第2話 王都ティルキアナ
「兄ちゃん、そろそろ見えてくるよ」
どこまでも広がる、雲一つ無い青空。御者の老人の声に目覚め、セトはいい匂いのする干し草の上から起き上がった。昔の夢を見ていた。無造作に切った黒髪を振って干し草を払う。汚れで灰色とも暗い水色とも判別のつかなくなってしまった旅装束からも、念入りに干し草を落とした。
干し草を積んだ馬車に乗せてもらい、鬱蒼と茂った山道を、延々と登り続けて二刻ほど。馬車より高かった木々は急勾配を登るにつれて低く、間隔も疎らになっている。
そして、まるで道が途中で空へ途切れているように見える坂道を登りきったとき、目に飛び込んできた光景に、彼は藁の上で思わず立ち上がった。低木の繁る山の向こうには、なだらかな丘陵が続いている。緑が萌えたつ時期で、丘陵では豆粒のような羊や牛が草をはんでいた。煉瓦の黄色い道が、山の麓から彼方へとうねり、長い蛇のように見える。その先に、おもちゃのような小さな城壁に囲まれた、青い瓦の屋根の群れ。そして一番奥に、深い青をした一筋の線が、雲ひとつない空と地上を隔てていた。
話には聞いていた、海に面した王都だ。
「あの街が、王都ティルキアナだ。あんた、初めてだって言っていただろう?」
御者の麦藁帽を被った老人が得意そうに言った。
「ここは、見返り坂と呼ばれとるんだ。その昔、王都を追われた王族や貴族が、最期にここで振り返り都に別れを惜しんだ場所だそうだ。王都が見えるのは、西街道ではここが最後になるからのう」
皮肉なことだ、とセトは思う。自分とは全く逆の立場で、同じ風景を見ていた人がいるなんて。
と、そのとき。白い煙と小さなぴかっと光るなにかが、街の方から見えた気がした。セトは目を細めた。次の煙と光がみえるころ、やっとこちらにポン、という軽く小さな音が聞こえてきた。
「もう花火を上げているなあ。今年の王女聖誕祭は盛大だぞ。もう十五歳にお成りだし、王太子様達の喪も開けて一年経つからな」
セトが無口なのにも構わず、老人は軽く話しかけてきた。十五歳なら彼の歳と同じだ。誕生日には花火が上がり、この日ばかりは王宮の庭に一般の人々が入ることを許される。そして高いバルコニーから王族達が手を振っているのを、眺めることができるのだ。この機会を狙って、セトは大急ぎで王都まで来たのだ。花火が上がったということは、もう聖誕祭が始まったのだろう。そう思うと、俄然焦りが出てきた。もう少し速く行けないだろうか、と尋ねると、老人は笑ってのんびりした調子で答えた。
「あんた、そりゃあ無理だね。こんな天気のいい日に急ぐなんてできるわけがないよ」
結局、王都の門をくぐったのは、正午を過ぎていた。彼は藁運びを手伝った後に礼をいい、老人と別れた。しかし、大通りはどこもかしこも人でごった返していて、田舎育ちの彼には歩くことすら一苦労だった。誰かにぶつからずに歩いている人々が不思議なくらいだ。両脇にはびっしりと店が立ち並び、異国の珍しい食べ物や布地や武器、その他何か分からない商品までもが通りにまではみ出して売られていた。この街は、西大陸でも有数の貿易拠点なのだ。世界中からありとあらゆるものが集まってくる。
「版画だよ! 刷りたてほやほやの版画だよ!」
耳元で大きな声で叫ばれたので、セトは驚いて振り向いた。太っただらしない格好をした女が紙の束を持ち、呼ばわっていた。そして、こちらを見るなり、紙を一枚渡してきた。思わず受け取ってしまい、彼はしげしげと眺めた。なにしろ書面を路地で配るところなど、見たことがなかったからだ。
『王女様聖誕祭が盛大に開催!』という見出しの次に、少女の似顔絵が描いてある。これがティルキアの王女様、ネフェリア・グレイフォン・ティルキアだ。顔と同じくらいの大きさに結い上げられた頭。ふんわりとした卵形の顔立ちに、少し垂れ目の優しげな眼差し、微笑んでいる柔らかそうな唇。稚拙な銅版からでも伝わってくるような、美しい少女だった。
「銅貨三枚!」
太った女が前に手を付きだして叫んだ。セトは目を丸くした。そちらから渡してきたのに、お金を取るのだろうか。
「何ぼーっとしてるんだい! 見出しを見たらもう返品不可だよ! 早く払っとくれ!」
してやられた、と思いながら、セトは嫌々財布を開け、銅貨三枚を手渡した。金も心許ないのに、こんな商売に引っかかってしまうとは。セトが金を払うと、女は途端に愛想がよくなり、ありがたいねえ、また見ておくれよ、と言って呼び込みに戻った。
もう絶対買わない、と思いながら、それでも元をとろうと、彼は一旦人通りのない路地へと避難し、民家の壁にもたれかかって大見出しを追った。
『謎の赤騎士、リアン・フェニックス、人狼退治でまたまたお手柄!』
『街で一番美味しいパン屋選手権開催』
『ティルキアの新しい名物? カニの串焼きが大好評!』
『違法船舶、取締り強化。今、貴方の舟が危ない!』
見事にいらない情報ばかりだ。やはり金の無駄だったか、と思った瞬間、小さな枠に囲まれた注意書き欄を見てセトは総毛立った。
『王女聖誕祭警備主任からのお知らせ : 皇太子逝去以前の恒例儀式であった、王宮前庭への立ち入りとバルコニーごしの謁見は、安全性の強化を鑑み昨年に続き中止される』
セトは言葉を失った。知らなかった。バルコニーでの謁見の話を聞いたのは、数年前のことだったからだ。
いったい何のために今日この日、ここへ来たのだろう。この機会を逃せば、王宮へ忍び込むことなどできないではないか。
裏路地で、彼は銅貨三枚で希望を根こそぎ取っていった紙を無造作にくしゃっと丸め、ポケットに入れてずるずるとへたりこんだ。
困難が待っているということは分かっていた。誕生祭に紛れて忍び込んだところで、前庭以外の場所で見つかれば容赦なく捕らえられるだろう。
だが、少なくとも城の壁を越えるというほぼ不可能な難事業に挑まなくても済む。
座り込んだセトが民家の屋根ごしに見上げた遥か上に、ティルキア城の尖塔の先が幾つも見えた。城下街より数段高い崖の上にあり、街とも人間五人分ぐらいの高い城壁で隔離されている。壁の厚さは計り知れず、昔のヴィエタ世界大戦でも全壊しなかったと聞く。そして、街に面していない方は、荒々しいシータ海に面した、ほぼ垂直の崖となっている。ティルキア城。そこは、八百年前から難攻不落の城として燦然と君臨してきたのだ。
セトはため息をついた。そして、城の尖塔を睨み付けるようにして立ち上がった。
望みは少ない。それでも、彼は城へ行かなければならない。
師匠につぐ魔術師になるために。
「おい、そこの田舎者よぉ」
声をかけられて初めて、セトは通りの後ろに二、三人が道を塞ぐように立っているのを知った。どの人間もぼろ布に無理矢理袖を通したようなぴちぴちの服を着て、目つきも悪い。確かに田舎者であることは認めるが、何の用であれ失礼だ。
「何の用だ」
きっと睨むセトを、三人がにやにやと笑って見つめる。
「何の用だ、だと? そうだな、金を貸してくれ。返す当てはねえが」
セトは少し呆れてしまった。この身なりを見たら分かりそうなものだが、持ち合わせは微々たるものだ。
が、もっと金を持ってそうなのを選べ、と言う暇もなく、後ろから首に腕を回され、ニワトリにでもするようぎゅっと締められた。どうやら後ろにも仲間がいたらしい。息が苦しくて頭がぼうっとしながらも、セトは腰から黒曜石のナイフのつかに手をかけた。ざっと下から切り上げると、後ろの男はぎゃっと叫んで首を離した。腕から血が滴っている。くそ、と前の男の一人が言い、腰から大型の肉切りナイフを出した。もう一人は手斧、もうひとりは普通の短剣だ。冒険者崩れに違いない。
「大人しくしてりゃ、財布だけですんだのによ! 」
セトは油断なく身構えた。後ろに一人、前には三人。こんなときに魔術を使えたらどんなに心強いことか。だが、彼にそんな技術はない。あるのはサブで使うナイフの技術だけだ。前の肉切り包丁と手斧と短剣が、一斉に襲い掛かってくる。セトは一度応戦をするようにナイフを振り上げ、いきなり後ろへ数歩下がって跳躍した。まだ腕を押さえている男の肩の上へ、逆さまになって両手をつく。男はバランスを崩して情けない声をあげながら前へ倒れ込みそうになる。反転して着地したセトが襟首を掴んでそれを止めた。その背中を、武器を持つ男達に押しやり、盾にする。
ぎゃああ、と裏路地にもう一度悲鳴が響いた。セトを狙っていた肉切り包丁が、男の肩に刺さっている。
「痛えええ、痛えよおおお!」
自業自得だ、と思いながらセトは狭い路地を駆け出した。早く大通りまで戻らなくては。
「待て!」
後ろから声がする。嫌な予感がして右に曲がると、ぶん、音がして手斧がすぐそばの白壁に突き刺さった。しかし、この都は本当に迷路のようだ。曲がっても曲がっても、大通りに辿り着けない。と、セトはぴたりと足を止めた。目の前に、生活用の小さな運河が流れていたからだ。もちろん橋はなく、路地はそこで行き止まりになっている。周りは三階は優に超える高い建物の壁だ。
追い詰められた。三人の悪党がまたにやにやしながらこっちに駆けてくるのを見て、セトは歯がみした。これが本当の背水の陣だ。彼は覚悟してナイフを逆手に持ち替え、彼らを待ち構えた。
と、そのとき、空気を震わせて高い指笛が聞こえてきた。子供のような声が、どこからともなく叫んでいる。
「赤騎士だ! 正義の赤騎士が来た!」
悪党三人は、ぴたり、と止まった。青白い顔をして武器をしまい、明らかに落ち着きを失って、きょろきょろと見回している。そして、セトに指を突きつけ、捨て台詞を吐いた。
「お前、次会ったときは許さねえからな!」
ばたばたと三人は走り去り、セトだけがしんとした裏通りに取り残された。何が起こったか分からないが、どうやら助かったらしい。もやもやした気持ちを解消できないまま、彼はナイフを腰に戻した。
「いやあ、危ないところだったね、にーちゃん」
馴れ馴れしく話しかけられて、彼はぎょっとして後ろを振り向いた。
運河ぎりぎりに柵代わりに置かれた樽の上に、セトより少し小さいくらいの少年が座っていた。さっきまでは、その樽の向こう側に隠れていたのだろう。彼はそばかすだらけの顔に陽気な水色の目をしている。だが特筆すべきことは、その髪の毛だ。度を超したような真っ赤というより濃いオレンジに近い赤毛だった。みすぼらしい格好をしたその少年は、樽に座って足をぶらぶら動かしながら言った。
「俺が気をきかせて助けてやらなくちゃ、襲われてたんだぜ?」
「ああ、ありがとう」
「……にーちゃん、田舎者だな。この街じゃ、言葉じゃ誠意は伝わらないんだぜ?」
呆れたように言われ、手を差し出される。なんだ、とセトはがっかりした。
これではどちらにしろ同じことじゃないか。
だが、この少年が『赤騎士が来た』と叫んで助かったのも事実だ。仕方がないので、銅貨三つくらいをくれてやると、少年はま、田舎者じゃこんなもんかと失礼なことを言いながらも受け取った。
「……ところで、お前の名前は?」
「そういうときは自分が先に名乗るもんだぜ」
とことん、人を舐めたガキだな。そう言いたかったが、聞きたいこともあったので我慢して答えた。
「セト・シハク」
「ローシュだ。ここらじゃあちょいと有名な浮浪児ってとこだよ。一番の自慢はこれかな」
ローシュ、という少年はにやにやしながら自己紹介し、くしゃくしゃの巻き毛を振って見せた。
「見てくれ、このロイヤルレッド。いや、王家だって、皆が皆こんな赤毛してねえぜ?」
前々王の代より、王は必ず赤毛だった。そういうこともあり、赤毛は今やロイヤルレッドと呼ばれ、ティルキアでは一つの流行と化している。聞いた話では、わざわざ髪を染める人々もいるらしい。ただ、そんな話にセトは欠片も興味はなかった。
「お前の赤毛はどうでもいい」
つい本音を喋ってしまい、ローシュはむくれた。
「けっ、嫉妬してやがんの」
「それより、赤騎士って何だ?」
先ほどから、そのことが知りたかった。三人の大の男が、怯えて逃げてしまったのだ。版画にも出てきたが、一体赤騎士とは何者なのだろう。
「正義のヒーローだ。俺のことだって、前に助けてくれたんだ」
赤騎士の話題を出した途端、少年の目がきらきらと輝いた。
「あの人は、外見で人を差別したりはしねえんだ。俺、汚えなりしてるから、前に市場で万引き犯と間違えられたことがあってさ。危うく憲兵に捕まりそうになったそのとき! 全身真っ赤な服を着た騎士様が現れたんだ! 俺を逃がしてくれたばかりか、その後カニの串焼きまで買ってくれてさ。俺はいつか、あの人みたいな英雄になりたいんだ」
こんな少年を助けるなんて物好きな人間もいるものだ、とセトはつらつら考えながら聞いていた。しかし、話に聞いたところで彼が何者なのかは全く分からなかった。ローシュも、たまに会ったり用事を頼まれたりはするが、仮面を付けているので容姿すらわからないという。
「でもな、あの人もロイヤルレッドなんだぜ!」
「そうか」
セトはどうでもよさげに呟いた。こんな世間話をしている時間はないはずだ。この浮浪者、ローシュは子供ながらにこの街のことをよく知っているらしい。ならば、聞いておいて損はないだろう。
「……ローシュ、大事な話がある。
もし、お前がティルキア城に忍び込むとしたら、どうする?」
ローシュは目をまん丸くしてセトを見上げた後、ははは、とひとしきり腹を抱えて笑った。
「そんなこと聞かれたのは初めてだ!
……そうだなあ、いけるかも、ってところは知ってる」
「頼むから教えてくれ!」
セトは食いついた。あの難攻不落のティルキア城のどこに、そんな入り口があるというのだろう。
「ただし、中に入って見つかり次第首を斬られるぜ」
「覚悟の上だ」
「……わかったよ、教えるよ」
そう言って、ローシュはまた手を上に向けて伸ばした。もっとくれということらしい。セトが財布から金を出そうとすると、いきなりローシュが金袋を全部ひったくった。
「何するんだ!」
「今から死人になる人間に金はいらねえだろ?」
驚くセトに、ローシュはにやにや顔で告げた。
「じゃあ、とっておきの抜け道を教えてやる。せいぜい頑張れ、スパイさんよ」