記憶の全容と新たな絆
夜明け前の空気は、ひんやりとしているのに、どこか湿り気を帯びていた。寝台の上で身じろぎしたリナは、まぶたの裏に焼き付いた映像を振り払おうと、ゆっくりと目を開けた。薄闇の中、窓辺のカーテンが風に揺れ、わずかな隙間から覗く空は、まだ夜と朝の境目をさまよっている。
胸の奥が妙にざわついていた。夢を見ていた――そう思った瞬間、その内容が断片的に浮かび上がる。いや、夢ではない。もっと確かな、現実のような質感を持った記憶だ。
見慣れぬ舗装された道。見上げれば網のように走る黒い線、遠くで瞬く赤と青の灯り。匂い立つ醤油の香りと、油が弾ける音。耳の奥で誰かが笑っていた。
(これ……どこ? でも、知ってる……私、ここを歩いてた)
リナは自分の胸に手を当てた。早鐘を打つ鼓動が、まるで何かを急かすようだ。ぼやけていた輪郭が少しずつ形を取り、心の奥深くに沈んでいた何かが浮かび上がってくる。
脳裏に映ったのは、小さな店の光景。カウンター越しに見える鍋からは湯気が立ち上り、隣には整然と並ぶ調味料の瓶。白い湯気の中で、かつての自分――いや、“前の世界の自分”が、手際よく鍋を振っている姿があった。
記憶の断片は、音や匂いとともに次々と押し寄せる。昼の喧騒と夜の静けさ、雨の匂い、揚げたてのコロッケの熱、常連客の何気ない会話。
(どうして今まで思い出さなかったんだろ……)
その理由を探そうとしても、答えは霧の向こうだ。ただ、この感覚が嘘ではないことだけは確かだった。
ふと、昨日の市場の賑わいが脳裏をよぎる。屋台から漂ってきた焼き鳥の匂い、蒸したじゃがいもに卵をのせて売る露店の光景――その瞬間、胸の奥で何かが強く脈打った。
(あの味……あの匂い……同じだ)
それは、前世で作っていた料理の記憶と重なる匂いだった。断片が繋がるたびに、目の前の世界が二重写しになり、意識が揺れる。
シーツを握りしめる手に力がこもる。混乱と興奮が入り混じり、じっとしていられなかった。窓の外では、東の空がわずかに白み始めている。
(……リリス様に、言うべき? でも……)
その思考の先で、もう一つの感情が顔を出す。アイシャのことだ。ここ最近、彼女と自分の間に、微妙な距離が生まれている気がする。自分がリリスに近づけば近づくほど、アイシャの視線は鋭くなる。
この記憶を話せば、さらに距離が広がるのではないか――そんな不安が、胸の中で渦巻いた。
朝の市場は、陽が完全に昇りきる前から活気に満ちていた。
リナはかごを抱えて人混みを進む。昨日の夢――いや、記憶の断片が、まだ頭の奥で渦巻いている。そのせいか、見慣れたはずの景色がどこか違って見えた。
魚を並べる音、野菜の葉が擦れる音、呼び込みの声。すべてが妙に鮮明で、時折、前世の記憶と重なって見える。
「リナさん、こっち」
少し先から、リリスが手を振っていた。アイシャもその隣に控えている。二人とも、いつも通りの穏やかな表情だ。だがリナの胸の奥には、昨日から続く微妙な緊張感が消えずに残っていた。
「おはようございます、リリス様、アイシャさん」
笑顔を作って近づくと、リリスが小袋を差し出してくる。
「これ、今朝焼き上がったばかりのパンよ。試作品なんですって」
袋の口を開くと、香ばしい匂いと共に、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐった。その瞬間、リナの脳裏に別のパンの映像がよぎる。四角い形、ふわりとした白い生地、熱でとろけるバター――あまりに鮮明で、思わず袋を握る手に力が入った。
「……リナさん?」
アイシャの声で我に返る。慌てて笑みを作り、袋を抱え直した。
「すみません、ちょっとぼんやりしてました」
その視線が、短く、しかし確かに探るように自分を見つめているのを感じる。胸の奥がざわめく。
その後も、三人で市場を歩きながら、リリスは新しく入った店や商品の話を楽しげに口にした。リナは相槌を打ちながらも、漂ってくる匂いや色に反応しては、また記憶の断片が浮かび上がる。
香辛料の並ぶ露店では、赤い粉末の瓶を見た瞬間、前世で作ったスパイスカレーの湯気がよみがえった。焼き魚の屋台では、夜の屋台街の記憶が重なり、目の奥が熱くなる。
「リナさん、今日はなんだか静かですね」
リリスが首をかしげる。その声に、アイシャが小さく反応した。
「……体調が優れないのでは?」
「いえ、大丈夫です」
即座に否定したが、自分の声がわずかに震えているのがわかった。リリスは心配そうに見つめ、アイシャの視線はその横から刺さるように突き刺さる。
市場の端に差し掛かった頃、卵を使った軽食の屋台が見えてきた。茹で卵を半分に切り、特製のソースをかけた料理が並んでいる。
その瞬間、リナの中で何かが強く弾けた。匂いと味の記憶が洪水のように押し寄せ、視界が揺れる。前世の厨房で、同じように半熟卵をソースで和えていた光景――そのときの手の感触、香り、周囲のざわめきまでもが鮮やかによみがえる。
「リナさん、本当に顔色が……」
リリスが声をかけかけたが、リナは慌てて笑みを浮かべた。
「大丈夫です。ただ……少し、懐かしい匂いがして」
「懐かしい?」
リリスが目を瞬かせる。その横で、アイシャは小さく眉を寄せた。
胸の内に渦巻く思いを押し隠しながら、リナは袋を抱え直し、再び三人で市場の道を歩き出した。しかし、頭の中では、もう現実の景色と記憶の景色が入り混じり、区別がつかなくなりつつあった。
その時、賑やかな市場の空気を裂くように、甲高い声が響いた。
「だから登録証を見せろって言ってるだろう!」
人垣の向こうから、苛立った男の怒鳴り声が聞こえてくる。周囲のざわめきが急速に変わり、好奇心と緊張が入り混じった視線が一点に集まっていく。
リリスは足を止め、視線を向けた。
「……何かあったみたいですね」
アイシャがすでに眉をひそめており、リナも無意識に袋を抱える手に力をこめていた。
人垣をかき分けて近づくと、八百屋の前で二人の男が激しく言い合っていた。片方は腕組みをした中年の店主、もう片方は旅装束の若い男だ。店主の手には帳簿と木札、そして登録証らしき板が握られている。
「だから俺は、この市場に来たばかりで登録証なんざ持ってねえんだよ!」
「未登録者には取引を許可できない決まりだ。昨日も説明したはずだろう!」
「昨日は聞いちゃいねえ!」
男の語気は荒く、近くにいた買い物客たちは一歩、また一歩と距離を取っていく。その輪の外から、ひそひそ声が飛び交った。
「また未登録者か……」
「この前も似たような揉め事があったらしいぞ」
リリスは事態を見極めるように目を細めた。アイシャが小声で告げる。
「こうした事例は、保証制度の周知不足によるものが多いですが……今回は、相手がわざと登録を避けている可能性も」
リナが首をかしげる。
「わざと……ですか?」
「登録しなければ、出自や取引履歴を隠せますからね。望ましくない品を売り捌くには好都合です」
その説明に、リリスの胸中に不快なざらつきが広がった。
若い男が声を張り上げる。
「こっちは金を払うって言ってるんだ!何が悪い!」
「規則を守らない者とは取引できん!」
店主の毅然とした声にも、男は一歩も引かない。
やや離れた場所で見ていた老婆が、そっと近くの若者に耳打ちする。
「見たことある顔だよ、あれ。前にも別の町で揉め事を起こしてた」
その噂は瞬く間に周囲に広がり、視線の温度が変わる。
リリスは一瞬、迷った。直接介入すべきか、それとも自警団に任せるべきか――しかし、場の緊張は確実に高まっており、今にも手が出そうな気配が漂っていた。
「リナさん、少し下がってください」
アイシャが小声で促す。だがリナは首を横に振った。
「いえ、もし物が壊れたりしたら……」
そのやり取りを遮るように、男が店主の腕を振り払った。帳簿が地面に落ち、木札が転がる。
「……っ!」
店主が拾おうと身を屈めた瞬間、男が腰の袋に手を伸ばした。その仕草に、周囲の空気が一気に張り詰める。何か武器になるものを取り出すつもりか――。
リリスは決断した。
「止めましょう」
そう言って前に出ると、アイシャもすぐに続く。
人垣が二人の進路を開けた。その視線が、場の中心に向かう彼女たちを追う。リリスは落ちた帳簿を拾い上げ、店主に渡した。
「こちらは領内の規則です。従っていただけない場合、取引はできません」
落ち着いた声だが、その響きは市場のざわめきを抑えるには十分だった。
若い男は一瞬、リリスを見て鼻を鳴らす。
「子どもが何を――」
その言葉を最後まで言わせず、アイシャが一歩前に出た。視線は冷たく、声は低い。
「言葉遣いにはお気をつけください。ここはラヴェンダー子爵領です」
周囲が息を呑む。男は舌打ちし、結局は袋から何も取り出さぬまま、踵を返して人混みに消えていった。
残された店主は、深く頭を下げた。
「助かりました……お嬢様」
「規則を守るのは、皆さんのためでもありますから」
リリスは微笑み、アイシャと視線を交わした。その目には、表面上の静けさの裏で、さらに厄介な問題が控えている予感が宿っていた。
若い男の姿が人混みに紛れて消えた直後、その場の空気がわずかに緩んだ。だが市場全体に漂う警戒の色は消えない。リリスは人垣を見回し、周囲の様子を静かに観察した。
奥の方から、複数人の足音が近づいてくる。軽やかだが整った歩調――自警団だ。先頭に立つのは、端正な顔立ちに短く整えられた栗色の髪を持つ青年。彼の腰には、訓練用ではない実用の剣が下げられている。
「ファブリス団長」
アイシャがその名を口にした瞬間、青年の視線が彼女たちを捉えた。
「お嬢様、現場は――」
「すでに収まりました。未登録者による取引未遂です」
リリスが簡潔に答えると、ファブリスは短く頷き、残りの団員たちに周囲の確認を指示した。
「聞き込みを。似た特徴の男が他にいないか調べろ」
団員たちは素早く散開し、露店の間や路地を手分けして見回る。市場の人々は安堵と興味が入り混じった視線を向けていた。
ファブリスは、落ち着いた口調で店主に話しかけた。
「店と商品に被害は?」
「いえ、幸い何も。ただ……あんな態度の客は、これからも来るかもしれません」
「その可能性は高い。登録制度の徹底と合わせ、危険な相手が紛れ込んだ時の通報体制も整備します」
リリスは横でそのやり取りを聞きながら、アイシャに視線を送った。
「初の実働ですね」
「ええ。団員たちも緊張しているはずです」
確かに、周囲を見渡せば若い団員たちの顔にはわずかな強張りが見える。それでも彼らは声を荒げず、露店の人々と丁寧に言葉を交わし、記録用の板に聞き取った情報を書き留めていく。その様子からは、無駄な威圧ではなく秩序を守ろうとする意志が伝わってきた。
「ファブリス団長、この男について心当たりがあるとの証言がありました」
戻ってきた団員の一人が報告する。ファブリスは短く礼を述べ、リリスの方へ向き直った。
「お嬢様、この件は我々が追跡します。市民の安全は必ず守ります」
「お願いします。……ただ、外からの流入者が増えている以上、こうした事態は今後も起こり得ます」
「承知しています。団員の巡回を増やし、問題の芽は早めに摘み取ります」
ファブリスの言葉には自信があったが、その瞳の奥には、事態を軽く見ていない真剣さもあった。
やがて団員たちが現場を一通り確認し、周囲の人々に簡単な注意を呼びかけてから散開する。ファブリスは最後にもう一度リリスへ一礼した。
「本日の対応、感謝します。お嬢様が場を鎮めてくださったおかげで、被害も衝突もありませんでした」
「現場に駆けつけたのは自警団の皆さんです。これからもよろしくお願いします」
ファブリスが去った後、市場には再び日常の喧騒が戻り始めた。しかし、先ほどの騒ぎが完全に忘れ去られたわけではない。露店の奥で、店主同士が小声で話し合っているのが耳に入る。
「やっぱり登録制度は必要だな」
「でも、ああいうのは外から来る奴だけじゃない。地元にも……」
その声は途中で途切れたが、十分に意味は伝わった。
リリスは小さく息をつき、アイシャに向かって言った。
「……これが最初で最後ならいいのですが」
「残念ながら、そうはならないでしょう」
アイシャの答えは冷静で、しかしどこか寂しげだった。
市場を後にしながら、リリスは胸の奥に重く沈む感覚を覚えた。今回の件は氷山の一角――そう直感していた。
市場から戻ったリリスは、その足で執務室へ向かった。既にクラウスとファブリスが揃っており、机上には簡易地図と記録板が並んでいる。アイシャも後ろに控え、報告の準備を整えていた。
「状況は?」
クラウスの問いに、ファブリスが一歩前に出て答える。
「未登録者による取引未遂と確認しました。お嬢様の判断で大事には至らず、団員による聞き込みで男の特徴も掴めています」
リリスはその言葉に頷き、地図の一点を指差す。
「このあたりで姿を消しました。路地が入り組んでいますから、追跡は難しいでしょう」
「ええ。団員を数名残して見張らせていますが、完全に姿をくらましたようです」
クラウスは顎に手を当て、しばし考え込む。
「市場は人の出入りが多い。登録制度が整うまでは、こうした連中の侵入を防ぎきれんかもしれん」
「制度の浸透も、まだ道半ばです」
アイシャが静かに口を開く。
「理解して歓迎している者もいれば、未だに理由を知らぬまま反発する者もいます。情報の伝達速度と網羅性が課題かと」
「加えて」
ファブリスが続ける。
「今回の男は単なる行商ではない可能性があります。市場の商品の種類や値段を妙に細かく確認していました。探りを入れていた節があります」
クラウスの眉がわずかに動いた。
「商売敵か、それとも……」
「外部の煽動者かもしれません」
リリスの言葉に、室内の空気が少しだけ重くなる。
「お嬢様、煽動というのは?」
「市場や制度に不信感を抱かせるため、意図的に揉め事を起こす者のことです。もし背後にそうした勢力があれば、今回が序章となる可能性が高い」
ファブリスは真剣な面持ちで頷いた。
「団員たちには、こうした小規模な事案でも記録を残し、共通の特徴や行動パターンを洗い出すよう指示します」
「必要なら自警団の人員を増やすことも考えましょう」
クラウスは地図を見据えたまま言う。
「市場は領の顔だ。治安が揺らげば、商人たちも離れてしまう」
リリスは深く息をつき、胸の奥に浮かんだ懸念をそのまま口にした。
「……制度の定着までに、どれだけ耐えられるかが勝負です。今日のような事態が頻発すれば、市民の信頼も揺らぎます」
「それは避けねばならない」
クラウスの声は低く、重かった。
少しの沈黙の後、アイシャが提案を述べる。
「市場の入り口での登録確認を強化しつつ、目立たぬ巡回を増やすべきです。市民には安心感を与え、不審者には警戒させる効果があります」
「それなら人員配置を再編すれば可能です」
ファブリスが即座に応じる。
「昼間だけでなく、早朝や閉店後の時間帯にも視察を入れましょう。人の少ない時間を狙う輩もいますから」
クラウスは二人の意見を聞き、椅子にもたれた。
「よし。今日の件を踏まえて早急に動く。ファブリス、必要な人員と装備のリストを明日までに出せ」
「承知しました」
そのやり取りを見ながら、リリスの胸の奥では別の感情も芽生えていた。表面上は落ち着いているが、先ほどの男の表情や視線の動きが頭から離れない。あれは単なる通りすがりの行商人の目ではなかった――そう感じていた。
「お父様、私からも一つお願いがあります」
「何だ」
「市場の出入り記録を、過去数ヶ月分確認させてください。似た特徴の人物が以前から出入りしていないか、調べたいのです」
「……なるほど。いいだろう。文書庫の管理人に話を通しておく」
リリスは小さく頷き、ファブリスにも視線を送った。
「団長、記録の読み方や市場での動き方について、後日教えていただけますか」
「喜んで。現場の感覚は記録だけでは掴めませんから」
こうして事後報告は終わったが、室内には完全な安堵は訪れなかった。それぞれが胸の奥で、今日の出来事がこれからの何かの始まりである予感を抱いていたからだ。




