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断片の重なり、いつかの思い出

 秋の風が、夕暮れの石畳を撫でていく。市場での騒動を終えて屋敷へ戻る途中、リリスたち一行は静まり返った道を歩いていた。昼の喧騒が嘘のように、通りにはほとんど人影がなく、夕飯の支度に立ち込める煙と香ばしい匂いだけがどこかの民家から漂ってくる。


 リナは、そんな空気にどこか戸惑ったような顔を浮かべていた。


 リリスは彼女の少し遅れた足音に気づくと、振り返って声をかける。


「リナ、歩きづらい?」


「いえ……いえ、大丈夫です、リリス様。すみません、ぼうっとしてしまって」


 いつもならきびきびと歩いてリリスの隣を陣取るリナの足取りが、今日は妙に鈍い。アイシャも同じことに気づいたようで、控えめにリナの顔を覗き込んだ。


「日差しが強かったですから、疲れが出たのかもしれませんね。少し休んだほうが」


「……そうかもしれません」


 リナは曖昧に笑ったが、その視線は通りの向こう、煙の立ちのぼる屋根の方に向いたままだった。まるで、何かを思い出すかのように――いや、思い出そうとしているようにも見えた。


 少しの間、リリスたちは無言で歩いた。馬車は騒動のあった現場に留まっていたため、城館までは歩いて戻る形になっていた。


 淡い夕焼けが空を染める中、石畳の道を踏みしめる足音だけが耳に残る。


「……あの、リリス様」


 しばらくして、リナが小さな声で口を開いた。


「さっきの市場の角を曲がった先にあった、あの古い井戸……あれ、以前からありましたか?」


「え? ええ、あの井戸なら随分昔からあるわよ。なんでも開拓期からのものらしいけど……」


 リナは軽く眉をひそめ、俯いた。


「なんだか……その前を通った時、変な感じがして……懐かしいような、怖いような……」


 アイシャがさっと目を動かし、リナの横顔を一瞥する。


「リナ、疲れのせいで感覚が過敏になっているのかもしれません。今日の件もありましたし、無理は禁物です」


「そう……ですね」


 リナは、どこかしら言い淀みながらも頷いた。だがその言葉の奥には、まだ言葉にならない感情が渦巻いているように見えた。


 リリスも、明確な違和感には気づけていないものの、何かがリナの中で揺れているのを感じ取っていた。


「帰ったら、温かいスープでも用意しましょう。きっと身体もほっとするはずよ」


 リリスが軽やかに言えば、リナはわずかに笑みを返した。だがその笑顔は、どこか影を引いていた。


 街道の途中、露天の屋台が一つ、夕食用のパンや蒸し野菜を売っていた。香ばしい湯気が立ち上り、リナの鼻先をくすぐった。


 その瞬間、リナの表情が微かに変わった。


「……あの香り」


 リリスとアイシャが振り返る間もなく、リナは数歩屋台の方へ近づき、目を細めて立ち止まった。そこでは簡易な鉄板で、じゃがいもと玉ねぎ、細かく刻んだハーブを炒めた料理が焼かれていた。


「懐かしい……気がする」


 小さな声が風に流れた。リリスもアイシャも、その言葉の意味を正確には捉えられなかったが、リナの視線がどこか遠く、過去を見ているように思えた。


「リナ?」


 呼びかける声に我に返ったリナは、はっとして首を振った。


「い、いえ。なんでもありません。すみません、変なことを言って」


 リリスはそれ以上は追及せず、そっと彼女の腕に手を添えた。


「無理に思い出さなくていいのよ。でも、何か気になることがあれば、ちゃんと言ってね」


「……はい」


 帰路の最後、城館の門が見えてきた頃には、空は薄紅色から群青へと変わり始めていた。遠くで鐘の音が鳴り、使用人たちが屋敷の前で準備を整えているのが見えた。


 その光景に胸を撫で下ろしたのは、リナ自身だった。足元の硬い石畳を見つめながら、自分の中に芽生えたわずかなざわめきを、そっと奥へ押し込む。


 だが、そのざわめきは確かにあった。


 名前のない記憶、形を持たない既視感。それは、まるで霧の中で光を探すように、ぼんやりとした感覚だった。


 そしてリナは思った。


 ――これまでの私は、本当に“私”だったのかしら?


 何かが、自分の奥底で目を覚ましかけている。


 それをまだ認めることができず、ただ黙って歩みを進めることしかできなかった。


 屋敷に戻ったリリスたちは、それぞれ短い休憩を取ったのち、夕食の支度が整ったという報せを受けて食堂に向かった。


 テーブルの上には、今日収穫されたばかりの新鮮な野菜を使ったスープ、香ばしく焼かれた平焼きパン、そしてリリスが昼前に厨房へ指示しておいた“ふわふわ卵の蒸しパン”が並べられていた。食材の量や火加減、蒸しの時間まで細かくリリスが調整したレシピ通りに仕上がっており、湯気の向こうから甘く柔らかい香りが漂っている。


「……いい匂い」


 ルシェルが嬉しそうに目を輝かせる。彼女の隣でルーファスもこくこくと頷いた。


「このパン、昨日のお姉ちゃんのと同じ匂い!」


「ふふっ。そうよ。今日は厨房の皆に頑張ってもらったの。おかわりもあるから、たくさん食べてね」


 リリスがそう促すと、子供たちは元気に「いただきます!」と声をそろえ、さっそくパンに手を伸ばした。


 その様子を見ながら、リリスはアイシャとリナの方にちらりと視線を送った。アイシャは常のように静かに食器を整えていたが、リナの方はパンに視線を落としたまま、なかなか手を動かさない。


 彼女の頬にかかる髪の影で、表情は読み取りにくかった。


「……リナ?」


 リリスの呼びかけに、リナはびくりと肩を揺らし、はっと顔を上げた。


「す、すみません! すぐにいただきます!」


 慌ててパンを皿に取り、ナイフを手にしたリナの手つきは、いつになくぎこちない。


 その様子に、アイシャが小さく首を傾げた。


「リナ、今日の料理、口に合いませんでしたか?」


「いえ、そんなことは……とても、いい香りで……」


 口ではそう答えつつも、リナの手はなかなか動かない。やがて意を決したように一口食べたその瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。


「……あ」


 リリスとアイシャは同時に、その小さな声を聞いた。


 リナは何かを思い出そうとするかのように、皿の上の蒸しパンを見つめている。ひとたび口にしたあの食感と香りが、彼女の中で何かを刺激したのは明らかだった。


「リナ、もしかして……また、さっきみたいな?」


「……わかりません。ただ……この味、すごく懐かしいような気がして……でも、それがいつの記憶なのか、思い出せなくて」


 アイシャがそっと視線を落とす。


「それは、前にも感じたことがありますか?」


「……いえ。今日が、初めてです。でも……」


 リナの声が震えた。


「……思い出したいのに、思い出せないんです。何かが……霧の中に隠れてるみたいで……」


 その言葉に、リリスの胸が小さくざわついた。


 リナの中で何かが動き始めている。


 その“何か”が、ただの体調の波ではないことを、リリスも、アイシャも、直感的に感じ取っていた。


「焦らなくていいのよ、リナ」


 リリスが静かに言った。


「いつか、自然と思い出すときが来るわ。無理に引っ張り出そうとすると、かえって遠のいてしまうこともあるから」


「……はい。でも、少しだけ怖いんです。もし思い出したら、自分が自分じゃなくなるような気がして……」


 その呟きに、アイシャのまなざしがわずかに揺れる。


 彼女は数秒の沈黙ののち、そっと口を開いた。


「リナは、リナです。何を思い出しても、何が変わっても、リリス様の側にいるのは変わりません」


 その言葉は、真っ直ぐで、静かで、そして少しだけ張り詰めていた。


 リナははっとしたようにアイシャの顔を見た。だが、その視線はすぐに逸れた。


 微妙な空気の揺らぎを、リリスは敏感に察知する。


 アイシャは気づいている。リナの中で目覚めつつある何かに――そして、それが自分とは異なる“異質”である可能性に。


 リナはリリスの忠実な助手であり、調理の才を活かして様々な場面で支えてきた。しかし、その背後にあるものを、アイシャは本能的に警戒し始めているのかもしれない。


 リリスは、そんな二人の微妙な距離感に目を細めつつ、何も言わずにパンをちぎった。


 温かく、柔らかい蒸しパンの香りが、また一つ、過去の扉を叩いたように思えた。


 夕食後、子どもたちが寝室へと引き上げ、大人たちもそれぞれの持ち場に散ったころ、屋敷は穏やかな静けさに包まれていた。


 リナは一人、厨房に残っていた。


 いつもなら片付けの手伝いを済ませたあと、すぐに部屋へ戻って眠るのが習慣だが、今日はなぜか足が止まっていた。蒸し器の蓋を開けたままにしていたのを思い出し、軽く布をかけ直す。蒸しパンの余韻がまだ室内に残っていて、あの香りが鼻腔をかすめるたび、心の奥底で何かが軋むような音を立てる。


 誰もいない台所の真ん中で、リナは小さくため息をついた。


「……やっぱり、変だな、私」


 声に出すと、ほんの少し心が落ち着いた。


 あのふわふわとした蒸しパンを口にした瞬間、遠く霞んだ記憶が、一気に呼び覚まされるような感覚があった。


 ふわりとした食感、やさしい甘さ、そして鼻をくすぐるような香り。


 それらが脳裏に柔らかな光景を連れてきた。


 ――白い湯気が立ちのぼる狭い部屋。粗末な木の机。その向こうに座る、小さな手。


 誰の手なのかは、まだ思い出せない。


 けれど、その小さな手が、自分のために焼いてくれたのだという確信があった。たぶん、子どもだった自分を世話してくれていた誰か。あるいは――。


「ううん、違う。あれは……私が作ってた。誰かのために」


 リナの指が、無意識にまな板の縁をなぞっていた。


 何も言わずに食べてくれた相手の表情が、ほんのわずかに浮かんでくる。嬉しそうに口元を綻ばせていたあの顔。けれど、それ以上先には進めなかった。思い出の断片は霧に包まれていて、あと一歩が届かない。


 そのとき、入口の戸がわずかに軋んだ。


 振り返ると、アイシャが立っていた。


「……リナ。まだ片付けが終わっていなかったのですか?」


「いえ、すぐに終わります。ちょっと……少しだけ、ぼうっとしてて」


 アイシャの目が細くなる。


「さっきから、様子が変です。なにか……思い出しかけているのですか?」


 リナは返事に迷ったが、正直に頷いた。


「……うん。なんだか、昔のこと……でも、はっきりとはしなくて」


「それは……前世の記憶、ということですか?」


 アイシャの声音が、ほんのわずかに硬くなる。


 リナは小さく目を伏せた。


「わかんない。今の私が感じてる“懐かしさ”が、本当に前の記憶なのか、それともただの勘違いなのか……ただ、ひとつだけ、はっきりしてることがある」


「……なんですか?」


「私、誰かのために作ってた。誰かに、食べてもらいたくて、いろんな工夫をして……そうやって毎日、何かを作ってた。その感覚が……すごく自然で、あたりまえだったの」


 アイシャは何も言わなかった。


 しばらく沈黙が流れたのち、リナはゆっくりと顔を上げ、アイシャを見た。


「アイシャ。もし私が、何かを思い出しても……それが、今の私と違うものであっても……受け入れてもらえると思う?」


 アイシャは数秒、まっすぐにリナを見つめたまま答えなかった。


 そして、低く、真面目な声音で言った。


「私は、リリス様をお守りするためにここにいます。あなたがその助けとなる限り、どんなことがあっても――受け入れます。ただし」


「ただし?」


「リリス様を傷つける存在になるのなら……私は、躊躇なく排除します」


 リナは一瞬、目を見開いた。


 けれど、すぐに小さく笑った。


「うん、それでいい。……ありがとう、アイシャ。私も、リリスの役に立ちたい。それが、今の私にとって一番大事なことだから」


 その言葉に、アイシャの表情がわずかに和らいだ。


「……なら、早く戻って休んでください。明日も早いのですから」


「うん。おやすみ、アイシャ」


「おやすみなさい、リナ」


 アイシャが扉の奥へと消えると、リナは再び調理台に向き直った。


 自分の中にある“断片”が、今夜の香りとともに少しずつ繋がり始めている。


 それが前世の記憶であるのか、あるいはまったく別の記憶なのか――まだわからない。


 けれど、自分がただの“料理上手”ではないことだけは、確かにわかる気がした。


 台所を後にしたアイシャは、廊下を静かに歩きながら、胸の内に広がるもやもやとした感情を持て余していた。


 リナの言葉はまっすぐだった。偽りのない、誠実な言葉だった。


 だからこそ、アイシャの心はざらついたままだった。


「私も、リリスの役に立ちたい」


 それは、アイシャが初めてこの屋敷に来た日から抱き続けている想いと、まったく同じだった。


 ――けれど。


 思考がそこまで巡った瞬間、アイシャは立ち止まる。


 誰もいない廊下。壁際の燭台に灯された小さな炎が、かすかに揺れていた。


 リナの顔を思い浮かべる。


 普段は料理に没頭し、どこか抜けたところのある彼女。けれど今日のリナは、確かに違っていた。まるで別人のような眼差しで、過去を見つめていた。


 それが、アイシャの心に不安を落とす。


「前世の記憶……」


 ぽつりと呟いた自分の声が、思った以上に冷たく響いて驚く。


 リリス様がこの地に改革をもたらした力は、前世の記憶による知識と判断によるもの。


 その偉大さを、アイシャは誰よりも間近で見てきた。そして、自分の存在がその支えとなれていることを誇りに思っていた。


 だが――もしリナまでもが、その“特別な存在”だとしたら?


 自分の役割は、どこにあるのだろう。


 アイシャは歩みを再開しながら、自問を続ける。


 リリス様が見せる笑顔。その傍にいるのは誰か。


 これまで、迷うことなどなかった。けれど今、心の奥底に、小さなひび割れが生まれようとしていた。


 ――自分でなければならない理由は、あるのか?


 その問いに、即座に答えられない自分がいた。


 使用人として、侍女として、忠誠を尽くすのは当然だ。けれど、リリス様のそばに立つのが“誰であってもいい”のなら、自分の存在意義はどこにあるのか。


 アイシャは、拳をそっと握った。


 悔しい。


 リナを疑うわけではない。リナは善良で、実直で、嘘をつくような人間ではない。


 ――でも、嫉妬している。


 その感情を認めた瞬間、喉の奥がひりついた。


 自分は、リリス様に仕えることだけが生きる意味だった。けれど今、その唯一無二の立場が、誰かに取って代わられるかもしれないという恐れが、じわじわと迫っている。


「私は……侍女、なのに」


 口をついて出た言葉は、言い訳のようで苦しかった。


 アイシャは、階段を上がり、廊下の突き当たりにある自室の扉を開けた。中は質素で整然としており、机の上にはリリスから渡された書類の束が置かれている。


 いつもなら、すぐに業務に取りかかるところだが、今夜だけは、手が動かなかった。


 代わりに、窓辺の椅子に腰を下ろし、外の闇を見つめる。


 静かな夜の中に、リリス様の笑顔を思い浮かべた。


 優しくて、芯があって、努力を惜しまない少女。


 そんなお方のそばにいられることは、誇りであり、幸福だった。


 ――けれど。


 それを誰かに奪われるかもしれないと考えた瞬間、アイシャの中に、言葉にならない焦燥が込み上げた。


 リナは敵ではない。むしろ、支え合う仲間であるべき存在。


 でも、心が追いつかない。


 嫉妬と不安の間で、ぐらつく感情。


 アイシャは、額に手を当て、ゆっくりと深呼吸をした。


 ――リリス様を支えるために。


 その想いが、揺らいではいけない。


 たとえ自分以外の誰かが、リリス様のそばに立っていたとしても。


 自分にしかできない支え方が、必ずあるはず。


 そのはずなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。


 窓の外に、小さな星が瞬いていた。


 アイシャは、その光に向かって、そっと呟いた。


「私、ちゃんと支えられているのかな……リリス様のこと」


 言葉は風に流されるように、夜の闇に消えていった。


 夜明け前の空はまだ鈍く、深い群青色を帯びていた。東の地平がわずかに朱を含み始め、ようやく一日の始まりを告げる頃、ラヴェンダー家の屋敷も静かに目を覚まし始めていた。


 炊事場の奥、リナの私室――


 そこに灯る蝋燭の火はすでに消えていた。厚手のカーテンが光を遮り、部屋の中はまだほの暗い。


 けれどその静寂の中で、ひとつ、微かな気配が生まれる。


 眠っていたリナが、ぴくりと指先を動かした。


 それは本当に、ほんのわずかな変化だった。


 続けて、布団の中から小さく吐息が漏れた。


「……ん、う……」


 まぶたが重そうに震え、やがて静かに開かれる。まだ焦点の合わない視線が天井を彷徨い、ようやくリナの意識が浮上したことを示していた。


 身体は重かった。頭の芯にまだ靄がかかったような感覚が残り、思考がなかなか定まらない。


 けれどそれ以上に、胸の奥に何か妙な違和感があった。


 何かを――見た気がする。


 何かが――聞こえた気がする。


 夢なのか、現実なのか。境界が曖昧なまま、ぼんやりと脳裏に残る“記憶の欠片”たち。


 リナはゆっくりと上半身を起こし、額を押さえた。


「……なに、これ……」


 そう呟いても、答えは返ってこない。


 ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴のような感覚と、どこかで聞いたことのある声が、まだ耳の奥に残っているような気がした。


 目の前には、いつも通りの部屋がある。


 見慣れた布団、木製の小さな机、棚に並ぶ調味料の瓶――


 けれど、それらがどこか現実味を欠いて見えるのはなぜなのか。


 リナは立ち上がり、カーテンを開けた。


 窓の向こう、空はわずかに赤みを帯びてきていた。今日もまた、いつも通りの朝が始まろうとしている。


 けれど、胸のざわめきは消えなかった。


 何かが、確実に変わり始めている。


 何かが、目覚めようとしている。


 それはまだ“記憶”という確かな形にはなっていなかった。


 けれど、リナ自身が自覚しきれないまま、その断片は確かに脳裏をよぎっていた。


 卵の黄身を割る感覚、あの香り――


 味噌汁の湯気の向こうで、誰かが笑っていた気がする。


 リナは、自分でも気づかないまま、ふっと頬を緩めていた。


 理由は分からない。


 けれど、胸の奥が懐かしさで満たされていくような、不思議な安心感があった。


 その時だった。


 ごくわずかな、けれど確かに意識の下層にあった記憶が、音もなく表層へと浮かび上がった。


 それは、白く光る厨房。熱のこもるコンロの前に立つ自分。そして、横に立つもう一人の影。


 ――今日もやるか、リナ。


 男の声。誰だろう、誰かのことを、知っている気がする。


 けれど、名前が出てこない。


 顔も思い出せない。


 けれど、その言葉に自分が返した台詞は、はっきりと脳裏に刻まれていた。


 ――もちろんです、師匠。


 言葉とともに、なぜか涙がこぼれた。


 その理由も分からない。


 ただ、リナは今、初めて自分の中に“自分ではない何か”があることを、確かに感じていた。


 前世の記憶――


 その言葉を、まだはっきりと思い浮かべることはできなかった。


 けれど、あの光景が“今の自分”だけでは説明できないと、本能が告げていた。


「……変ね、私。どうしちゃったのかしら」


 そう呟いて、リナは微笑んだ。


 まだ混乱はしていた。


 けれど、恐怖や否定ではなく、不思議と“知っていた”という感覚が、安心感として広がっていた。


 心のどこかが、やっと音を立てて動き始めた気がする。


 それは、目覚めの前触れ。


 リナは、まだ気づいていない。


 この感覚こそが、自分の中に眠る“異物”の目覚めであることを――


 そしてそれが、これからのリリスの歩みに、大きな意味を持つことになるのだと。

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