終話
――――むかしばなしをしましょう。
オオカミがいました。天界にすむ、きれいな、きれいなオオカミでした。
けれど、みつかってはいけません。
あるとき、天界のオオカミは、のろわれました。
のろわれて、血のような、あかい、あかい色になりました。
あかいオオカミは、地におちました。
地におちたオオカミのゆくえは、だれもしりません。
みつかってはいけません。
みつかっては、いけません――――。
*
「伝承とは、かくも定かならぬものよ」獣はいった。
湖面に漣がたち、熱い風が獣と少女に吹きつけた。木々は燻ることもせず、不断不乱に炎を吐きつづける。ある青年に端を発した怨嗟は、国中へ奔り、大地を併呑する。忌まわしきこの獣と、少女は最期をともにする。青年が言っていた。業はみずからに還ると。
少女は己の掌をみつめた。アスターを殺してしまった。この手は血に濡れてしまった。
「……わたしたちが消えたあと、ここはどうなるのかな」
この怨嗟に呑まれた地は。
「さての」
それは少女を、憐れんだのか、嗤ったのか。
炎がミシミシという音を立てる。木を浸食し、猛りながら木は斃れる。対岸の景色はずるずると這うように迫る。
「神さまだったときのことを、思い出す?」
果てのない生まれかわりは、あまりに遠大で、この炎に消える己のようだとエンツィアはおもう。なすすべもなく、ただ星と命の流転に呑まれてゆく。だが、少女の水色の瞳も獣の赤い双眸も静寂であった。
「水の精は花となり、やがてその花も絶えた。それは、夢幻になったとも、永遠になったとも。されど、我にとっては同じことであろう。我が求めたものは、清けき水であった。それは花となろうとも同じこと。我が愛したものは、夢幻であった。永遠の水であり、安寧の花。つかめぬもの」
わからない、と少女は当惑した。そしてその当惑に、どこか不思議をおもった。
「わからずともよい。もとより、夢の譚であろう」
それは己を嘆いたのか、悼んだのか。
湖面を掠める煙風にエンツィアはふたたび咽んだ。獣は伏していた身を起こした。
わたしを、殺すの? 息だけがそれを問うた。
出来うるならば。
牙だけで獣は笑った。
「餓狼となり果てた我を汝は嗤うか。神の名などとうに忘れてしまった憐れなるものを。永久にも似た時のなかで、思いいずるものは、もう――――」
その神は、理を棄てたはずであった。けれども天地のめぐりどおりに動き、供物を捧げ、天界へ復讐しようとしていたことに失笑を禁じ得なかった。かつて至尊であったものとは何であったのか。
真実おのれの、神などいない。それが理であるのかもしれなかった。
いよいよ風が狂い、熱が湖面を伝った。エンツィアは思わず顔を覆ったが、それを払いのけた。
エンツィアは足を踏み出した。
「――――わたしたちは、世界から忘れられたもおなじなの。語り継がれた名を、だれも憶えてはいない。水の民も、古き神々でさえも。いにしえの花の名は、ここでついえる。この、湖で」
いまこのときとなっては、なにもかもが煙となり灰となり消え去るであろう。だが万物はめぐる。
果てた地で、日は沈み月は昇り、悠遠の時が過ぎ、そしてまた命が芽吹くのだろう。
エンツィアは湖へ足を入れた。水は冷たく感じられた。それをなぜか、不思議とおもった。獣もあとへつづいたようであった。
さよなら、アスター。
少女はきっと、そう言ったのだろう。
*
旧王都が焼失したそのずっとあとにその地へ創建された国があった。やがてその国も滅びた。
ただ、草蒸す大地となったあとも、旧王都から離れた森にある湖は、粛々と清水で満ちていた。
その畔には、二輪の花があったという。そして二輪の花は滅びをしらなかったという。
おそらく久遠に。赤色と水色の花。
ひとびとが呼ぶのだろう、その花の名は。
それを知るものはもういない。
湖のほとりに咲く、赤色と水色の花。とおい昔の、物語。




