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新たな波紋、試される覚悟

 新しい朝が訪れ、ラヴェンダー家の屋敷には柔らかな陽光が差し込んでいた。昨日の温かな食卓の余韻を残しつつ、リリスは庭先でアイシャと並んで、湯気の立つハーブティーを口に運んでいた。


「……今日からが本番ね」


 ぽつりと漏らしたリリスの声に、アイシャが静かに頷く。


「はい。自警団の正式な見回りが、今日から本格的に始まります。隊長たちにも、今朝のうちに日程とルートの確認をしていただいております」


 アイシャが差し出したのは、見回りのスケジュールが記された書類だった。整然とした字で、地区ごとの担当と交代制の時間帯がまとめられている。


 リリスはそれを一瞥すると、小さく息を吐いた。


「すごいわ、アイシャ。私よりもずっとまとめるのが上手ね」


「いいえ。リリス様が礎を築いてくださったからこそです。私たちはその意志を形にしているだけです」


 そう応じながら、アイシャは手元の帳簿に目を落とした。


「それと……念のため、隊員全員の所在と連絡手段も確認済みです。万が一、問題が起きた場合も、すぐに対応できます」


「そこまでしてくれたのね……ありがとう」


 リリスは素直な感謝の言葉を口にしながらも、内心には新たな緊張が湧き上がっていた。これまでは準備だった。だが、今日からは“実行”が始まる。


 ラヴェンダー子爵領に新たに誕生した〈自警団〉。それは決して、武力をもって威圧する組織ではない。あくまで“市民による、市民のための見守り”であり、互いに顔の見える安心の網だった。


「リリス様」


 アイシャが一歩前に出て、真剣なまなざしで続ける。


「今日の巡回では、いくつかの要注意区域があります。特に、以前に夜間騒動が起きた路地裏周辺。少しでも異変があれば、すぐに知らせを入れます」


「ええ、お願い」


 リリスは小さく頷き、空を仰いだ。市場が静かに目を覚ましつつある音が、遠くから風に乗って届いてくる。


 その音の向こうには、市民たちの営みと、新たな秩序の息吹があった。


 数時間後、市場の広場では、見回りの隊員たちが整列していた。市民の中から志願した面々で構成された彼らは、それぞれの制服に身を包み、軽く胸を張っていた。


 リリスとアイシャは、その様子を遠巻きに見守っていた。中には、かつてリリスに敵意を向けていた農民の姿もあり、その男がいまでは真剣な顔で見回り用の木製の腕章を付けている。


「あの方……以前、市場で騒動を起こした方では?」


「ええ。けれど、いまは立派な隊員よ。彼は言っていたの。『俺にもできることがあるなら、やってみたい』って」


「……変わったのですね、人は」


「ううん、変わったんじゃないの。もともとあった“何か”が、やっと出てこられただけ」


 リリスの声には、穏やかな確信が宿っていた。


 見回りが始まる号令とともに、隊員たちはそれぞれの持ち場へと散っていった。その足取りには、誇りと責任の重みがあった。


 見守る人々の中には、小さな子どもたちの姿もあった。彼らは目を輝かせながら、見回りの人たちを指差し、親に問いかけている。


「ねえ、あれっておまわりさん?」


「そうね。……うちの人も、手伝ってるのよ」


「すごいね!」


 市民の間に、確かに何かが芽生えていた。誇り。尊敬。そして、守られているという安心感。


「リリス様。やはり、この取り組みは……」


「ええ。まだ始まったばかりだけど、確かな手応えを感じてるわ」


 リリスは微笑んだ。だが、その笑みの奥には、気を引き締める覚悟も宿っていた。


 新たな芽は、まだ弱い。だが、だからこそ、誰かが見守り続けなければならない。


 自警団の正式な活動が始まった初日。朝から動き出した隊員たちは、それぞれの担当区域を巡回しながら、市場周辺や人通りの多い通りを中心に目を配っていた。


 その姿を見て、住民たちは口々に「安心できる」と語り、自然と通りに笑顔が増えていった。特に年配の女性や子どもを連れた母親たちは、自警団員の姿に軽く会釈し、何人かはささやかな差し入れを手渡していく。


 そんな中、広場の端に設けられた小さな仮設詰所では、数人の隊員が集まり、交代の段取りや報告のまとめを行っていた。隊員のひとり、若い男が顔をしかめながら言った。


「……なんだかさ、見られてる感じがするんだよな。巡回中、やたらじろじろ見られて」


「それは制服着てるからじゃないか? 目立つし、新しい試みだし、そりゃ注目されるさ」


 別の年長の隊員が落ち着いた口調で返すが、若者は首を横に振った。


「それだけじゃない。なんかこう……視線が冷たいっていうか、信用してないって感じでさ。俺ら、ちゃんとやってるのに」


「……まあ、それはあるかもな」


 年長の男が苦笑いを浮かべた。


「ついこの前までは、俺たちもただの“近所の兄ちゃん”だったしな。急に『見回り』だなんて言われても、身構える人はいるだろうよ」


 その言葉に、他の隊員たちも頷いた。市民と自警団の間にある“距離”は、制度を導入しただけではすぐには埋まらない。


 詰所の様子を少し離れて見ていたアイシャは、帳簿を抱えたまま立ち上がり、ゆっくりと詰所に向かった。背後では、リリスが彼女の動きに目を向けていた。


「……行ってくるわ」


「お願いね、アイシャ。必要なら、私もすぐに行くわ」


 リリスは小さく頷きながら、広場のベンチに腰を下ろした。穏やかに見えるこの風景の中に、どこかに小さな波紋が広がり始めていることを、彼女は直感していた。


 アイシャは詰所に着くと、静かに書類を机の上に置き、隊員たちに声をかけた。


「巡回、お疲れ様です。ご不安な点があれば、どんなことでも報告してください。私たちは皆さんを支える立場です」


 その一言で、場の空気がわずかに和らいだ。先ほどの若者も、少し照れたように頬をかきながら言った。


「いや、別に……不安ってわけじゃないんすけど、ちょっと気になることがあって」


「どうぞ」


「北の外れの方の路地で、見慣れない連中がうろついてるんです。人相も悪いし、明らかに地元の人間じゃない。声をかけようとしたら、さっと逃げていったんで、それ以上は追ってませんけど」


「それは……その時間と場所、詳しく教えてもらえますか?」


 アイシャの表情がわずかに引き締まる。すぐに帳簿を開き、地図と時間帯を照合しながら、何人かの名前に印をつけた。


「……やはり。昨日の時点で不審者情報が上がっていた地区と一致しています。別方向からも確認されていました」


「じゃあ、やっぱり……?」


「現時点では断定できませんが、警戒は必要です」


 アイシャは言葉を慎重に選びながらも、確かな重みをもって答えた。


「今後、その区域は二重巡回に切り替えましょう。日中は一班、夕方からは別の班で」


「了解っす」


 若者は真剣な表情で頷いた。詰所の空気は、先ほどまでの不安をぬぐい去るように引き締まりつつあった。


 一方、広場に残っていたリリスのもとに、ひとりの使用人が駆け寄ってきた。


「お嬢様、お伝えすべきことがございます。つい先ほど、南門の見回り班から報告がありました。……やや荒れた身なりの男が、屋台に絡んでいたと」


「被害は?」


「幸い、屋台の主人が毅然と対応し、大きな被害は出ておりません。しかし、男は何も買わずに長時間居座り、他の客にも迷惑をかけていたそうです」


 リリスは小さく息を吐き、立ち上がった。


「……どこにでも、境界線を試そうとする人はいるのね」


「ええ。ただの流れ者か、もっと悪質な意図があるのか……」


「今後も、隊員の安全を最優先にしつつ、商人や市民の立場も忘れないようにしたいわね。アイシャにも伝えて」


「はっ」


 使用人が頭を下げて去っていくと、リリスは改めて市場の全景を見渡した。


 昨日までと変わらぬ喧騒、並ぶ屋台、美味しそうな匂い。しかし、目に見えぬ“異物”が、少しずつ入り込んでいる。


 それは、成功の証でもあった。賑わいがあれば、それに紛れようとする者も現れる。逆に言えば、それだけラヴェンダーの名が“使える”と見なされているのだ。


「でも、負けるわけにはいかないわ」


 静かに、リリスは小さく呟いた。その目は、すでに次の手を探っていた。


 午後になると、市場の一角にある青果屋の軒先で、何やら言い争う声が上がった。


 「だから、最初に言っただろ! この箱のリンゴは俺のだって!」


 「だけどよォ、こっちのもんだって言ってるだろうが!」


 怒鳴り合う二人の男に周囲の客が距離を取り、やや空間ができている。その真ん中で、困り顔の店主が汗を拭いながら仲裁に入っていた。


 「ちょ、ちょっと待ってください……! あの、その箱はどちらのお客様もお触りになっていて……ええと、順番が……」


 「ああもう、らちがあかねぇな!」


 先に声を荒げた男がリンゴの箱を掴みかけたとき、青い帯をつけた自警団員が素早く間に割って入った。


 「落ち着いてください、ここは市場の中です」


 男たちは一瞬たじろいだが、すぐに睨み返す。


 「なんだてめえ、近所の坊主がいきなり偉そうに」


 「手出しする前に、こっちの言い分も聞けや」


 言葉は荒いが、目には明確な警戒が宿っている。先ほどの詰所の報告にあった“外から来た連中”の一部である可能性は高いと、隊員はすぐに判断した。


 「お二方、お名前とご住所を確認させていただけますか」


 冷静な口調と、隊員特有の紋入りバッジの存在に、男たちの態度がわずかに変わる。だが、その視線は不穏なままだ。


 「チッ……さっさと店主がハッキリしねぇのが悪いんだろ」


 「俺たちゃ客だぜ、客!」


 二人は不満げに吐き捨てながらも、やがて渋々とその場を離れた。隊員は市場の安全を確保したことに安堵しつつ、すぐに詳細を詰所に報告した。


 報告を受けたアイシャは、記録帳を開いて指先で要点をなぞりながら、リリスに説明を行う。


 「どうやら、明確な荒事ではありませんでしたが、彼らの振る舞いは挑発的でした」


 「最初は静かに様子を見て、態度によって境界線を押し広げる……よくある手法ね」


 リリスは静かに頷いた。


 「何度か騒ぎを起こして、私たちの対応が遅ければ『この街は治安が悪い』という評判を流すつもりかもしれない」


 「あるいは、他の土地からの商人に『この市場は信用できない』と思わせたいのかも」


 アイシャの声に、リリスは鋭い視線を市場の奥へと向ける。


 その視線の先には、遠巻きに様子を伺うように立つ黒っぽい外套姿の数名がいた。目を合わせるとすぐに視線を逸らし、何食わぬ顔で屋台の品々を見て回っている。


 リリスは目を細めた。


 「それから……噂が出始めているの、ご存じ?」


 「ええ。『子爵家が民兵を名乗って勝手に取り締まりを始めた』というものですね」


 アイシャは抑えた声で頷いた。


 「その噂、意図的に広められている気配があります。話の出所をいくつか辿りましたが、中心にいるのは、市に最近現れた行商人たちでした」


 「なるほど、私たちの信用を削るつもりね。市の警備を強化する試みが『横暴だ』と捉えられれば、内部から反発も起きうる」


 「既に一部の古参の店主たちの間では、『勝手な取り締まりは困る』という意見も出始めています」


 リリスはしばらく考えたあと、決断を口にした。


 「広場にて、市民向けの説明会を開きましょう。自警団の設立目的、それが領主としての責務に基づくものであることを、正式に伝えなければ」


 「承知しました。各詰所に告知の伝達を。日取りは……早ければ明後日」


 「もう少し早くしたい。明日、昼過ぎには準備できる?」


 「可能かと。使用人に配置を指示し、屋台の空白時間を利用すれば、集まりやすい時間を確保できるはずです」


 リリスは頷いた。


 「それでいきましょう。誤解は早いうちに解かないと、“無関心な第三者”が“否定的な当事者”に変わってしまうもの」


 その言葉には、幼い少女の姿に似つかわしくない重さがあった。アイシャは改めて敬意を抱きつつ、すぐに手配のため動き出す。


 一方そのころ、広場の片隅では、別の動きも始まっていた。


 顔見知りの老婆二人が立ち話をしていたが、そこに割り込むように現れた若い男が声を潜めて語りかけた。


 「……あんたら、見たか? あの制服の連中、なんだって子爵家のガキが仕切ってんだ?」


 「いやぁねぇ、あの子はお金持ちのお嬢さんでしょ。何か事情があるんでしょ」


 「事情もなにも、子どもがでしゃばってるってだけで、まともな話じゃねえよ。なあ?」


 小さな種が、ゆっくりと撒かれていく。否応なく――確実に。


 翌日正午を少し過ぎた頃、広場の一角には簡易の演台が設けられ、子爵家の紋章を染め抜いた幕が後ろに掲げられていた。


 周囲には木箱を重ねた即席の観覧席が並べられ、そこに座る者、立って見守る者、商いの合間に足を止める者――集まった人々の数は、当初の予想を大きく上回っていた。


 「……まさか、ここまで来てくれるとは」


 袖口を整えながら、リリスが小さく呟いた。その隣に控えるアイシャは、周囲の様子を確認して頷く。


 「昨晩、詰所を通じて各商家へ伝達いたしました。また、焼き菓子と茶の用意があると噂が広まったことで、子ども連れの姿も目立ちます」


 「なるほどね。宣伝効果は想像以上かも」


 リリスは緊張を隠さぬまま小さく息を吐き、視線を前方に向けた。


 すでに前列には、果物屋や魚介屋の店主たちが揃っており、リリスと面識のある老人の姿も見える。彼らの表情は硬くもあり、期待もあり、不安げでもあった。


 やがて司会役の執事が一歩進み出て、朗々とした声で宣言した。


 「これより、ラヴェンダー子爵家主催による『自警団設立とその活動目的』に関する説明会を始めます。本日は、お忙しい中お集まりいただき誠にありがとうございます」


 その声に、場の空気が引き締まる。


 続いて壇上に上がったのは、青い制服を着た自警団の代表格となる青年――リナ不在のため、代行として選ばれた団員リカルドだった。屈強な体躯と真っ直ぐな眼差しが印象的な彼は、短く敬礼すると壇上から市民たちへと語りかけた。


 「私たち自警団は、ラヴェンダー子爵家の後援のもと、領内治安の維持と市場の秩序保全を目的として活動しております。これは決して私的な武装集団ではなく、領主家からの正式な許可と協力に基づいております」


 幾人かが頷く中、ちらほらと不満げな表情も見える。リリスはその様子を見逃さず、ゆっくりと演台へと進み出た。


 彼女が姿を現すと、ざわついていた場が静まった。子どもの姿をした子爵令嬢が、群衆の前に立つというだけで、否応なく視線が集まるのだ。


 「皆さま、こんにちは。ラヴェンダー家のリリスです」


 小さな声ながら、しっかりとした口調に、近くにいた老婆が小さく頷いた。


 「本日は、お時間をいただきありがとうございます。私たちは、ここ最近起きている小さな騒動や、治安の乱れを重く見ています。それが偶発的なものであれ、意図的なものであれ、放置しては市が衰えてしまいます」


 ここで間を取り、視線を会場全体へと巡らせる。目を逸らす者もいれば、まっすぐ見つめ返す者もいた。


 「自警団の設立は、こうした不安に対応するためのものです。私たちは、皆さまの暮らしを守るために動いています。けれども、強制ではありません。市の活力は、市民一人一人の信頼と協力に支えられてこそ成り立ちます」


 その言葉に、徐々に空気が柔らかくなっていく。


 「また、私たちの活動に不安を感じている方がいれば、ぜひ直接ご意見をください。自警団の隊員は、市民の一員であり、皆さまの声に耳を傾ける存在でありたいと考えています」


 言い終えると、リリスは丁寧に一礼した。


 一拍の間のあと、ぽつぽつと拍手が起こり、それがやがて波のように広がっていった。


 最前列にいた商人の一人が立ち上がり、声を張る。


 「子爵令嬢、自警団の設立は確かに最初は驚いたが、実際に巡回が始まってから、店先での揉め事が減ったのは事実だ!」


 続いて魚屋の男が手を挙げる。


 「うちの前でも、昨日団員が仲裁してくれた。確かに、乱暴者にはにらみが効いてるよ」


 賛意の声が増える一方で、やや年嵩の女が手を挙げた。


 「けどよ、子どもが前に出るのは、心配ってのもあるよ。令嬢がやり玉にされるようなことがあったら……」


 その言葉には、確かな懸念が込められていた。リリスはすぐに応じる。


 「ご心配ありがとうございます。ですが、私は領主の娘として、この街に責任があります。何もかも自分一人で背負うつもりはありませんが、先頭に立つ覚悟はあります」


 今度は、しばしの沈黙のあと、先ほどの女性がふっと笑った。


 「……立派なもんだよ、ほんとに」


 その言葉が合図となったかのように、場が和らぎ、全体に穏やかな雰囲気が広がっていった。


 説明会の成功から三日が経過し、自警団の活動はより活発なものとなっていた。


 詰所には、各地での巡回報告や、市民から寄せられた苦情、要望などが次々と届けられ、対応に追われる日々が続いている。対応班を分け、順番に回す体制は取れていたものの、これまで表面化していなかった問題が次々と明るみに出てくるのだった。


 「今朝も、雑穀屋の前で客同士の小競り合いがあったそうです。原因は、整理札を持たずに割り込もうとした者がいたためとのこと」


 「その後はどうなったの?」


 「近くを巡回していた団員が即座に駆け付けて、当事者の話を聞き、周囲の証言を集めて、口頭での注意に留めました。軽いものとはいえ、最初に手を出しかけたのは割り込もうとした側だったそうです」


 アイシャが手早く報告書を整理しながら答える。リリスは頷きつつ、別の書状を手に取った。


 それは、市場北端にある倉庫の管理者からの報告だった。最近になって、夜間に鍵をいじられた形跡があったという。


 「鍵の痕跡は?」


 「こじ開けられたわけではありませんが、金属の擦れ跡が明らかに変わっていました。道具を差し込んで試した可能性があります」


 「まさか、空き巣予備軍?」


 「未遂で済んだのは、周囲の警戒が強化されていたからかもしれません」


 不穏な報告に、リリスは深く息を吐いた。


 市民の多くは自警団を受け入れつつあり、協力的な商人も増えていたが、それに反発する者が存在するのも事実だった。特に他所からやってきた流れ者の中には、市場の秩序が厳しくなることを快く思わない者もいる。


 「問題は、これまで目に見えていなかった層の動きね……」


 リリスは口元に手を添えて思案する。アイシャがそっと、すでにまとめられていた別の書面を差し出した。


 「こちらは、今朝方の報告です。子どもが一人、見知らぬ男に声をかけられたと訴えております。幸い逃げて戻ったそうですが、詳細はまだ聞き取り中です」


 「……場所は?」


 「焼き菓子屋の路地裏。時間は朝の準備時で、周囲の店がまだ開ききっていなかったと」


 「人気の少ない時間帯を狙われたってわけね。アイシャ、子どもの服装や特徴は?」


 「市場の外れに住む仕立て屋の娘さんです。年は六つ、身なりは整っていたそうですが、特に目立つ服装ではなかったと」


 「偶然とは思えないわね」


 思わず表情を引き締めるリリスに、アイシャもまた緊張を滲ませた声で答える。


 「犯人の特徴は現在、本人からの聞き取りと近くの商人への聴取で進行中です。ただ、これを放置すれば、他の親たちが不安を募らせるでしょう」


 「もちろんよ。今すぐ詰所に通達を。自警団全体で、朝の巡回を二人一組に増やして。路地裏の見回りは重点的に行ってもらうわ」


 「承知しました。あわせて、子ども連れの家族に対する注意喚起も掲示いたします」


 「お願い。あと、仕立て屋の親御さんにも、子爵家からのお見舞いを届けて。ささやかなものでいいから、誠意を示しておかないと」


 リリスは短く息を吐いてから、椅子にもたれかかった。


 会議室の窓からは、市場へと向かう人々の流れが見える。皆、変わらぬ日常を求めて歩いている。だが、その陰に潜む危機を、誰もが知っているわけではない。


 「治安の維持って、思ったよりも根気がいるのね……」


 つぶやきに、アイシャは静かに頷く。


 「はい。けれど、お嬢様のお言葉と行動が、市の空気を確実に変えています。説明会以降、隊員たちの士気も上がっております。今が踏ん張りどきかと」


 「……ありがとう、アイシャ。皆を守るための仕組みを作るって、やっぱり簡単じゃないわね」


 「ええ。でも、お嬢様なら必ずやり遂げられます」


 机上の地図に、赤い線がいくつも引かれている。それは、危険の兆候が現れた場所の記録だった。


 リリスはそれを見つめながら、静かに心を定める。


 「次に動く前に……まずは、この芽を摘まないと」



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