第4話 服を買うための服
「いやー、よかったよかった。おかげで街へ出る服をいっぱい買えた」
ぱりぱりと廃屋の床を踏みながら、彼女が陽気にしゃべっている声を、セトは遠い目で聞いていた。この少女は、無理矢理セトの服を奪った挙げ句、その場にあった古くさいタペストリーを赤毛が見えないようにびっちりとターバン風に巻き、どこかへ行ってしまったのだ。セトは足が痛くて動くこともできず、ただ見つかりにくいように廃墟の奥へと這っていき、木箱や額縁に囲まれた薄暗い場所でじっとしているしかなかった。それから一刻ほど経ち、今ようやく少女が帰ってきたのだ。
「あれ、どっかに行ったかな? いや、あの怪我なら当分動けやしないだろ。
おーい、お前の分の服も買ってきてやったぞ。
あのぼろ服は流石にもう着る気がしないから途中で捨ててきた」
「そのぼろ服を無理矢理引きはがして出ていったのは誰だよ!」
余りの暴挙に、彼は隠れていた額入りの絵の後ろから顔を出して抗議をし、足の痛みに顔をしかめて座り直すと、小さくくしゃみをした。
「あれ、代わりに私の服を着ていていいと言ったのに」
「誰が女の格好なんかするか!」
そう毒づいて、もう一度額の上から顔を出すと、今まさに彼女はターバンを取ってばさっと長い髪を下ろし、元の服に着替えようとして上着を脱いだところだった。セトは顔を赤くし、慌てて額縁の後ろに戻った。彼女は衣擦れの音を立てながら話し始めた。
「実は、街に出るための服を隠していたんだが、その隠し場所が昨日見つかってしまってな。全部燃やされたんで、どうするか考えていたところだったんだ。服を買うための服がない、という冗談みたいな話だ。このドレスじゃあ、流石に目立ちすぎるし。で、いいところにお前が現れたというわけだ」
ほら、服の礼だ、受け取れ、と額の上からぼんと真新しい服がとんできた。青地で仕立てのいい上着と、白い滑らかな手触りのシャツに黒い革のズボン。流行などはわからないが、今までセトが着ていたものとは比べものにならないくらいの値段がすることは容易にわかった。
セトは頭や右足をできるだけ動かさないようにしながら、慎重に服を着た。だが、どうしても頭と足首は痛む。服を着替えて木箱に寄り掛かかって痛みと戦っていると、どん、と衝撃がして頭がまた痛んだ。セトが寄りかかって座っている木箱の上に、少女が足を組んで座ったためだ。
「さてと、お前は一体何者だ? スパイか、それとも盗賊か。どちらにしても、膝蹴りでぶっ倒れて目を回すとは間抜けだな。」
助けられた本人が上からひどいことを言ってくる。セトは言い返そうとして、気づいた。
「もしかして、あの膝蹴りはわざと?」
「もちろん」
なんでもないことのように少女は答える。
「着地しようと思ったら、中庭に不審者がいたからそのまま攻撃した。何か問題でも?」
あの高さから落ちて、なおかつしれっと攻撃をするなど、常人にできることではない。この少女、おかしいのは頭だけではなさそうだ。
「じゃあ、どうして一旦倒した俺を助けたんだ?」
「そりゃ、服が欲しかったし。それに、小さなナイフしか持っていないわ、財布もないわで、ろくなものを持っていないようだったしな」
どうやら寝ている間に、持ち物を調べられていたようだ。
「ああ、それにスパイにしろ盗賊にしろだ。
縄が切れて他人が落ちそうになったところで、普通は自分の立場を弁えているから助けない。なぜお前がこの城に入ろうと思ったのか見当もつかん」
少女は思い出したように手を打った。
「そういや、ぼろ服に入ってたものだ。ほら、返すよ」
黒曜石のナイフと、くしゃっと丸まった版画が木箱の上から手渡された。
セトは驚いて見上げた。赤毛の少女はドレス姿で陽気な顔で見下ろしている。
「これ、武器なんだけど」
たまりかねてセトは言った。
「見りゃわかる。だが私の鉄の腹筋にそんなものは効かない」
敵かもしれない者に武器を返してどうするつもりなのか、唐突に始まった腹筋の自慢は何なのか、もう彼の頭では理解が追いつかなかった。
「……ありがとう」
諦めて、彼は素直にナイフと押し売りされた版画をポケットにしまった。
「そのかわり、なぜ王宮に忍び込んだのか話してもらおう。納得できる話なら、私が帰り道を教えてやっても構わん。いい取引だろう?」
この少女は、どうやら王宮の内部を知っている。確かにいい取引だ。首をはねられることに比べれば。少し黙った後、セトは意を決して言った。
「……笑わないか?」
「なんだ? まさか、好きな女が王宮仕えになったが、やっぱり納得がいかないのでさらいに来た、とかじゃないよな?」
どういう憶測だ、と思うが、彼が今から話すことに比べればある意味現実的なのがしゃくに障る。
「俺は捜し物をしにここへ来た。遥か昔、この城に封印されたと言われている伝説の『初代魔王の杖』を手に入れたいんだ」
一気に言い切って、彼は探るように彼女の表情を伺った。笑い出すだろうか、それとも馬鹿なことを、と一蹴するだろうか。そのどちらの経験もあった。彼が——いや、彼とリュシオン先生がその逸話を論文にまとめた際の、国際魔術師連盟の皮肉の効いた言葉が忘れられない。曰く、『精霊を信じる子供のように無邪気な論文であるので、精霊の会議にでもかけるべきである』。精霊がいるという説は一千年も前に廃れている。魔術師の用語にはちらほら残ってはいるのだが、存在などもう誰も信じていない。つまり、『初代魔王の杖』など存在しない、と言いたいわけだ。
だが、彼女の表情は呆れているのでも、笑いを堪えているのでもなかった。口をぽかんと開けて目を大きく見開き、きらきらと輝かせている。
「なんだって? 伝説の『初代魔王の杖』って何なんだ?
初代魔王って、あのヴィエタ帝国を建国したシド・ヴィエタのことか?
それがこの城にあるかもしれないって? めっちゃくちゃ面白そうな話じゃないか!」
きちんと話を理解しているとは言いがたい。だが、その好奇心にセトは少し救われた。
大分気を楽にして、話を進めることができる。
彼は徹夜して古写本を翻訳していたときのことを思い出しながら、ぽつぽつと言葉をたぐり始めた。
昔、ある逸話が、まことしやかに囁かれていたのは事実だ。
初代魔王、と呼ばれるシド・ヴィエタは、名うての魔術師だった。彼は魔術師だけの国を作ろうと、ヴィエタ帝国を建国する。しかし、その帝国は長続きしなかった。魔術師優位の政策は反感を呼び、とうとうカサン帝国の血を引く英雄白騎士、フォクセル・サンダルフォンに倒されてしまう。
「そのサーガは大好きだ! 『やがて来たりし角笛の、勝利の知らせが空に満ち、英雄白騎士フォクセルは、魔王の首を携えて、乙女が散らす花の中、凱旋門をくぐりけり!』」
吟遊詩人の歌を何回も聞いて覚えたのだろう、少女がいい声で一節歌った。
「話は概ねその通りだ。白騎士が魔王を倒してめでたしめでたし。タクト神教なら、話はそこで終わっている。だが、魔術教では様々な解釈があるんだ」
この少女に、魔術教の教義の説明からする気はない。おそらく理解できないだろう。それに、この国の国教はもちろんタクト神教だ。魔術教との共存も許されているとはいえ、一神教のタクト神を崇める人々に、魔術教の一の根源の説明をしたところで話が逸れていくだけである。
「信憑性のある魔術書に記載されていたのは、このティルキア城は魔王の生まれた城ではないかという仮説だ」
「本当に?」
少女は廃墟をきょろきょろと見渡した。まるで、どこからかひょっこり魔王が出てくるのではないかとでも言いたげだ。
「まあ、今のティルキア政府に聞いたところで、ここが魔王の生まれた城なんて絶対に認めないだろう。そんな不名誉なことはないからな」
「そうか? 魔王が生まれた城なんて、なんだか格好いいじゃないか」
相変わらずこの少女は人と感覚がずれている。だが真面目に聞いてくれるだけありがたいと思わなければ、と彼は話を続けた。
その文献には、彼は自身の死期を悟り、生まれた城に『初代魔王の杖』を封印したと書かれていた。『初代魔王の杖』は自らの意思をもち、そして魔力を断ち切る魔力の剣が持ち手の下についている。その杖を持つ者は、倒した者の魔力を全て自分のものにできるという、恐ろしい力があった。
杖は、封印の間の岩に突き刺さっていて、選ばれし者だけが引き抜ける、という。腕に覚えのある魔術師は皆、列を作ってそれを引き抜こうとした。が、全員失敗に終わった。失敗の先にあるのは、死だ。あまりに死亡が続くため、百年ほどで杖を抜くことは禁止され、杖のある場所へは誰もたどり着けないよう対策が施された——。
ここまでが、約六百年前の古文書に書かれた内容である。ヴィエタ帝国の崩壊から二百年の時が経っているとはいえ、この話を書いたのは信頼できる有名な逸話収集者だ。事実であることも一概に否定はできない。
彼が語り終えると、少女はうーんと首を捻って考えていた。
「それって、王宮のどこにあるのか分からない杖を探し出すってことだろう?」
「そうだけど」
「ここは広いぞ。一日じゃ、とても無理じゃないか?」
それはそうだ、とセトは認めるしかなかった。王宮に入ったところで、兵に見つからずに封印の間を探すことすら難しい。特に、こんな足になってしまっては。出直すといったところで、次も兵士に出会わないという幸運に恵まれるかどうかはわからない。
「よし、わかった!」
木箱から、少女がぴょんと飛び降り、セトの前に立って、手を差し出した。
「お前、私の従者になれ。それで話は解決だ!
ちょうど、私のもう一つの仕事に付き合ってくれる奴を探していたところだったんだ。
それに、私もその『初代魔王の杖』とやらを探してみたいからな! 八百年前のお宝なんて、わくわくしてきた!」
見つけたところで失敗したら死ぬ、という下りを聞いていなかったのか、それとも聞いた上でわくわくしているのかわからない。だが、力か死か、というところまで追い詰められていたセトは、あまりに楽観的な言葉を前に、目をしばたたかせて少女の手を見つめた。
……しかし今、彼女は奇妙なことを言わなかっただろうか。
「従者って、どういうことだ?」
「あれ? そういや、私名乗ってなかったっけか?」
名乗るどころか、セトも自己紹介さえしていない。
出された日焼けした手をとって握手し、彼は一応自分から名乗った。
「俺は、セト。セト・シハク。あんたは一体何者だ?」
彼女はにっと笑い、腰に手を当てて仁王立ちになった。
「私は、ネフェリア・グレイフォン・ティルキア! この国の第一王位継承者だ!」
……そんなはずはない。そんなはずがない。否定の言葉が頭の中でぐるぐる木霊する。
彼は急いでポケットからくしゃくしゃの版画を取り出し、その似顔絵を確認した。
優しげで優美な下がり眉、物憂げな眼差し、美しい卵形の顔立ち、天使のようなあどけない微笑み。文句なしの美女だ。
目の前にいるのは、きりっと上がった眉、鋭い緑色の瞳、にっこりというよりにやっとした笑い顔。そしてすっきりした頬と面長の顔。きつい美人とも言えなくはないが、他人に躊躇無く膝蹴りをかます人間だ。
交互に版画と実物を見比べて口も聞けなくなっているセトに、彼女はあっけらかんと言った。
「うん。大分盛ってるなこの絵は」
「いや、全然似てない!」
「街の版画なんぞ本気にするな、蓋を開ければ大抵こんなもんだ」
詐欺だ! セトは心の中で盛大に叫んだ。