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第一章:呼び出しの葛藤と、暗渠の歌声

第一章:呼び出しの葛藤と、暗渠の歌声



アトリエへと引き返したリュシアンは、ドアに鍵をかけると、イーゼルの前に立ち尽くした。


キャンバスの奥に意識を向けつつの葛藤が胸を締め付ける。絵画の世界で静かに暮らしているゲブを、自分の都合で過酷な現実へと連れ出してしまうことへの罪悪感。


(あっちの世界で穏やかに生きている君を、こちらへ呼び出すのは本当に申し訳ない……。でもゲブ、僕は君を頼るしかないんだ)


ゲブの本来の姿は異世界の緑色の皮膚を持つ「ゴブリン」だ。そんな姿のまま19世紀のパリの街に呼び出せば、怪異として憲兵に追われ、街中に激しい混乱を招いてしまう。


リュシアンは作業台から修復用の絵筆と、特殊な定着油を取り出した。

視線の先にあるのは、棚の奥に大切に飾られた、何年も前に死に別れた実の弟の古い肖像写真だった。


「ごめんな……でも、君をこちら側へ呼び出し、一緒にこの街で行動するには、これしかないんだ」


リュシアンは深く息を吐き出し、静かに絵筆を握りしめた。

絵筆を使い、キャンバスの中のゲブを、現実世界に馴染む姿——かつての弟の面影を持つ「人間の少年」の姿へと、心を込めて描き直していく。


「……来てくれ、ゲブ。僕の弟として」


最後のひと筋の光を瞳に描き加えたその瞬間、キャンバス全体が淡い木漏れ日のような光を放った。


絵の具の層が溶け出し、額縁の境界線が揺らぐ。

次の瞬間、ドサリと足音を立てて、絵画の中から一人の人間の少年がアトリエの床へと転がり出た。


「……あ、あれ? 兄貴……? 僕、なんだか……体の感覚が……」


ダボダボの上着を纏い、目を丸くしながら自らの小さな手を何度も握り直す少年。絵画の世界から現実へ呼び出され、人間の姿として受肉を果たしたゲブだった。


リュシアンはかがみ込み、その小さな肩にそっと手を置いた。


「……ごめんな、ゲブ。絵画の世界で平穏に生きている君を、僕の都合でこちら側に呼び出してしまって。それに、ゴブリンの姿のままじゃこの街路では大騒ぎになってしまうから……亡くなった弟の姿を借りる形になってしまって、本当に申し訳ないと思っている」


リュシアンはまっすぐにゲブの目を覗き込み、言葉に強い熱を込めた。


「でも、いまパリは原因不明の冷たい黄金に侵食されているんだ。絵の具や構造の『歪み』は僕の目で見抜けても、それを手繰り寄せて追い詰めるには、君の鋭い野生の勘と直感がどうしても必要なんだ。僕ひとりだけの力じゃ立ち向かえない……どうか、僕の弟として、僕の掛け替えのない相棒として、力を貸してくれないか」


ゲブは自分の手のひらを何度も握ったり開いたりしながら見つめていたが、やがてその顔にパッと眩しい太陽のような笑顔が広がった。


「謝るなんてとんでもないよ、兄貴! 申し訳ないだなんて思わないで!」


ゲブはダボダボの袖をまくり上げると、躍り上がるようにしてリュシアンの首へ飛びついた。


「だって見てよ、この手! この温かい皮膚! また兄貴から頼りにしてもらえただけじゃなくて……本当に兄貴の『弟』になれたんだよ!? 影や絵の具の存在じゃない、兄貴と同じ人間として、隣で一緒に笑ったり歩いたりできるんだ!」


小さな体が放つ熱と、ぎゅっと背中に回された腕の力強さに、リュシアンの胸が熱く震える。


「兄貴の弟になれたなんて、僕にとってこれ以上の幸せはないよ! どこにいたって、僕らは最初から最高の相棒で、これからは本当の兄弟なんだからさ!」


ゲブは離れると、自分の胸をドカンと強く叩き、頼もしすぎるほどの笑みを浮かべた。


「絵の具の歪みや仕掛けは兄貴が見抜いてくれればいい。僕はその匂いと気配を頼りに、どんな危ない場所だって駆け抜けて、怪しい奴のところまで兄貴を案内してみせる! 任せてよ、兄貴の自慢の弟にさ!」


「……ああ。頼りにしているよ、ゲブ」


リュシアンはこみ上げる涙をぐっと堪え、弟の頭をくしゃりと力いっぱいに撫で回した。


絆を結び直した二人は、アトリエの壁に立て掛けられた古いパリの地下構造図を広げていた。


「正面の入り口はもちろん、関係者用の楽屋口も警備の憲兵や警備員で固められているはずだ。それに、あの冷たい黄金の侵食……街の異変に怯えた人々が集まって、オペラ座の周囲は騒然としている」


「正面から入れないなら、どこから入るの? 空から飛ぶわけにもいかないし……」


修復士の目をもってしても、厳重に閉ざされたオペラ座ガルニエ宮の内部へ潜入する確かなルートは見出せずにいた。


その時だった。


アトリエの隅で、洗浄用の水バケツと古い絵の具を弄んでいたポルページが、ふと手を止めた。彼は洗い場の小さな排水口にひょいと耳を近づけると、楽しそうに目を輝かせて声をあげた。


「おやぁ……ほら、耳をすませてごらん、リュシアン。排水口から歌声が聴こえるよ」


「……え?」


「水が流れる道は、みーんな暗いお腹の中で繋がっているんだ。オペラ座の歌姫様の綺麗な声も、水の底を通ってここまで響いてくるのさぁ。ぶくぶく、ゆらゆらってねぇ」


ポルページは無邪気に笑いながら、再びバケツの水で筆を泳がせ始めた。


リュシアンはハッとして、広げた地下構造図の古い羊皮紙に視線の先を走らせた。


「……排水口の水路。そうか、ガルニエ宮の地下池だ!」


ガルニエ宮の最下層には、建設時に湧き出た地下水を溜めるための巨大な蓄水池が存在する。そして19世紀のパリの地下には、都市全体を網の目のように覆う広大な古い暗渠(あんきょ)が広がっていた。


「ポルページさん……貴方の無意識の記憶が、道を教えてくれたんですね」


リュシアンは興奮を抑えきれずに立ち上がった。


「モンマルトルからセーヌ川へ抜ける古い排水暗渠を辿れば、地上を通らずにオペラ座の最下層にある地下池の管理用扉へ直接出られる!」


「なるほど! 水の道なら、僕の鼻と耳で暗闇でも迷わずに進めるよ!」


ゲブが勢いよく胸を叩く。


「よし、決まりだ。ポルページさん、僕たちは少し出かけてきます。アトリエの鍵は厳重にかけておきますから、絶対に外へ出ないでくださいね」


「はーい。行ってらっしゃい、気をつけてねぇ」


無邪気に手を振る元師匠を残し、二人はしっかりと手を繋いでアトリエを後にした。


雨上がりのモンマルトルの路地裏。人目を避けて古い排水溝の鋳鉄製の蓋を持ち上げると、湿った風と共に、かすかに甘ったるい金属の匂いが地下の闇から漂ってきた。


「行くぞ、ゲブ」

「うん、兄貴!」


知識と修復士の目で「構造の歪み」を解読するリュシアンと、人間の体を得て野生の鋭い直感を解き放つ相棒ゲブ。

「兄弟」となった二人の足音は、深い闇が渦巻くオペラ座の地下水路へと、今まさに踏み出そうとしていた——。


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