商いを見よ』と煙に巻く姿がありありと浮かんだ。


 そしてクィナスとボルガムが揃って嫌そうな顔をする未来まで、ほとんど確実に見える。


 オルゼンは思わず苦笑し、まだ使い始めたばかりの新しい店内を見渡した。


 豪商が訪れ、古い縁の意外な重さを知り、新しい商談の可能性が残された内覧会の日は、ようやく終わろうとしていた。だが、広げた店の扉の向こうには、今日までの噂とは比べものにならないほど多くの人と縁が待っている。


 そのすべてを掴む必要はない。


 ただ、自分たちが受け止められるものを見極め、渡されたものを無駄にせず、次へ繋げていく。


 小さな店では考えもしなかった商いが、今まさに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。