第041話:また会う日まで
昼の賑わいが少し落ち着き始める頃、エルマは空になった茶碗を机へ置いた。
「さて」
その一言で、店にいた全員が何となく察する。
オルゼンが近寄ると、エルマは杖を持ってゆっくり立ち上がった。
「もう行くの」
「うむ」
店内を見回しながら満足そうに頷く。
「元気そうな顔も見られたしの」
オルゼンは苦笑する。
「本当にそれだけだったのか」
「それだけじゃ」
エルマは笑う。
「人というものはの、元気かどうかは顔を見れば分かる。わざわざ長話をする必要はない」
その言葉は昔から変わらない。
祖母が生きていた頃も、何かあるたびに突然現れては、お茶を飲み、少し話をして帰っていった。
それだけだった。
それでも不思議と安心できる存在だった。
「商売も順調そうじゃ」
「みんなのおかげだよ」
「その『みんな』がおることが、お前さんの力なんじゃ」
エルマは店の奥を眺める。
ボルガムは厨房で鍋を混ぜながら大きく笑っている。
クィナスは帳簿を片手に客と話し、レイシャは商品の補充を終えて入口を見ていた。
カイルは忙しそうに走り回り、メルフィアは新しい盛り付けを静かに描いている。
その光景を見て、小さく目を細めた。
「ええ店じゃ」
短い言葉だった。
しかし、それだけで十分だった。
オルゼンも自然と笑う。
「ありがとう」
「また近くへ来ることがあったら寄る」
「いつでも歓迎するよ」
「茶くらいは出せ」
「もちろん」
「菓子もあるとなお良い」
「それも用意しとく」
エルマは満足そうに笑うと、杖を軽く鳴らした。
「では、またの」
そう言い残し、小さな背中はゆっくり店を出ていく。
誰も引き止めなかった。
きっと、この人はそういう人なのだ。
風のように現れ、風のように去っていく。
店内にはいつもの賑わいが戻る。
オルゼンは少しだけその背中を見送り、また販売棚へ戻っていった。
エルマは中央通りをのんびり歩いていた。
「さてさて」
独り言を呟きながら角を曲がる。
目的地は決まっていた。
小さな卸問屋。
ラグネルの店だった。
店へ入ると、ラグネルは帳簿へ目を落としていたが、入口に立つ小さな影を見るなり苦笑する。
「……珍しい客だな」
「久しぶりじゃの、ラグネル」
「いつ以来だ」
「忘れた」
「相変わらずだ」
ラグネルは椅子を勧める。
茶が運ばれ、二人は昔からの知人らしい穏やかな空気で話を始めた。
商売の話。
都市の様子。
最近の流通。
どれも世間話程度だった。
話の途中で、ラグネルがふと思い出したように口を開く。
「そういえば、お前が昔好きだった果実を育ててる奴がいるぞ」
「ほう」
「リュナメルだ」
その名前を聞いた瞬間、エルマの眉が少しだけ上がった。
「ほほぅ」
「しかも種からだ」
「面白いことをするの」
ラグネルは笑う。
「イェルミナが管理している施設で育てている。ボルガムという熊族が責任者だ」
「なるほど」
エルマは静かに頷いた。
「少し寄ってみるかの」
それから間もなく、エルマはイェルミナの管理施設へ足を運んだ。
施設の中は冬を感じさせないほど暖かく、様々な植物が丁寧に育てられている。
イェルミナは来客を見るなり驚いた。
「これは……珍しいお客様ですね」
「邪魔するぞ」
「どうぞ」
案内された先には、小さな区画があった。
丁寧に管理された土。
支柱。
若葉。
そして、順調に育ち始めた六本の苗。
その中でも二本だけは、葉の色がわずかに違っていた。
エルマはしゃがみ込み、小さく笑う。
「元気に育っとるの」
「ええ」
イェルミナも穏やかに頷く。
「管理しているボルガムさんが、本当に毎日のように様子を見に来られるんです」
「そうかそうか」
エルマは一本の葉を眺める。
「これは珍しい」
イェルミナも少し驚く。
「ご存じなんですか」
「もちろんじゃ」
エルマは笑った。
「リュナメルという名も悪くはないが、昔は別の名で呼ばれておった」
「別の名……ですか」
「虹蜜果」
その名前を聞いて、イェルミナは小さく復唱する。
「虹蜜果……」
「実る果実は一つの色では終わらぬ。熟すほど香りも甘みも幾重にも変わる。じゃから昔はそう呼ばれておった」
イェルミナはその名を静かに胸へ刻む。
「素敵な名前ですね」
「今では知る者もほとんどおらんがの」
エルマは立ち上がり、苗へ向かって小さく笑った。
「頑張って育つんじゃぞ」
まるで子どもへ話し掛けるような優しい声だった。
風が吹き、小さな葉が揺れる。
それに満足したように頷くと、エルマは杖を軽く鳴らした。
「では、わしも行くとするか」
「もうですか」
「寄り道が長くなりすぎた」
イェルミナは深く頭を下げる。
「またお越しください」
「縁があればの」
その一言だけを残し、小さな背中は施設の出口へ向かって歩き出した。
去っていく姿は小さい。
けれど、不思議と誰よりも大きく見える。
イェルミナはしばらくその背中を見送り、それからもう一度、静かに育つリュナメル――いや、かつて虹蜜果と呼ばれた若木へ視線を向けた。
「あなたたちも、たくさんの人との縁を結ぶ果実になるのでしょうね」
冬の日差しの中、小さな葉は静かに揺れ続けていた。




