幕間――ある一家心中事件について
真夜中の花屋 Pantalea に、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
店内には、淡い灯りが落ちている。
天井から吊るされた小さなランプが、花々をぼんやりと照らし出していた。赤、青、白、黄。色とりどりの花が並んでいるにもかかわらず、店の中はどこか静まり返っていて、まるで時間そのものが止まっているかのようだった。
開け放たれたままの扉の向こうには、深夜の街が広がっている。
人の気配はない。
風の音さえ聞こえず、世界にはこの店だけがぽつんと取り残されているようだった。
カウンターの奥で、眼鏡をかけた女店主が新聞を広げている。
白い指先が紙面をなぞり、一つの記事の上で止まった。
地方欄の片隅に載った、小さな記事。
見出しには、こう記されていた。
『沿岸道路から乗用車が海へ転落。一家4人のうち、長女(10)の行方は現在も分かっていない』
記事によれば、事故が起きたのは数日前の未明。
海沿いの道路から、一台の乗用車がガードレールを突き破って海へ転落した。
車内から発見されたのは、父親、母親、そして中学生の長男。
いずれも、その場で死亡が確認された。
しかし、同乗していたはずの長女の姿だけがなかった。
警察と消防による大規模な捜索が行われたものの、長女の行方は現在も分かっていない。
遺書のようなものは見つかっていないが、家庭内の事情などから、一家心中とみて捜査は終了した――。
そこまで読み進めたところで、女店主の指先が止まった。
長女の行方は現在も分かっていない。
その一文の上に、細い指が静かに置かれている。
しばらくの沈黙。
やがて女店主は、小さく息を吐いた。
「まだ、見つかっていないのですね」
独り言のようなその声は、どこか優しく、そして少しだけ寂しげだった。
女店主は新聞をそっと畳み、カウンターの上に置く。
そしてゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、店の隅に飾られた一輪の花があった。
花弁は、完全な黒だった。
光を受けているはずなのに、その部分だけぽっかりと穴が空いたように、すべての光を吸い込んでいる。
色ではなく、夜そのものが花の形をとっているようだった。
風などないはずなのに、その花弁がわずかに揺れた。
女店主は立ち上がり、その花の前まで歩み寄る。
白い指先で、花弁の縁にそっと触れた。
「貴方は、いつ見つかるのでしょうか」
問いかけても、花は答えない。
ただ静かに揺れている。
まるで、何かを知っているかのように。
女店主は、ふっと微笑んだ。
眼鏡の奥の瞳が、薄明かりの中でわずかに細められる。
「大丈夫ですよ」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
それでもその声音には、不思議と安心させるような響きがあった。
「ここへ来れば、きっと少しは楽になれるでしょう」
店内には、再び静寂が戻る。
時計の針の音さえ聞こえない。
ただ、花の香りだけがゆっくりと漂っていた。
女店主はしばらくその花を見つめたあと、そっと店の灯りを見上げる。
そして、まるで誰かの訪れを待つように、静かに目を細めた。
数日後。
深夜の街を、一人の男性が歩いていた。
普段なら通らない道。
無意識に、ある店の前で立ち止まる。
灯りのともった花屋。
Pantalea。
男はしばらく看板を見上げていたが、やがて意を決したように扉を開けた。
その夜。
ある男性が、椿の花を買っていった。




