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どうも、邪神です  作者: 満月丸
冒険者編
114/120

彼女の真意

ケルトの体に突き立てた牙は、そこを起点に、まるでチューブのように自らの分けた欠片を埋め込んでいく。それは肉を通り、精神の奥底、魂へと到達する。


それは記憶。

それは人格。

それは、リーンという人間(・・)の全て。


微小故に魂まで到達したそれは、静かにゆっくりと溶けて、消えていく…。


その欠片が抱いていた全ては、走馬灯のように、ケルトの脳裏を過ぎ去っていく。





―――彼女は、暗い壁街の一角で、生を受けた。


娼婦だった母親と、酒を飲み明かしてばかりいる、ごろつきの父。

二人の癇癪と罵声と怒声ばかりが響く石壁の家屋で、彼女は育った。そして母が失せてから、彼女は自分で糧を得なければならなくなった。

クズのような父親からは愛情の代わりに暴力を、見知らぬ人間には見下された蔑視と強奪を。それらが繰り返され、もはや彼女にとってそれは日常となった。


彼女は、常に飢えていた。


常に侵される飢餓感は、もはや慣れたもので、そうあることが普通となっていた。それでも、その厄介な衝動と呼ぶべき代物は、時に彼女の理性を凌駕し、苦しみを与えてくる。

彼女はいつも飢えながら、薄暗い穴蔵を這いずり回っていた。


…そんな日々、彼女は決まって、ある日課をこなしていた。


壁街で唯一、陽の光を見ることができる場所があった。入り組んで人の出入りもない閑散としたそこは、天井の一部が崩落して、わずかに空を見ることが出来たのだ。

静かに輝きが落ちる地下。

彼女は太陽が見える僅かな時間を、そこで過ごすのが好きだった。

あの天から見える太陽は、彼女にとってはあまりにも眩く、目を開けていられないほどに輝き満ちている。だがわずかにしか見えないここならば、あの光がよく見えたのだ。

毎日決まった、僅かな合間。

見えるそれは、彼女の感情を静かに揺り動かしていた。

この感情がなんなのか、彼女はわからなかった。

ただ、他が与えることのないこの感覚は、きっと稀有で大切なものなのだろうな、と彼女は察していた。

だから、彼女はいつも、それを見に向かっていた。

盗みにヘマをしてボロボロになった日も。

父の折檻がひどく足が折れ曲がった日も。

毎日、彼女は足繁くそこへと通った。


…いつしか、彼女は輝きに魅せられていたのだ。



ある日のこと。



いつものように、浮浪者を殴り倒して獲物をかっさらおうとした。

いつもどおりの手順、いつもどおりの手管。

しかし違ったのは、その浮浪者が死にかけだったという点か。

思った以上の勢いで地面に倒れ、ピクリともしなくなった浮浪者に、彼女は小首をかしげて近づいた。…息は止まっていた。


ああ、死んだのか。


淡白な感想しか漏れ出ない。死体など、ここでは珍しくもない。浮浪者の中には死肉を漁る奴もいるから、それすらも綺麗になってしまうのは皮肉だろうか。

この世は弱肉強食。

強いものが生き、弱いものが搾取される。そんな世界だ。

弱者に分類される彼女もまた、他者を殺める側に回っただけ。否、今までだって他人の食い扶持をかっさらい、それが原因で死んだものも多いだろう。なら、今更だ。

そんな思考をして、さっさとねぐらへ戻ろうと踵を返した時。


…ぴしゃり、と、何かを踏みつけた。


見れば、それは赤い色をしていた。

それは液体だった。

川のように浮浪者から流れ出たそれに、彼女は振り返って死体を見下ろした。


そこで、生まれて初めて、衝動を現実にする機会がやってきたのだと悟る。


「ああ、そうだ。食べてみよう」


…それは、とても良案に思えたのだ。




初めて口にした血は、実に甘美で、抗えない高揚感を与えてくれた。




そして、あれだけ悩まされた飢餓感が失せていたことに気付いた時、ようやく気付いた。


「そうか、私は人間を食べるべきだったのか」


自分が人食いであると気付いて、ようやく身の内で、何かがカチリとハマった気がした。

そう、自分が人とは違う嗜好を持つということ。 

人とは違う味覚を持つということ。

自分がとんでもない人でなしなのだと、突きつけてきた気がしたが、しかし彼女の感情はこれっぽっちも動かなかった。

ただ、この甘露を得てしまった以上、これ以上の我慢をする必要があるだろうか、と考えたのだ。


そして、彼女は家に帰るなり、寝ている父を食い殺した。


その味は美味だった。



・・・・・・



そして、


遠く過ぎ去った日に、彼女は出会った。

いつもの光を見ている最中、男が現れて呟いた。


「…こりゃあ、驚いたな」


…狼の顔、毛に覆われた体躯、二本足で立つ獣種の男。

それから男は、両手を広げて、こう言ったのだ。


「どうだい、赤鬼さんよ。この穴蔵から出て、俺らと一緒に一旗揚げてみねえかい?」


…そして彼女は連れられていき、仲間に出会った。



そこから記憶は加速する。

まるで流れるように、欠片の記憶が、彼の思考を過ぎ去っていく。



彼らは碌でもない口八丁で、しかし冒険者で、大陸を股に歩いて興行じみた冒険譚を作り上げる、詐欺集団だった。

西へ行けばドラゴンを倒したと吹聴し、東へ行けば大鬼を打ち砕いたとホラを吹く。いつの間にか彼女もそれに加担し、村落の人々から、今までにない視線を浴びることになった。

厄介な、しかし共にあることが普通となっていく、愉快な一行。それを先導する獣人の男を先頭に、いつしか、彼女はそこに居ることが当たり前になっていった。

そう、仲間。

嗚呼、これが安らぎという感情なのか、と、彼女はうっすらと悟った。


天を見上げれば、輝く光がこちらを見つめている。

手を伸ばせど、それは手中に収まることはない。むしろ、身体は光を拒絶しようとする。

しかし、彼女の中で静かに灯るこの感情は、感覚は、彼女にとって一番に大切な代物だった。

嗚呼、ならばこれが、何かを求めるという感情なのか。


そう、思ったのだ。


・・・・・・

・・・・・

・・・



…悪夢を見た。



物心ついた頃からよく見ていた、奈落へと失墜していく、黒の夢。

生きとし生けるもの達が死に絶え、世界すらも壊れて、崩壊しようとしている刹那の終末。

彼女は、大地すら砕け、どす黒い深淵の底へと落ちている。

そのおぞましい黒さに眉を顰めて、天を見上げた。


そこには、巨大な瞳があった。


金の虹彩、全てを見据えるグロテスクなそれは、世界を見下し嘲笑っていた。

彼女を、人を、神々を、全ての物質由来の存在が崩壊するさまを、嬉々として歪んだ感情で迎えていた。

その瞳に魅入られるように、彼女はそれを見つめていた。

そして、彼女は…大きく口を開けて…



血、血、赤い、赤、赤、赤…



うっすらとした意識の中で、彼女は意識を覚醒させた。

フィルター越しのような、現実感のない光景を、ただ無心に見つめ続けていた。


赤が飛び散った、黒が崩れた、誰ともしれない指が飛び、気色悪い咆哮が月夜に震えた。


暴威が台風のように、当たるを幸いに暴れまわった。

おぞましい黒い皮膚、黒い角、黒い皮膜翼、引き攣れた異形は、まさに魔物と呼ぶに相応しい姿で、そこに居た…否、周囲にいた何百人もの無辜の人間を壊して回ったのだ。


そして、その中には、獣人の男も。


血に塗れ、地に伏せる獣人は、ゴポリと血を吐いて息を吐いた。ゴロゴロ唸る息づかい。それも当然か、彼の下半身は既になかったのだから。


「いい、か…おまえは、わるく、ねぇ…おまえのせいじゃ、なかったんだ……いいな?リーン…生きる者はいつか、死ぬ…これが、俺の運命…死に時だったんだ……だ…か、ら…」


そう言い、彼は息絶えた。


それから、その頭を掴んで、彼女は牙だらけの口を、開いた。



・・・・・・・

・・・・・

・・・



―――声が、聞こえた。


それを聞いて、彼女は赤い瞳を見開いた。



空には静かな月が、こちらを見下ろしていた。

自らの創造主であるそれは、じっとこちらを見つめているかのようだった。

手を上げれば、それはガサガサとした、黒く歪な異形。

それが自身の腕だと悟って、彼女は、天を仰いだまま、目を伏せた。


周囲の全ては破壊されている。

生きとし生けるものは、全て食い殺されている。

臓腑をぶちまけ、それで無邪気に耽るように、落書いた壁の跡。

尖った鉄柵の全てに、貫かれた人の首。

そんなおぞましい光景が、延々と、どこまでも続いている…続いていく。

そして、それを成したのが、まごうことなき自身だと悟り、彼女は…、



………嘲笑った。



最初から、不可能だったのだ。人と共存するなど。

人は弱く、脆い。そして、自身は彼らを壊さねばならない存在だ。


覚醒してから初めて感じたのは、多幸感。

彼らの撒き散らす不幸と悲しみは、これ以上もない程に美味であったからだ。

まるで一流のシェフが用意した料理のように、染み渡るそれを喜んで食した。

生きるためではない。

娯楽のために、本能の命ずるままに、奪った。食した。食いちぎった。

それは、今まで一度たりとて感じたことのない、空っぽだった身体の隅々にまで染み渡るほどの、至福であった。


なんとかなると思っていた。

彼らとなら、どこまでも行けると思っていた。

だが、そんなわけがない。そんなこと、できるわけがなかったのだ。

自分が、おぞましい破滅の魔物であると、もっと早くに気づいていれば、

こんな感情など、得なかったに違いないだろう。


瓦礫の合間に、何かを見つける。

それは、手紙だった。

家族へ宛てた、手紙。

それを手にすれば、くしゃりと握る。


「…ああ、これが苦しみなのか…嗚呼、神よ…お前は私に、もっと苦しめと言うのだな?そして、抗えというのだな…?この定めに、この運命に」


彼女は呟き、立ち上がる。

そして、天を見上げて、笑みを浮かべる。

それは、赤い涙を流しながら、赤い血に笑みを浮かべた、赤い鬼。


「ならば、私は夢を見よう。あの輝かしい光に焼き尽くされることを。私を殺す者が現れることを。そう、私の死に時(・・・)を…そして、我ら全ての破滅を夢見よう…そう、お前の、望み通りにな」


憎々しげに、愉快げに、彼女は天を睨め上げた。


「月よ、もう一つの我が主よ、私は貴方の望む通りにしよう。だから、いつか私を殺すものを、貴方が授けてくれるように、願うよ…」


赤い鬼は血の中で産声をあげながら、そう願いを捧げた。




そして、数十年が経ち…。




彼女は、輝ける人に(死に時を)出会ったのだ(見つけたのだ)




・・・・・

・・・・

・・・



渦巻く感情が制御できず、ケルトは暗闇の中で身悶えする。


この感情は、絶望は、愉悦は、全て彼女の抱いたもの。

ああ、なんと暗く重くおぞましく、そして尊い代物なのか。


それを全身で受けながら、ケルトは涙を流しながら膝をついた。

自身の抗う力は輝きとなって虚空に散り、闇に包まれたそこ…精神の奥底を照らし続ける。


「…初めて君に会った時、ひと目でわかったよ。君が、私を殺してくれるだろうと」


不意の声に顔を上げれば、眼前には静かに佇むリーンが居た。

常と変わらない様相で両手を広げ、リーンは続ける。


「魂の奥底、精神の内分け、ここが君という人間の奥底なのだね…消えゆく身としては、なかなか心地よい場所だ」

「…貴方、は…何故、こんなものを私に!?」

「意味かい?有るといえばあるが、無いといえばない。ただ、当てつけのようなものだよ」

「当てつけ…?」


リーンは、今は笑みを浮かべず、石の如く表情を変えない。まるでそれが素顔だと言うかのごとく。


「彼のお方は、私に苦しめと命じられた。この運命に抗えと。そして君も同じだ。私と同じく、運命という糸で縛られ、手繰り寄せられた人形。…我々はよく似ていると思わないかい?」

「似ている、ですって?」

「神という存在によって変容させられ、都合のよい尖兵として使われ、強制的に命を賭けさせられる…英雄、眷属、物は言いようだが、所詮は捨て駒だ。君も、私もね」

「…違います。カロン老は、私達を見捨ててはいない」

「どうしてそう言える?彼は戦わずに逃げ帰った。君たちに全てを任せてね。そう、この戦いに君たちが負ける可能性が高いと知っていて、見捨てたんだ…それを捨て駒と言わずに、なんと呼ぶ?」

「しかし今、貴方達は倒れ、残るは虚公のみ…我々だけでも世界は救えます!」

「…………アッハッハッハッハ!!!」


笑った。

リーンは、心から楽しげに、しかし歪んだ情動を載せた顔で、嗤ったのだ。


「君は勘違いをしている。虚公が倒せる?バカを言っちゃいけない。虫がドラゴンを倒すような愚行だよ、それは。いったいどれほどの数の虫が必要だと思う?」

「人を虫呼ばわりしますか…!」

「ああ、すまない。他意はないんだ。ただ、本当のことを例えただけで…いや、いけないな。何を言っても煽りにしかならない」


説明を諦めたリーンは、肩を竦めてからケルトに向き直る。


「ケルト、君と最後に話をしたかった」

「…話?今更、何を話せというのですか。私と貴方は敵同士です」

「だからこそ、だ。クレイビーとも、カルヴァンでもう話したんだろう?なら、良いじゃないか」


淡々と言うそれに、ケルトは不快げに眉を顰めつつも、口を開く。


「…どこまでが、貴方の本意なのですか?リーン」

「…どこまで、とは?」

「貴方は歪んでいる。狂っている。貴方は世界の敵で、私達生きとし生けるものにとっての、邪悪。しかし…ならば、貴方は何故、死にたがっているのですか?」

「………」


答えないリーンへ、ケルトは続ける。


「虚無は死を恐れないようですね。しかし、使命を果たせず潰えるのも、また違うでしょう。なのに貴方は…ハディに魔眼を与え、私とこうして話をしている。それは、何故?貴方は本当に、死にたいのですか?」


虚無なのに、という言葉に、リーンはクツクツと笑った。


「そのとおり。私は虚無の尖兵。世界を滅ぼす終末の因子、その一つだ。…だがね、それだけじゃない…私に手を加えた御方が、私に人としての「人間性」を与えてくれた…忌々しいことに」

「人間性…?」

「本来、虚無のエネルギーを集めさせるための方法が、我が同輩…導士としてのクレイビーの役割だった。そのために彼は人間に近い精神構造をし、人間らしい感情を多少なりとも抱いている。人を導くのに、完全な化け物は不向きだからだ。一方、私の役目は背後からの扇動、そして暗殺さ。だから、たくさんの魔眼を与えられていた」

「…それで、貴方は人間性を持たずに生まれるはずだった?」

「そう。本来はもっと無感情で、石塊のような化け物だったはずだ。…あの御方は、私に言われたよ。世界を救うために、私に因果を植え付けた。だから苦しめ、と。だから抗え、と。…だから、抗うことにした」

「自分の、運命に…」

「そうだよ、ケルト。世界を滅ぼす使命を遂行しつつ、私は私の死に場所を見つけることにした。彼が、ロウが最後に教えてくれた。人には皆、死に場所があるのだと。…それが、自死すら許されない私にとっての、希望となった」


ケルトの脳裏にフラッシュバックする光景。

獣人の男の最後の呟き。

それを思い出し、ケルトは思わず呆れた声を出した。


「貴方は…それを、本気で遂行するつもりなのですか…?自分が死ぬためだけに、こんなことを…?」

「私は虚無だ。主を裏切ることはできないし、素直に君たちへ協力することは出来ないようになっている。無論、自殺することもね。…そう悲しい顔をしないでおくれ、ケルト。私は確かにこの特性のせいで君たちと敵対しているが、本当は君たちのことは愛おしいとすら思っているのだから」


静かなほどに穏やかな口調だったが、ケルトは拳を握り、血を吐くように吐き捨てる。


「私は…貴方のやったことを許せません。ジャドを殺し、大勢の人を殺めた…そんな業を成した貴方を許すことは、それこそ許されない」

「…そうだね」

「ですが…同時に思います…貴方の行為が強制されたことならば…それは本当に、貴方だけの罪なのでしょうか…?」

「…純粋だな、青年。その純粋さは羨ましいね」


リーンは笑う。静かに、微笑むように。


「ケルト、私は間違いなく、私の意思でジャドを殺した。砦の、村落の人々を殺して回ったのだ。別に殺すのは、彼らでなくとも良かったのだからね。それに関して、虚無の特性だとかは関係ない。私自身の選択の結果だ。どんな理由であれ、それは私自身の罪となろう。…それを見誤ってはいけない」

「………」

「私は許されざる悪意の権化、人を苦しませ、死なせて利用する事が生の糧。世界と、君たちの敵だ。それを忘れてはいけない…私を、許してくれるなよ、ケルト」


許される方が冒涜的なこともある、とリーンは言う。

虚無を許してはいけない、罪の体現者を許す必要はない。

自身へ向けられた憎悪を全て肯定し、リーンはケルトへ近づいた。


「私はね、望んだんだ。あの夜、血の中で産声を上げながら。私の死に時となる存在を遣わしてほしい、と、夢見たんだ」

「…リーン?」

「だから、君に…贈りものだ」


おもむろに、ふわりとリーンはケルトに抱きつき…その魂に牙を突き立てた。

目を見開くケルトの内に、リーンは力を注ぎ込んだ。


それは、虚無の欠片。


リーンがハディへしたことと同じ、相手を異形へと変えるはずの行為。ただしその欠片は、あまりにも小さく、与えられた力はごく微小。だから、異形化など不可能な程度の、小さな異物でしかない。

冷たく、しかしどこか温かいそれは、ゆっくりと埋め込まれ、小さく芽吹いた。


…ケルトの内に入り込んだ、リーンという存在の人間性は、それ(・・)を与えるためにここに来たのだ、とケルトはようやく察した。


「…私はね、光に恋い焦がれていた」


リーンは囁く。

小さく、響く声色は震えている。


「君を始めて見た時から、わかっていたよ。君は輝きそのものだ。私が求めた、あの大空に満ちる輝きそのものだ」


光を乞う吸血鬼は、目を伏せて、その胸に顔を寄せた。


「嗚呼…この感情は、いったいなんと、呼ぶべきなんだろうね…」


最後にそう呟いて、赤月の吸血鬼は静かにケルトの身の内に溶け、消えていく…。




「…リーンッ!!」


我に返れば、眼前には異形の吸血鬼。

戦場にて、牙を突き立てられたケルトを離し、ボロボロと崩れ行く異形の中から現れた吸血鬼は、ゆっくりと微笑みを浮かべた。


「嗚呼………これは、いい………死に時、だ………」


…それを最後に、彼女は灰となって風に乗り、虚空へと消えていく…。



「………」


ケルトは呆然と掌を見つめ、言い知れぬ感情に翻弄された。

何なのだろう、ぐるぐると感情が目まぐるしく回り、怒りとも悲哀とも言えぬ激しいそれが波打ち、暴れまわっていた。


「…っ」


魂の奥底につけられた傷。

その欠片は、今までに無い力を宿している。ヴァルとは違う、虚無の、奴らの力の根源が、かすかにだが感じられる。

だが、それよりも。


「…何故、何故…こんなものを…!」


今、脳裏を暴れまわる感情。

それはリーンが遺していった、記憶の傷だ。

魂の奥底にまで至る傷を刻みつけながら、吸血鬼は風と散って去っていった。

その身勝手な、されどどこか縋るような影に、ケルトは言い知れぬ憤怒と憐憫を抱く。


「…貴方は、なんて身勝手な人なんだ」


そんなことは、分かっていたことだったが。

ただ、ケルトは理解した。


リーンは、ケルトに救いを求めていた。

自らの放棄できぬ使命を止めてもらうために、自身を殺してもらうために、全ての布石を使って全力で自殺を図り、それは成し遂げられた。


…悪夢を見る、夜が怖いと彼女は言った。


かつての言葉を思い返し、ケルトは深く、大きく深いため息を吐いた。



…ゆっくりと目を見開いたケルトから、唐突に凄まじいエネルギーが溢れる。

同時に、ケルトの右目が薄っすらと、血の赤へと変化する。

白く輝く赤い瞳は、あの吸血鬼と同じ色をしていた。


それを見ていたクレイビーは、血みどろの中で小さく呟く。


「か、覚醒、したのであるか…」


それは、綺麗な感情とは言い難い。仄暗く、血の匂いがする、しかしクレイビーにとっても覚えのある感情。リーンの欠片と、ケルトの感情が合わさり、彼の魂は今一段と昇華され…神の領域へと、片足を踏み入れている。


覚醒を辿ったケルトは、白く輝く瞳をクレイビーへ向け、冷たく言った。


「彼女は初めから、貴方がたを裏切る気だったようですね。だから、私にこんな代物を遺しました」

「…ひひっ!なんという、あの女め…どこまでも身勝手なものを遺していく化け物が…」

「…黙れっ!」


刹那、ケルトの輝く指先がクレイビーを雁字搦めにし、虚空に縛り付けた。

怒りの感情は強く、ケルトの魂に呼応して、無詠唱で魔法が発されたのだ。

そしてリーンの遺した傷は、彼の瞳に宿って、一つの光景を彼に見せている。


それは、世界を見透かす瞳。


その魔眼は、ケルトの眼前の異形、クレイビーの姿すらをも見透かしている。


「…彼女が化け物というのならば、貴方は何なのだ?彼女と違って、人としての理性を持ちながら人を裏切り、人間を喰らう貴方こそ、よほど化け物にふさわしい」

「…左様、我輩もあの女も、等しく同じ化け物である。当然であろう?我輩らはかつて、一つであったのだから」

「…だから、そんな歪な姿なのですか」


ケルトは顔を歪ませる。

半異形となっているクレイビー。しかしケルトの瞳には、捻じくれた白い竜に半分飲まれた、老人の姿が映っている。

そして、その体に纏わりつく、幾つかの影。

食い散らかされ、今なお彼にしがみつく、誰かの影。


「…貴方は、哀れだ」


ケルトは心からそう思った。

それに、クレイビーは目を見開いた。


「貴方が食らった者の中には、貴方を想う者も居たでしょうに。それを裏切り、魂まで食い漁り、喜んでいる…それがどれほど不幸か、貴方には理解できていないのでしょうね」


黒い影の塊が、クレイビーの…人としての彼に、縋るように抱きついている。しかしそれも、彼には見えていないのだ。


「その者達も、貴方を信じていたでしょうに…それを弄び、魂まで貶める。貴方はなんと邪悪で、哀れな化け物なのでしょうか…」

「……れ」


不意に、低い声でクレイビーが囁く。

ケルトが見れば、クレイビーは…。


「黙れ………黙れ、黙れ黙れ黙れ……黙れえぇぇぇっっ!!!!」


突如として激高し、目を見開いて叫んだ。


「神の尖兵風情が我らを語るか!貴様らがっ!!我らを救えもせぬ神々がっ!!私を語ろうというのかッ!!!傲慢が過ぎるぞ精霊風情がぁぁっ!!」


「…」


「私は、私は我が人生に不満なぞないっ!!だがな、このような存在に貶めた神々への怒りは忘れてはおらぬ…!!神が私を見捨てたのだ!!神が、我々を見捨てたのだっ!!だから私は世界を滅ぼすのだ…そう、私の為に!我らが生きた証のために!!!神をその頂から引きずり下ろし、この世ごとまとめて食らい尽くして滅ぼしてやると私は誓ったのだっ!!そうだ、あの…」


我に返ったように一瞬だけクレイビーは瞳を揺らし、大きく息を吐いた。

…しばし、息を整えるように黙してから、クレイビーはいつもの如く笑みを浮かべる。


「下らぬ揺さぶりだ…だが、よかろう、我輩と貴様らとの戦いは、負けのようだ………だがな、試合はまだ終わってはおらぬ!」


何をするのか、とケルトが眉を顰めると同時、クレイビーは天へと向けて叫んだ。


「おお!いと高き虚無の御方よ!!我が血肉を糧に、どうかこの忌まわしき世界の、崩壊をっ!!!」


それは、祝詞のように。

何かへ向けて、自身の存在を誇示したのだ。

全てを言い終えた、次の瞬間、


天から、黒い石の杭…否、黒い巨木の枝が振り、クレイビーを串刺しにした。


思わず目を見開く合間、クレイビーは血を吐きながらも、ケルトへ指をさして、笑った。


「滅べ、人間よ…塵も残さず、虚無へ…」


そして、杭はゆっくりと持ち上げられてから、凄まじい勢いで串刺しになったクレイビーごと、黒い幹へと戻っていく。


「…なにが」


一連の流れを呆然と見ながら、ケルトは黒い樹木へと視線を向けた。


そして、気づいた。


樹木の一部が盛り上がり、そこから、何かが這い出ようとしているのを。



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