SAN値直葬実況中継
帝都を目にすることの出来る、西の大河の手前。農地と大草原が広がるそこの一部から、何かが、徐々に姿を表していた。
それは、根っこのようだった。枯れ木の根のような、細長く巨大な黒いそれが、まるで生き物のようにウゾウゾと地面から這い出した。周囲の大地を捲り上げれば、そこにあった田畑や家屋が無残にも絨毯のようにひっくり返っていく。徐々に太く伸び、それから地面から何かを持ち上げるかのように再び周囲に潜り、地中から何かをズルリと生み出したのだ。
最初は、腕だった。
赤黒く、幹のように太く引き攣れた、三本指の怪腕。
一掴みで何人もを鷲掴めそうなそれは、角の生えた肘を折り曲げ、ジリジリと地を掻いて身を晒す。
次に出たのは、ひしゃげた、異様に伸びた二本の角。
角の外周は城の尖塔に匹敵するほど太く、長く、どだい、人の手では作り上げることなど不可能なほどに、巨大であった。
そしてそれが付いた頭は、肉塊と形容するにふさわしく、皺だらけのそこには2つの金色の光を放つ空洞があり、中央は台形の口と思わしき穴と、ゾロリと生え揃った鋭く、おぞましい牙。
首から下も継ぎ目が見えず、肩のような部位に巨大な角があり、下半身は巨大な、長い蛇のような気味の悪い肉腫。
それはゾルゾルと穴から這い出て、天へ向かって伸びていく。下半身の長い肉腫は途切れず、どこまでも伸びていく。肉腫のところどころから枝分かれした触手がいくつも伸びており、それ一面にびっしりと人の顔が張り付いていた。
天を仰ぎ、腕を伸ばし、それは咆哮をあげた。
まるで産声のような、おぞましく、背筋がゾワゾワと沸き立つような、言いしれぬ根源的な不安感を呼び起こす異形。
蛇のようにも見える異形は、まるで天を掴むように触手を空に伸ばしながら、動きを止めた。
…遠くから見れば、それはまるで黒い樹木のようにすら、見えただろう。
※※※
「なんだぁ…ありゃ…!?」
ヴェシレアの王宮。
ヴァリル王は、霞がかかった彼方に見える巨大な、あまりにも巨大な何かを、しかと目に刻んでいた。南大陸のここからでも目にできる、まさに異様なる異形。かすかにしか見えぬそれでも、半獣の眼は確かにそのおぞましさを脳髄に刻みつけていた。
「陛下!あれはいったい!?」
「…わからねぇ、だが、とんでもない代物なのは見りゃわかる…」
側近の言葉に唸る。何の答えも見出すことは出来ず、唸ることしか出来ない。
「ま、まさか…まさかとは思うが、デグゼラスの兵器では…」
「バカを言え、あんな異形をどうやってデグゼラスが作り出せる?魔法でも不可能に決まっているだろう」
「じゃあ、アレは一体…」
「わからん。わからんが…不吉そのものというのは確かだな」
ヴァリル王は、自身の鬣がぞわぞわと峙っているのを感じた。この第六感のような悪寒が警鐘を鳴らしまくっている現状、一刻の猶予もないだろう、と彼は即断即決した。
「よし、野郎ども!速攻で国境の軍を呼び戻せ!!」
「えぇ!?ですがここでデグゼラスが攻めてきたら…」
「そんときゃそん時だ!というか、帝国なんぞに構っている状況じゃないんだよ!大急ぎで領土内に軍を分散、全軍を防衛に当たらせろ!こりゃあ来るぞ!」
「来る、とは?」
ヴァリルはぐるぐると唸り、呟く。
「魔王が出現すると、魔物が凄まじ勢いで活発化する…もしアレが魔王に匹敵する何かだったとすりゃあ」
「まさか魔物の大波が…!?」
「それはマズイ!今、ヴェシレアの軍は全て戦争に向けて出発しかけておりますぞ!」
「だから呼び戻せ!足が速いラシュ氏族が伝令しろ!衛兵!王都周辺を厳戒態勢に当たらせろ!特に南方からの襲撃が予測されるから、そちらに傾注させとけ!」
「北の海峡はどうしますので?」
「海の前にゃ大渓谷がある。あそこから這い上がってくるのはワスプくらいだ…一応、最低限の戦力は維持しつつ、厳重に見晴らせていつでも動けるようにしておけ!大急ぎでだ!!」
「はっ!!」
慌ただしくなった王宮内、テラスから彼方を望みつつ、ヴァリル王はやはり唸る。
「勇者がいるのはラッキーだったと言うべきか…いや、勇者がいるから現れたか?ともあれ、例の救世の皇女様に期待しとくしかねえだろうな」
勇者に匹敵する戦力など、ヴェシレアにはないのだから。
ガリガリと頭を掻きつつ、ヴァリルは舌打ちする。
「やっぱなぁ…宣戦布告、早まったかもなぁ」
そうは思えど、後の祭り。
とりあえず現状を把握するため、ヴァリル王は足早に玉座の間へと急いだ。
…その後ろを、一人の男が異様な目で見つめているのに、気づかぬまま。
※※※
「…帝都が」
ラドリオン、その哨戒用の城壁の上にて。
大海峡を望めるそこで、海峡の果てに現れた巨大な、ここからでも天を突くほどに巨大なそれを見て、ラドリオン領主であるアレギシセル侯爵は遠望鏡から目を離した。どう考えても異常な事態に、部下はもちろん民衆もまた動揺に包まれている。
「…父上、これはいったい」
「どうやら、我らが想像だにせぬ事態が起こったようだな」
周囲を見回せば、侯爵の直属の部下たちが集まっている。青い顔のそれを見て、侯爵は顔色一つ変えずに口を開いた。
「帝都に不測の事態が発生した。あれの出現によって帝都はおろか、皇帝陛下の御身も危ない」
「どうしますか?」
「至急、帝都へ帰還する」
その一言に、流石の部下達も色めき立つ。
そんな部下たちへ、侯爵は静かに一喝する。
「皇帝陛下が居てこそ、我ら帝国は成り立つのだ。その御身に危険が迫っているというのならば、それを救うのが我ら貴族の使命。そのために領地を失うのも致し方なし!」
頭が無ければ手足があっても意味がないのだ、と侯爵は言う。
ゲーティオは青ざめたまま、侯爵へ言う。
「ですが今後、魔物の活性化も予想されます。ヴェシレアは元より、民を置いて戻ることは出来かねますが」
「無論だ。軍の3割を残して我らは戻る。ゲーティオ、お前には籠城戦と戦後処理を全て任せる。私に何かがあれば、全てお前が判断していけ」
「…はい」
「そして都市は第一級厳戒態勢へと移行せよ。領内の全ての主要な魔法士を城に緊急招集させ、同時に全軍を呼び戻せ」
「…父上、ついにアレを使いますか」
「ここで使わず、いつ使うのだ?」
頷き、ゲーティオは部下達へ指示を出し始める。
それを尻目に、侯爵は静かな顔で海峡を見ていた。
「…これは荒れているな」
「まあ、まるで見えているかのようですわ。旦那さま」
いつの間にか、後ろにやってきたのはアレギシセル夫人である。金の髪をたなびかせ、彼女は静かな面持ちで夫へ声をかける。
「行かれますのね」
「行かねばならん。魔法貴族として、我が家は全てを捧げねばならぬ身だからな。…この苦難を乗り越えても、ヴェシレアの侵攻によって攻め入れられるやもしれん。だが、後は頼むぞ」
「心得ております」
静かに、ただ頷くそれに、侯爵は初めて少しだけ表情を動かした。
「…私の立場上、逃げろ、と言うことはできん。しかし、そう思うことは許されよう」
「いいえ、逃げませんわ。民が残る限り、わたくしもここで共に戦います」
「馬鹿な女だな、お前は。あのまま何処へなりとも行けば、自由になれたのに。このまま死に急ぐか」
「あら、旦那様も死にに行くのでございましょう?なら、同じことではありませんか」
「…似たもの夫婦か」
互いに微笑み、しばし見つめ合う。
夫人は手に持ったマントを渡し、侯爵へ言った。
「…必ず、帰ってきてくださいませ。わたくしはここで、お待ち申しております」
マントを受け取り、侯爵はそれには答えず、目を伏せたまま無言ですれ違う。
ばさり、とマントを羽織ながら、もはや後ろを見ることはなく、進んでいく。
渡されたマントの重みに手を触れながら、侯爵は静かに呟く。
「必ず」
…その背を、夫人は見えなくなるまで、じっと見つめ続けていた。
※※※
人々のどよめきが都市を震わせている。
それを痛感しながら、カーマスはカルヴァンの復興途中の議事堂、その尖塔から彼方を見つめていた。
黒い、ここからよく見える、巨大な何か。
「…まさか、まさか、あれが…」
―――魔王。
同じく周囲で浮かんでいた誰かがそう口にし、その恐怖の名は次々と伝播していく。
魔の王、世界を滅ぼす者、絶対悪。
その代名詞の如き存在が眼前に現れたのだ、あれを魔王と断ずるのは至極、当たり前の流れであった。
カーマスはブルリと体を震わせて、両腕を擦って抱いた。
「うう…!め、メル教授は大丈夫なのかな…!?き、きっと…あの方がなんとかしてくれる筈…だよね?」
「カーマス殿、そう震えていては出来ることも出来ませんよ」
そう言うのは、傍に居たコルティスだ。
コルティスは冷や汗を浮かべつつも、震えるカーマスを相手に嘆息した。
「ともあれ、勇者であるメルサディール殿下がどうにかなさるのは確実です…僕たちも防衛に行きましょう」
「ううぅ~!ま、またこんな事になるなんてぇ!」
泣き言をいうカーマスを引っ張って行きながら、コルティス達はカルヴァンの城門、唯一の通り道である大橋の前へと向かった。
そこには、老若男女さまざまな魔法士が杖を持って集い、緊張を漂わせていた。彼方のあれを横目に、ある者は祈り、ある者は数式を唱え、ある者は興味津々に観察している最中、ようやく議長が到着する。
「ふう…ああもう、戦争回避の為に駆けずり回ったってのに、こんなことになっちゃってさぁ…せっかく先の騒動を口実に親書やら送ったっていうのに」
「愚痴を言っていても始まらないでしょう、議長」
太っちょコルショーと眼鏡のシオルは、めいめいに皆の前に立った。
「あー、と、そうですねぇ。議長になって早々にこんな事になっちゃったけど、まあ皆、肩肘張らずに頑張りましょう」
気の抜けたコルショーに嘆息し、シオルが補足する。
「…あの巨大なものは、間違いなくこちらにとっての敵である。あれから多数の魔物の出現が繰り返され、その規模は徐々に大きくなってきているとのこと…これより、カルヴァンの全魔法士は防衛のために出撃する」
「まあ、敵の大半はこの湖から来るでしょうねぇ。だからここで陣取って、なんとか魔物の軍勢を耐えしのごうってわけですよ」
「この騒動だ。必ず勇者メルサディール殿下があれを打倒し、魔物を一掃してくださるだろう。それまで耐えきれれば、我らの勝利である」
明確な指針を示せば、半数以上の人間はホッとする。誰だって先が見えないことの方が恐ろしく感じるからだ。
コルショーは笑みを浮かべて続けた。
「なぁに、この湖は天然の牙城!湖から来る魔物は水を用いた魔法で押し返し、他の魔物はあの大橋に張られたバリケードに苦戦することでしょう!恐ろしさに身を竦む思いもあるでしょうが、ここで逃げれば後方の大勢の市民が犠牲になるだけ……それにもう逃げ場はないから、死ぬ気で頑張りましょうねぇ」
「………もう少し威厳を伴ってほしいものだがな」
シオルの小声は、皆の咆哮にかき消された。
「ふ!この僕がいるのならば安心してくれたまえ!このレティオ・カーマス!魔物の軍勢など恐るるに足らず!」
「そうですか。じゃあ前線で結界を張っててくださいね」
「え、それは困る!ちょっとコルティスくん!?君のその態度って失礼、っていうか君って割とお兄さん似だよね!ちょっと!」
カーマスの文句は華麗に聞き流しつつ、コルティス達はゴクリと息を呑みながら、杖を構えて来たるべき時を迎え撃つべく、動き始める。
※※※
『…なんだ、アレは』
夜魔族の住まう山岳地帯。南方大陸の南端に位置するそこからでは、彼方のそれを目にすることは出来なかった。しかし、空気が震えて巨大な何かが出現し、世界に悪意を撒き散らしているのは、誰もが感じられた。特に夜魔族は魔法、つまり精霊との親和性が高く、精霊の悲鳴がつぶさに感じられたのだ。
ティアゼル砦で活躍した夜魔族のミイは、神殿の入口で銀の瞳を天へと向けて、冷や汗を流した。
『まるで、空が震えているかのようだ…いったい、何が…』
『これはこれは、物々しいことで』
『レンシュウ殿』
背後の建物、宗主の御わす神殿から、ゆっくりとした所作でレンシュウが出てきた。
レンシュウは切れ長の目を更に細めて、ミイへと口を開く。
『ミイシェア、左手となって早々に大事ではあるが、覚悟はよかろうね?』
『…無論のこと。我が師父の御霊と共に神官となった時、既に覚悟は出来ています』
『結構。では、こちらへ来なさい』
神殿の奥へレンシュウと共に進めば、最奥の座で宗主…ルドラ教の司祭というべき巫女が、目を伏せて座していた。
周囲の魔法陣がうっすらと輝き、薄暗いそこで光源となっている。
『…どうやら、虚無が動いておるようじゃな』
すっと銀色の瞳を開き、少女は自らの「腕」である神官達へと、目線を合わせる。
『魔王ではないが、それ以上の脅威を奮う怪物。虚公、と夜人は仰られた』
『虚公…それが、昼の民の地に?』
『ほほほ、愚かにも月神を軽んじた報いでありましょう。罰当たり共にはふさわしい厄難かと』
『そう申すな、レンシュウよ。彼らとて無知ではあるが、罪なき民ではあるのだ。月神はあの者らを見極めるために、降りておられるようじゃ』
『なんと…!』
夜魔族にとっての主神が、地上に顕現しているというだけで、彼らにとっては望外の喜びであろう。しかし、同時にルドラは神罰の象徴でもある。その余波がこちらにまでこないかどうか、やや不安ではあった。
…と、そこで神殿の外から騒がしい音が響く。
ミイが眉を顰めて振り返れば、やってきた兵士が深くお辞儀をした。
『何事だ?』
『はっ!夜王の使いが、この騒ぎに関しての説明を求めております!』
『王が?』
『相変わらず肝の小さい長だねぇ』
夜王、つまりは夜魔族の領土を統治する族長の使いに、レンシュウは皮肉交じりに口元を抑える。
しかし、宗主は首を振って言う。
『仕方がなかろう、前例の少ない事態じゃ。100年前は夜王も、まだ代替わりする前だからのぅ。…とはいえ、カーでの出来事だったが』
『それで夜の祭司を呼び出すなど、不敬と詰られても文句は申せませぬねぇ』
『致し方がない。どこも混乱しておるのだ。…伝令、すぐに向かうと夜王に伝えよ。それと民にも大々的に知らせよ。これは月神と虚無との戦いである、されど案ずることはない。我が神は此度の騒動に関わっておられる、とな』
『はっ!!』
『ミイシェア、レンシュウ。護法石による守りの陣の準備を。これから魔物が活発化する大波魔が発生する。領土全てを護法陣にて覆うぞ』
『『はっ』』
『事態は逼迫しておるが、我らに出来ることは無い。…かの夜人の仰られる【英雄】達に、全てを任せようではないか』
そう言い、宗主は小さくため息を吐いた。
『…まったく、今代もまた面倒な時代になりそうじゃのぅ…』
※※※
「…出たぞ、虚公だ」
「あれが…」
天井に投影されたその情景を、まざまざと見せつけられた人間たちは、誰もが言葉を無くしてそれに見入っていた。ただ、あまりにも非現実的な光景に、まるで出来の良い作り物を見せられているかのような気持ちになっていたのだ。
…しばしの、無言。
カロンは息をついて、周囲の人間へ言った。
「人間よ、あれは虚公。魔王すら凌駕する、世界を喰らう真正の化け物だ」
「…虚公」
ラングディールは、額に玉のような汗を浮かべながら、首を振ってカロンへ尋ねた。
「あのような存在が、我が領土の地下に…?」
「虚無教は巧みにアレの存在を隠していたようでな。私もこうして、アレが出てくる頃になって、ようやく気づいたほどだ。まあ、そう悔やむ必要はない。仕方がなかったことだ」
「あれは、何なのだ…!?魔王すら凌駕するなど、まさか、そんな…」
「信じたくないのはわかるが、現実は受け止めるべきだな。あれこそが、この大陸を滅ぼそうとする邪悪なる意思。神々に敵対する悪性存在そのもの」
「う、嘘でしょう…!?そんなもの、し、信じられるわけがありませんっ!!」
エリエンディールの悲鳴のような否定に、我に返った人間たちは口々に同意を示す。どだい、目の前でこんな存在が出たなどと、誰が信じられるというのか。
睨みつけるエリエンディールは、扇子を閉じて突きつける。
「そのような戯言で陛下のお心を惑わそうなど、なんて浅ましい!衛兵!この老人を今すぐ切って捨ててしまいなさい!!」
「し、しかし…」
「何をしているのです!?これはジュゼイレル公の命令ですわよ!?今すぐ殺してしまいなさい!!」
流石にオロオロする衛兵達の中で、ラーツェルだけは剣先を下げ、冷静な表情で天から目を離してカロンへ尋ねる。
「ご老人、アレはこの城からでも見えるだろうか?」
「なに、すぐに答えはやってくる。何事も待てば真実がわかろうというものだ」
そう言い合う間に、広間の扉が凄まじい勢いで叩き開かれた。
飛び込んできたのは、伝令である兵士。
敬礼すら忘れて、血の気の引いた顔で叫んだ。
「へ、陛下っ!!に、西の平原に突如として巨大な化け物が…!!ま、魔物と思われますっ!!」
簡潔な内容に、人々はぽかんとする。
合間、ラーツェルが冷静に聞き返した。
「敵の規模はどの程度だ」
「は…はっ!帝都見張り塔からも目視できるほどの巨体ですので、おそらく…この城にすら匹敵するかと…」
「間違いなくこの城よりはでかいぞ。帝都などひと踏みで半壊できるかもな」
飄々と言い放つカロンの言葉に、ラーツェルは目を細め、エリエンディールは真っ青で倒れかけ、ラングディールは頭を振り、皇帝は冷や汗だらけで拳を震わせた。
あまりにも急に、あまりにも巨大な存在の出現。
それに誰もが虚を衝かれ、何も言えなかったのだ。
「…それで」
その空気を割ったのは、悠然と構えるメルサディール。
彼女は虚公の出現にも汗一つ掻かず、堂々とした貫禄で皇帝へ尋ねる。
「それで、どうしますの?アタクシはアレを退治せねばいけませんの、陛下。こんな状況で戦争に耽っている暇など欠片もありませんわ。これ以上の被害が出る前に、早急に軍を虚公の元へ…」
「…ならぬ」
その一言に、メルサディールは思わず瞠目した。
皇帝は震えながら、しかし薄く笑っていたのだ。
「ならぬぞ、メルサディール。お前はこれから、ラドリオンへ向かうのだ」
「なにを、仰っておられるの…?」
「アレは我が帝国には手は出さぬ。故に相手にする必要などない、ということだ」
「…ご冗談ですの?」
あまりにも理解の及ばない言葉に、メルは思わず首を振って、皇帝の正気の所在を確かめた。
しかし、皇帝はまっすぐな瞳で、尚も言う。
「アレが出現するのはわかっていた。あの商人がそれを私に申したのだ…虚無教は、敵ではないと」
「なにを…」
「虚無は邪教ではない。故に虚公は我らへ手出しはせぬのだ。その信頼に足る者の言葉を受け入れ、私は戦争を始めるのだ…そう、全ては」
―――神の御心のままに。
その囁きのような呟きは、空虚な場に、不可解な感情をばら撒いた。
メルは唖然としてから首を振り、そしてサァァ…とその顔色から血の気が引いた。
「…まさか、まさか、お父様…!あの赤い吸血鬼に…!?」
メルの悲鳴のような言葉に、ケルトが小さく唸っている。
「なんという…いや、そうか。各国の権力者に、取り入っていないわけがなかったのか…特に、メルさんのお父上ならば、尚の事、放置するわけがない…」
「つまり、あの……………おっさんは、リーンに操られて…?」
ちょっと皇帝への呼び方に言いよどむハディの足元で、ひっそりとレビが口を出す。
『それでは、魅了に関して説明すればいいではないか』
「いえ、魅了の存在を説明したところで、受け入れられるとは思いません。この国の最高権力者の正気を、誰が疑えますか?間違いなく、そこに居る元老院などの側近が止めます。そんな醜聞を明るみに出すなど、彼らが認めるわけがない」
「面子、ってやつか?それじゃ、メル姉が教えても…」
「…勇者に傾倒している者ならともかく、普通の人は仕事と私情は別と考えるでしょう。それに魅了にかかっていても常の言動と変わりませんし、それを証明するにしても…いえ、あるいはカロン老ならば」
「いや、それはやらん」
戻ってきたカロンの一言に、ケルトは驚きの声をあげる。
「なぜですか!?カロン老ならば、魅了だって解けるはず…」
「そうだな。しかし、解いた程度では現状は良くならんのだ。あの皇帝が軍を率いて虚公と刺し違えると思うか?」
「それは…」
皇帝の性格に関しては、ゲッシュの件でもうなんとなく察しはついていた。解いたところで、メルに全てを押し付けて、自分は後ろに隠れていることだろう。
皇帝へ必死に抗議しているメルを横目に、カロンはニヤリと含み笑う。
「だからな、現状を利用させてもらうのだ」
「利用ってさぁ…」
「…また何か企んでますね」
「必要措置だ、恨むならば恨め。それに…そろそろ潮時だ」
「潮時って?」
「虚無が本格的に出現した以上、ここに残ることはできん。というか、さっきから神界のエレゲルから戻って来いという催促がひっきりなしでうるさくて叶わんのだ」
「は、はぁ…」
耳をほじりながら眉を顰めているので、本当に催促されてはいるらしい。ケルトやハディには聞こえないが、嘘ではなさそうだ、と二人とも半眼でそう思う。
「…なんだ2人とも、胡乱げな顔をしおって。それが師匠に向ける顔かね?ええ?」
「さ~て、なんでだろうなぁ~」
「ご自分の普段の態度を見直してから仰ってください」
「なんだねなんだね!二人して老人をイジメよってからに!そんなふうに育てた覚えはないんだからな!」
育てられた覚えはない、という間もなく、カロンはプンプンしながら精霊語で転移を精霊に命じている。
それが発動する間際、真剣な顔でカロンは言った。
「…これが今生の別れとなるやもしれんな。だがまあ、お前たちなら出来るだろう。なんといっても、この私が手ずから見てやった、自慢の弟子なのだからな」
ニヤリと笑って、カロンは忽然と姿を消した。
それを見送り、2人は顔を見合わせる。
「…捨て台詞で照れ隠しするなんて、爺さんらしいよなぁ」
「まあ、面と向かって言うような方ではありませんからね」
正直とは無縁な老人を思っていれば、メルの大声が響き渡った。消えたカロンに関して周囲はほとんど注視していなかったので気づかれてはいない。もっとも、宮廷魔法士は泡を吹いて気絶していたが。
「陛下!今一度、お考え直しくださいませ!!今ここでアタクシが出なければ、帝国はもちろん、ゲンニ大陸全てが破滅してしまいます!!」
「ならぬ!!今ここで出陣することは許さぬぞメルサディール!!たとえ勇者であろうとも我が命に逆らうことは帝国に逆らうことと思え!!」
「っ!!このっ……陛下は…この大陸がどうなってもよいと仰られますの!?陛下の仰るとおりだとしても、虚無教が無辜の民を傷つけぬはずがありません!!」
「そのようなこと、些末な犠牲に過ぎん!!民草程度の命など路端の雑草とどう違おうか!?」
その一言に、メルは今度こそ言葉が出なくなった。
帝国領土の、どれだけかはわからないが、何千何万もの人々が死ぬことを良しとしたのだ。この皇帝は。これが戦争や災害ならば、まだわかる。だがこれは必要のない犠牲、ただの暴挙だ。
これには元老院の貴族たちも、ざわざわとざわめいている。
「さ、流石にあれを放置してヴェシレアと戦うのは…」
「しかし、陛下は大丈夫だと…」
「そんな根拠がどこにある?それに、虚無教とは先だって、各神殿より予言された邪教のことでは…?一般民衆の間でもそれは周知されつつあるはずだが…」
「ご乱心だ…陛下がご乱心なされた…」
「静まれっ!我が命を遮るものは何人たりとも許さん!私を否定するのは神をも否定する事だ!進言するならばその命と引き換えにせよ!!」
「…陛下、それはあまりにも」
「黙れラングディール!皇太子であろうとも同じこと!これは勅令である!!」
「………」
黙らせられた人々は、懐疑の目で皇帝を見ている。だが皇帝はそんな周囲を目にも入れず、泡を飛ばして命じている。
「騎士団!今すぐメルサディールとその一行を捕らえよ!!」
「…御意」
皇帝の命令に背けず、ラーツェルが戸惑う部下に目配せすれば、騎士達は狼狽しつつもメルとハディ達を囲み、捕らえる。とりあえず両手を上げて無抵抗を示せば、特に悪い扱いもされずに、形ばかりに引っ立てられた。
ラーツェルに連れられる間際、メルは再び皇帝を見上げ、口を開く。
「お考えは、変わりませんのね」
「くどいぞ、メルサディール!お前は頭を冷やしてくるのだな!!」
「…そうですの。なら、結構」
メルは目を伏せ、本当に悲しげに、大きなため息をついた。
それから目を開いて、ラングディールへ目配せをする。
その視線を受け、ラングディールは静かに頷いた。
(…いいんだな、メルサディール)
そう問うような目線に、メルは微笑みを返す。
―――覚悟はもう決まっている。
そう言うかの如く、メルは堂々とした所作で、騎士たちと共に謁見の間を後にした。
「ラングディール、早急に軍へ通達せよ。予定の変更はなく、このまま南下すると」
「…はい」
「まったく、我儘娘め。いつまでも子供ではないのだぞ。国のために尽くしてこそ勇者、そうでなくば、勇者の称号にいったい何の価値があろう」
「…」
そう吐き捨てる皇帝を横目で見てから、ラングディールは目を伏せた。
(…老いましたな、父上)
そして、彼は目を開いてから、成すべき事を為すために動き始める。




