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家族で囲む、幸せの卵料理

投稿タイミング間違ったので本日は3話出ます

 朝の陽射しが差し込む台所には、パンのような香ばしさと、卵の優しい香りが混ざり合っていた。

「これ、もういい匂いしてきたよ!」

 ルシェルが椅子の上に立ってオーブンの中を覗き込む。その隣では、ルーファスが真剣な顔で蒸し器の蓋をじっと見つめていた。


「開けていいの?」

「もうちょっと我慢。ふわふわにしたいから、蒸気が逃げないようにするの」

 リリスが笑いながら言うと、ルーファスは「うん」とうなずいて目を戻す。


 今日のメニューは二品。ひとつは卵をたっぷり使ったグラタン風焼き。じゃがいもと玉ねぎ、そして鶏肉を一口大に切り、塩とハーブで下味をつけてから耐熱皿に並べる。その上から溶き卵とミルクを混ぜた液を注ぎ、仕上げにたっぷりのチーズを散らしてオーブンで焼く。


 もうひとつは、ふわふわ卵の蒸しパン。卵、牛乳、薄力粉に少しの砂糖と油を加えて混ぜた生地を、小さな型に入れて蒸すだけの素朴なおやつ。シンプルだからこそ、素材の味が生きる。


「ルシェル、こっちのチーズをかけてくれる?」

「うん、いっぱいでいいの?」

「もちろん。ルーファスの分も、たっぷりね」

「やった!」


 ルシェルが小さな手でチーズをひとつまみずつ慎重に乗せていく。ルーファスも器を支えたり、お皿を並べたりと、見よう見まねながら一生懸命に動いていた。


 以前なら考えられなかった光景だった。忙しく働き詰めだった頃には、台所に子どもたちがそろって立つことなどなかったのだ。


 リリスは思わず笑みを浮かべながら、静かに蒸し器の火加減を確認した。


「……そろそろ、いいかな」

 そう呟いて蓋を開けると、湯気とともに、ふんわりとした甘い香りが広がった。


「うわぁ……!」

「おいしそう!」


 蒸し器の中には、膨らんだ黄色い蒸しパンが並んでいた。型から取り出すと、ぷるぷるとした弾力があり、指先で触れるだけでふわりと沈んで戻ってくる。


「お姉ちゃん、これ……まるで雲みたい!」

「ね、ふわふわだね。冷めたら、みんなで食べよう」


 そこへオーブンの方から、カリッと焼き上がる音が聞こえた。


「お姉ちゃん! そっちも焼けた!」

「じゃあ、取り出そうか。やけどに気をつけて、下がっててね」


 リリスがミトンをはめてオーブンの扉を開けると、チーズの香ばしい香りが一気に部屋中に広がった。卵がふんわりと膨らみ、野菜と肉の旨味を包み込んだグラタン風焼きが、きつね色に焼きあがっていた。


「うわあ……」「すごい」「おいしそう……!」


 三人分のグラタン皿をテーブルに並べて、少し冷ます間にお皿やスプーンも整える。リリスがテーブルクロスのしわを丁寧に伸ばすと、ルシェルがその動作をまねするように端を引っぱった。


「よし、いただきましょうか」

「いただきます!」


 スプーンを手にしたリリスが、ほかほかの卵グラタンをすくって口に運ぶ。じゃがいもと鶏肉の旨味が、卵の優しさとチーズのコクでまとめられていて、満足感のある味に仕上がっていた。


「おいしい……!」

「これ、お店で出せる味だね!」

 ルーファスが目を丸くして言うと、リリスはくすりと笑った。


「それはどうかしら。でも、ルシェルとルーファスのおかげで、すごく上手にできたわ」


「お姉ちゃん、また作ってくれる?」

「もちろん。今度はもっと具を変えてもいいわね。ブロッコリーとか、きのことか」

「ぼく、ブロッコリー入れてみたい!」


 笑い合いながら食卓を囲む、その時間こそがリリスにとって何よりのごちそうだった。


 ふと、かつて卵料理を満足に食べることすら叶わなかった頃を思い出す。あのとき思い描いた夢の一片が、いまここに形になっているのだと実感していた。


(……夢って、追いかければ本当に届くんだ)


 リリスは小さく深呼吸をして、ふわふわ蒸しパンを口に運んだ。甘さ控えめの優しい味わいが、心まで包み込んでくれるようだった。


(この幸せを守るために、私はまだまだ頑張らないと――)


 そう思いながら、リリスは小さな弟と妹の笑顔を見つめていた。


「それじゃあ、次は蒸しパンのほうね。ルシェル、卵を割ってもらえる?」


「うんっ!」


 小さな手に渡された卵を、ルシェルは慎重にボウルのふちに打ちつけた。最初は力加減が分からず、ただコンコンと当てているだけだったが、リリスが優しく手を添えてやると、ようやく殻にひびが入り、中の黄身と白身がボウルに流れ落ちる。


「わあ、きれい……!」


 ルシェルが目を輝かせた。リリスは彼女の頭をそっと撫でて、にこりと笑う。


「とっても上手よ、ルシェル。これからお姉ちゃんと一緒に、ふわふわの蒸しパンを作るの」


「ふわふわ……! たべたい!」


「はいはい、もう少し待っててね。これから材料を混ぜて、蒸し器にかけるのよ」


 リリスは小麦粉に卵、砂糖を加えながら混ぜていく。バターの香りもほんの少しだけ加えると、甘くて優しい香りが部屋の中に漂い始めた。


「ルーファス、お湯は沸いた?」


「うん、バッチリ! お姉ちゃん、これ、もう入れていい?」


「ええ、お願い。蒸し器にそっと入れてくれる?」


 ルーファスもまた、真剣な面持ちで鍋のふたを開け、蒸し器の中に型を並べていく。その姿は、まるで小さな料理人だ。


 家族で協力しながら、蒸しパン作りは着々と進んでいった。


 しばらくすると、蒸し器のふたから湯気が立ちのぼり、部屋中にふんわりとした甘い香りが充満した。ルシェルは待ちきれない様子で鼻をくんくんと動かしている。


「ねえ、まだ? まだ?」


「もうすぐよ。あと五分くらいかな」


 リリスは微笑みながら、時計を見た。蒸し時間が終わるまでのあいだ、彼女はふと窓の外を見やった。明るい陽射しが庭を照らしている。市場の喧騒も、今日は少しだけ遠くに感じられる。


 ――こんな穏やかな時間を、いつまでも守っていきたい。


 そんな思いが、リリスの胸にそっと芽生えた。


「はい、おしまいっ。そろそろ取り出していい頃ね」


 ふたを開けると、湯気の奥からふわふわに膨らんだ蒸しパンが現れた。ルシェルは歓声を上げる。


「わあ……! ふわふわだあ!」


「すごーい! ぼく、こんなの初めて見た!」


 ルーファスも感嘆の声を漏らす。リリスは蒸し器からパンを一つ取り出し、粗熱をとってから、そっと切り分けて二人に渡した。


「はい、ルシェル、ルーファス。できたてよ」


「いただきます!」


 二人は仲良くそろって口に運び、もぐもぐと頬を動かす。ルシェルの表情がぱあっと明るくなった。


「おいしいっ! あまくて、ふわふわで、たまごのあじがする!」


 リリスはその反応に満足げに頷いた。


「よかったわ。ルシェルのために、特別に作ったんですもの」


「お姉ちゃん、だいすきっ!」


 ルシェルは嬉しそうにリリスに抱きついた。ルーファスも無言で親指を立てて見せる。


「この蒸しパン、市場でも売ったら人気出るんじゃない? ねえ、お姉ちゃん」


「ふふっ、そうね。でも、これは“家族の味”にしておきましょうか。とっておきの思い出としてね」


 リリスは二人の頭に手を置きながら、あたたかく微笑んだ。


「この家も、少しずつ賑やかになってきた気がするな」


 そう呟いたのは、ちょうどそこへ入ってきたクラウスだった。腕を組みながら、彼はキッチンの様子をしばし眺めていた。


「蒸しパン……か。昔、お前の母さんがよく作っていたな。あれも、卵の風味が優しかった」


 その言葉に、リリスは一瞬だけ目を細めた。


「お父様、召し上がりますか?」


「うむ、いただこう」


 リリスは切り分けた蒸しパンをクラウスに差し出す。彼はそれを受け取ると、静かに一口かじった。


 しばしの沈黙の後、彼はふっと笑った。


「……悪くない。いや、実に美味い」


「ありがとうございます。卵の優しさが、きっと皆をつなげてくれると思って」


 リリスの言葉に、クラウスは小さく頷いた。


 こうして、家族の団らんの中で、ふわふわの蒸しパンは“記憶に残る味”となった。


 「このグラタン……ほんとうに、お店で出せるんじゃないかしら」


 感嘆したようにリシアが言うと、ルシェルがうれしそうに笑った。


「リリスお姉ちゃんと、みんなで作ったからだよ」


 クラウスは黙ってフォークを運んでいたが、ふと手を止め、ぽつりと呟いた。


「……こんなに食卓が賑やかだったのは、いつ以来だろうな」


 誰もすぐには返せなかった。だからこそ、その言葉の意味は皆の胸に深く響いた。


 ルーファスが顔を上げる。


「これ、また作ってもいい?」


「うん、いいよ。また一緒に作ろう」


 リリスの返事に、弟はぱっと顔を輝かせた。


 ルシェルは、もう一つ蒸しパンを手に取っている。


「ふわふわ~。これ、おともだちにもあげたいな」


「ルシェルちゃんのお友達って、あの、村の……」


「うん、ミラちゃん! このまえ病気だったけど、元気になってたの!」


 リリスは優しく頷いた。


「じゃあ、今度一緒に届けに行きましょう。冷めても美味しいように、少し工夫してみるね」


 食卓には笑顔と、静かな温もりが満ちていた。貧しかった頃の食事を知る家族だからこそ、この瞬間がどれほど尊いかを噛みしめていた。


 食後、片付けを手伝おうとしたルーファスを制して、アイシャが笑いながら立ち上がる。


「お坊ちゃまは、ルシェルちゃんの分までお絵描きのお相手をお願いしたいです」


「えっ、いいの!? やるやる!」


 ルーファスが嬉しそうにルシェルの手を引くと、二人は笑いながら居間へ走っていった。


 リリスは、その後ろ姿を見届けながら、ふと静かに言った。


「……幸せって、こういう時間のことを言うんですね」


 それを聞いて、リシアがそっと娘の手を握る。


「あなたが運んできてくれたのよ、リリス」


 クラウスは咳払いをしてから、無言で立ち上がり、食器を片付け始めた。


「あら、お父様が……?」


「うん、めずらしいね」


 アイシャとリシアが目を合わせて笑う。


 やがてリリスも立ち上がり、クラウスの隣に並んだ。


「……お父様。グラタンの具材、あれでよかったと思いますか?」


「悪くない。特に鶏肉と玉ねぎの甘みが、卵とよく合っていた」


「次は、少しチーズの種類を変えてみようかなって」


「……任せる。お前の味覚なら、きっと間違いない」


 言葉少なに、だが確かな信頼のこもった父の声に、リリスは小さく笑った。


 こうして、リリスたちの穏やかな朝は、温かな余韻を残して終わりを迎えようとしていた。


 ふわふわの蒸しパンを頬張ったルシェルが、満面の笑みを浮かべたまま首を左右にぶんぶんと振る。

「ねえ、ねえ、リリスおねえちゃん、これ、明日も食べられる?」

「もちろん。ルシェルが食べたいなら、いつだって作るわ」

 リリスが答えると、隣でルーファスが蒸しパンを口に運びながら、眉をしかめて唸った。

「これ、甘いのに軽くて……変な甘さじゃない。うまい」

「お砂糖は控えめよ。ほんのり甘くて、お腹に優しいの」

 リリスは得意げに言いながら、湯気の立つポットからカモミールティーを注いだ。ハーブの香りが食卓に広がり、ふとした静けさが訪れる。


 家族揃って食卓を囲むのは、いつぶりだろうか。リリスはカップを両手で包み込むように持ちながら、ゆっくりと息を吐いた。冬が来る前の短い秋、その静謐なひとときが、心をゆるやかに解かしていく。


「……リリス。これは、どうやって思いついたんだ?」

 クラウスが問いかけたのは、グラタン風焼きの皿を指してのことだった。器の底にじゃがいもと玉ねぎが敷かれ、その上にほぐした鶏肉と卵がとろりと重なっている。表面は香ばしく焼かれ、見た目にも美しい一品だ。


「市の人たちにも栄養があって、見栄えも良くて、なにより――残り物でも立派な料理に見えるようにしたくて」

 リリスの言葉に、クラウスが小さく目を細めた。口元には、微笑ともつかぬわずかな弛みが浮かんでいる。


「……なるほどな。見た目というのも、大事な価値だ」

「はい。貴族の食卓では当然のこと。でも、それは庶民の食卓にも通じると思うんです。特別じゃなくても、工夫で特別にできる」


 クラウスが何も言わず、もう一口グラタンを運ぶ。普段はあまり表に出さないが、こうしてリリスの料理に向き合う彼の姿は、静かな信頼の証そのものだった。


「お父様、リリスね、もっといろんな卵料理を作りたいの。特別な日にだけじゃなくて、毎日がちょっとだけ楽しくなるような、そんなもの」

「ふん。卵は高いぞ。あまり浪費するなよ」

「ちゃんと考えてます。地元の養鶏も軌道に乗りはじめましたし、そろそろ価格も落ち着くころです」


 横でそのやり取りを聞いていたリナが、くすくすと笑い声を漏らした。

「ほら、お嬢様ったら完全に商人の顔じゃない。まったく、どこまでいっても抜け目がないんだから」


「抜け目がないのはリナさんのほうです」

 リリスが言い返すと、ルシェルがそのやり取りに混ざりたそうに身を乗り出した。

「リナさん、リナさん、またあのチーズのやつ作ってくれる?」

「おっ、あれかい? じゃあ明日ね。リリス様、卵は確保しといてくださいよ?」

「了解です、リナさん」


 テーブルの上には、空になった皿と、笑い声と、温かい空気が満ちていた。


「ねえ、リリスおねえちゃん。これ、市の人にも食べさせてあげたら?」

「市の人に?」

「うん! このグラタンと蒸しパン、みんなも絶対よろこぶよ!」

 ルシェルの純粋な提案に、リリスは少しだけ黙ってから、ゆっくりと頷いた。


「そうね……。市場の炊き出しや、見回りの人たちへの差し入れなら、量も調整しやすいし」

「栄養あるし、お腹にも優しいし、何より気持ちがあったかくなる」

 リナが頷きながら言うと、ルーファスがぼそっと口を開いた。

「俺も……ちょっとだけ、役に立てたかも」


 リリスが目を丸くしてルーファスを見ると、彼はそっぽを向いたまま耳だけが赤く染まっていた。


「そうね。ルーファスが玉ねぎを切ってくれたおかげで、うまく炒められたし」

「それ、言うなって……」


 リリスがふわりと笑い、クラウスも珍しく声を立てて笑った。

「まったく、お前たちには驚かされてばかりだ」


 やがて、日が傾きはじめた空から差し込む夕光が、食卓をやさしく包み込む。これまでにない、穏やかな午後だった。


「リリス」

 クラウスがふと声をかける。リリスが視線を向けると、彼は少しだけ目を伏せながら言った。


「よくやったな。どれも、いい料理だった」

「……ありがとう、お父様」


 その言葉が、なによりのごちそうだった。


 市場の朝は、柔らかな陽射しと共に始まっていた。通りには活気が戻り、馴染みの顔ぶれが行き交う中、リリスは一歩引いた場所からその様子を見つめていた。

 数日前に始まったばかりの見回り制度は、まだ完全に定着したとは言えないものの、思った以上に市民たちに受け入れられているようだった。


「おや、今日の当番はユアンさんか。昨日も見かけたけど、よく頑張ってるな」

「見回りしてる姿、子どもたちが真似してるんだよ。うちの子なんて“僕も大きくなったらやる!”なんて言ってさ」


 小さな花屋の前で、店主の中年女性と客の会話が耳に届いた。

 同じような光景は他の店でも見られ、魚屋の主人が道の端に立っていた見回り役の青年に、余った干物をこっそり手渡している場面もあった。

 自然と人が気遣い、言葉をかけ、時に小さなお礼を渡す――そんな、無理のない連帯がそこにはあった。


 かつて騒ぎの起きたあの一角では、見回りの者が通るたび、以前はふてぶてしい態度を取っていた男が帽子を取って軽く会釈をしていた。

 その様子を見ていた若い母親が、子どもに小声で言う。


「ほら、あの人ね。前はちょっと怖かったけど、最近はすごく感じがいいのよ」

「なんでー?」

「うーん、きっと“守る人”って気持ちが芽生えたからじゃないかしら」


 リリスはそのやりとりを少し離れた場所から聞き、目を細めた。

 市場という空間が、単なる物の売買の場ではなく、人の気持ちと絆が交錯する場所へと変わっていく――その変化が、彼女には何より嬉しかった。


「お嬢様、ここにいらしたのですね」


 声をかけてきたのは、荷車を引いて戻ってきたアイシャだった。リリスはそちらを向いて微笑む。


「ええ、少し様子を見ていたの。皆、前よりも表情が柔らかくなっている気がして……」

「はい。先ほども“誰々が見回りしてくれるなら安心”といった声をいくつも耳にしました」


 そう言いながら、アイシャは小さな紙包みを差し出す。中には、リナお手製のふわふわ蒸しパンが数個入っていた。見回りの人々に配るため、あらかじめ多めに作っておいたものだ。


「休憩所に届ける分です。あと、報奨金の案内も今日から掲示されました」

「そうね、きちんと“形”として示すのは大切。どんなに善意でも、負担が偏ってはいけないもの」


 リリスの声には、商人としての冷静さと、市を導く者としての自覚が混じっていた。

 見回りを担う者には、当番ごとのわずかな給与と、事件対応時の報奨金、市場出店時の優遇措置――それらは、誇りと責任に応える小さな勲章であり、継続のための燃料でもあった。


 ふと、リリスは視線を上げた。市場の入口近くで、見回りの青年がふたり、交代の挨拶を交わしている。

 そのやり取りはまだ不器用で、ぎこちなさも目立つ。しかし、そこには確かな誠意と、続けようとする意志が宿っていた。


「この市場は、少しずつ“皆のもの”になっていっているのね」


 呟くように言ったリリスに、アイシャはすぐに頷く。


「ええ。今や“買う人”と“売る人”だけではなく、“守る人”も、この場所の一部なのです」


 その言葉に、リリスは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 市場は、単に家の経済を支える手段ではない。人と人が支え合い、育て合い、未来を築くための“居場所”になりつつある。


 リリスは深く頷くと、最後にもう一度、広場を見渡した。

 笑い声、呼び声、挨拶、子どもの走る足音――どれもが、この場所に“命”を与えていた。


 日が落ちると、夏の余韻を残した風が静かに屋敷を包んでいた。

 リリスはバルコニーに出て、胸元で手を組みながらゆっくりと市場の方向へ目をやる。

 遠くには、市場の灯りがぽつりぽつりと揺れていた。店はすでに閉じられているはずだが、見回りの当番がまだ数人、交代の点呼を取っているのだろう。


 日中の喧騒が嘘のように静かな景色。

 しかし、そこに宿る温もりと息遣いは、日中以上に確かなものとしてリリスの心に届いていた。


 今日の午前は弟妹とキッチンに立ち、久しぶりに笑い合いながら卵料理を作った。

 午後には、市場の隅々まで足を運び、市民の声を聞き、見回りの制度が小さな信頼の形として浸透し始めているのを感じた。


 そして今、リリスはそのすべてを確かめるように、ただ黙って夜空の下に立っていた。

 ふと、背後でドアの開く音がする。振り向かずとも、それが誰かはわかっていた。


「お嬢様、冷えます。ショールを」


 アイシャが差し出したのは薄手の羽織布で、夜風を防ぐにはちょうど良い。リリスはそれを受け取りながら、微笑を浮かべた。


「ありがとう。……ねえ、アイシャ。あの市場、どう思う?」

「今日、皆の様子を見ていて、確信しました。あれはもう“お嬢様の市場”ではありません。皆の市場です」


 アイシャの言葉に、リリスは目を細める。


「うん。私も、そう思う。誰かが一方的に与えるのではなく、皆が少しずつ担って、支えて……そうやって初めて、“誇り”が生まれるんだと思うの」


 星明りに照らされるリリスの横顔は、昼間よりもずっと大人びて見えた。

 市場がただの商売の場を超え、人と人とが繋がる拠点として成長していく過程。

 それを支える一つ一つの仕組みや行動、そして人の心の動きを、彼女は全身で感じていた。


「私ね、この市場を“誰もが誇れるもの”にしたいの。

 誰か一人が得をして、他の誰かが犠牲になるような仕組みじゃなくて……全員が“私の市場”って胸を張って言える場所に」


 アイシャは隣で静かに頷く。


「きっと、なります。いえ、もう、なり始めています」

「……そうね」


 夜風がふたりの髪を撫でていく。

 リリスは少し顎を上げ、星がまたたく空を見上げた。


「子どもが“見回りさんってかっこいいね”って言っていたの。そんなふうに思える空気が、市場の中にちゃんとあるのよね」

「私も聞きました。“あの人が守ってくれるから大丈夫”と。名前を出していたのは、数日前まで市に顔を出すのも躊躇っていた方です」


「……嬉しいわ」


 リリスの声はかすかに震えていた。喜びと、責任と、決意がないまぜになって胸に込み上げる。


「アイシャ。私は、もっともっと強くならなきゃね。守りたい人が増えれば、それだけ、私のやるべきことも増えるわ」

「リリス様は、もう十分に……」


 そう言いかけたアイシャに、リリスはそっと人差し指を上げて制した。


「まだ、まだなの。だって、始まったばかりなんですもの。

 この市場は、ただの市場ではない。“信頼と誇り”の勲章なのよ」


 その言葉は、空気に溶けて夜空に吸い込まれていった。


 しばらくして、アイシャがリリスの隣に並び立つ。

 ふたりは肩を並べ、無言のまま、煌めく市街の灯りを見下ろしていた。


 市場は眠り、街も次第に静けさを増していく。

 それでも、彼女たちの中には、確かな鼓動があった。希望と誓いの鼓動が。


 その後ろ姿は、夜風に揺れる草木のようにしなやかで、どこまでも凛としていた。



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