継がれる想いと、対等な関係
朝の陽差しが差し込むラヴェンダー子爵家の応接間には、清らかな空気が漂っていた。窓辺に飾られた薄紫の花瓶には庭で摘んだばかりのラベンダーが活けられ、香りがほんのりと漂っている。
リリスは帳簿に目を通しながら、湯気の立つハーブティーをひと口啜った。その隣では、アイシャが静かにメモを取っている。
「うん……この農家の今月の卵納品量、少しだけ増えてるね。飼育に慣れてきたのかな」
「ええ、マニュアル通りに飼料の配合も調整されているとの報告がありました。気温の変化にも対応しているようです」
「優秀だね。このまま続けば、もう少し買い取り価格を上げてもよさそう」
そんな穏やかなやりとりの最中、扉の外から控えめにノックの音が響いた。
「失礼いたします。お嬢様、客人がいらしております」
そう告げたのは家令のノエルだった。普段は物静かで感情をあまり表に出さない彼だが、今日はどこか戸惑ったような声色だった。
「どなたかしら?」
リリスが問い返すと、ノエルは眉をわずかに動かしながら言った。
「……ヴェルヴェーヌ辺境伯家のご令嬢、エレオノーラ様が、突然のご訪問を」
「えっ……エレオノーラ様が!?」
リリスの手がぴたりと止まる。前回、王都で短い交流を持った令嬢――誇り高く気品に満ちた少女――その姿が脳裏に浮かぶ。
どうして急に? 何かあったのだろうか?
思考を巡らせる間もなく、ノエルが続ける。
「ご本人は『少しだけ立ち寄っただけです』とおっしゃっておりますが、案内いたしますか?」
リリスは少しだけ考え込み、やがて小さく頷いた。
「……ええ。応接間へどうぞ。急なお客様でも、お迎えしないわけにはいかないもの」
「かしこまりました」
ノエルが一礼して去っていくと、リリスは急いで姿勢を整える。アイシャも即座に立ち上がり、手際よく卓上の帳簿や資料を片付けた。
「リリス様、大丈夫ですか?」
「たぶんね……少し驚いただけ。まさか、あのエレオノーラ様が……」
扉の向こうから、控えめな足音と、スカートの擦れる柔らかな音が近づいてくる。やがて、ノエルの案内の声とともに、応接間の扉が開いた。
「ヴェルヴェーヌ辺境伯家ご令嬢、エレオノーラ様をお連れしました」
「久しぶりね、リリスさん。突然の訪問を許してくださるかしら?」
扉の向こうに立っていたのは、あの日と変わらぬ気品をまとった銀髪の少女だった。堂々とした物腰に、どこか親しみを込めた微笑が浮かんでいる。
「もちろん。ようこそいらっしゃいました、エレオノーラ様」
リリスは丁寧に頭を下げ、心の奥でざわめく感情をそっと押し隠した。王都から遠く離れたこの地に、なぜ彼女が? その疑問はまだ胸の中で揺れている。
エレオノーラが応接間の椅子に腰を下ろすと、アイシャが静かに紅茶を運んできた。慎重な手つきでカップを置いた後、深く一礼して部屋を下がる。
「ありがとう、侍女さん」
「恐縮です。ごゆるりとお過ごしくださいませ」
その場には、リリスとエレオノーラだけが残された。
ほんの短い沈黙が流れる。だが、それは気まずさというよりも、互いに言葉を選んでいるような、張り詰めた静けさだった。
「……どうして、今日わざわざこの子爵領まで?」
リリスが尋ねると、エレオノーラは紅茶に口をつけることなく、まっすぐにリリスを見つめた。
「王都からの視察が、あなたのもとへ来ているという話を耳にして」
「……うわさになっているのですか?」
「ええ。地方の子爵家に、王都の役人がわざわざ来るというのは珍しいことですもの。しかも、その理由が“青空市”や“ラヴェンダー印の印章制度”だとか……興味深いわ」
エレオノーラの口調はあくまで穏やかだったが、その目の奥には確かな熱があった。視察が噂になるほどに、リリスの活動が広がっていることを、リリス自身がまだ自覚しきれていないという事実が、どこかくすぐったい。
「……そうですか。噂が、王都にまで」
「ええ。私は、あなたのことが気になっていたの。ずっと、また会いに行きたいと思っていた。でも、侯爵家の立場では、そう軽々しく動けない」
言葉の端に、わずかにためらいの色が混じっていた。
「けれど、今回は“あなたの経済活動に関心があるから”という大義名分ができたの。だから……」
そこでエレオノーラは言葉を区切り、紅茶を一口だけ口に含んだ。その所作は優雅で、どこか胸の内を隠すようにも見える。
「あなた、今……資金的に困っていることはないかしら?」
唐突な問いに、リリスはきょとんと目を丸くした。
「資金、ですか?」
「ええ。もし必要なら――私の侍女にならない?」
リリスの目が見開かれる。あまりにも意外な提案に、しばし返す言葉を失った。
「そばにいてくれたら、私もあなたの話をもっと聞けるし……きっと楽しいと思うの」
そこにあるのは、侯爵家の令嬢としての命令でも、憐れみでもなかった。ただ、どこまでも純粋な“関心”と“好意”――それだけだった。
けれど、リリスはそっと微笑むと、首を横に振った。
「ご厚意は嬉しいですが、お受けできません」
「……どうして?」
「私は今、家族と商会と、子爵領の人々のために動いています。それが今の私の役割ですから」
その言葉に、エレオノーラの顔から一瞬だけ笑みが消えた。
「……友達なら、お願いを聞いてくれるんじゃなくて?」
その一言には、どこか幼さと戸惑いがにじんでいた。令嬢としての誇りと、少女としての気持ち。そのあいだで揺れる、素直になれない心。
リリスはゆっくりと視線をエレオノーラに向け、静かに告げた。
「友達だからこそ、対等であるべきです。言うことを何でも聞くのは、それは地位に従っているだけの存在です」
「……っ」
はっとしたように、エレオノーラの瞳が揺れた。その視線が一瞬、彷徨うように泳ぐ。
「……そんなふうに言われたの、初めてですわ」
紅茶に視線を落とした彼女は、膝の上で握った指先に力を込めていた。
「今まで、私のまわりにいた人たちは――家臣でも、侍女でも、友達だと思っていた令嬢たちですら……私の言うことに逆らったりはしませんでした」
エレオノーラは唇を噛みしめるようにして、静かに言葉を続ける。
「私が望めば皆が従う。それが“当然”のことだと思っていました。でも……そうやって従っていた人たちは、たぶん、私という人間そのものを見ていたわけじゃないのですね」
その声には、幼い少女らしい寂しさが滲んでいた。
「今日、あなたに会って、“違う”って思ったんです。あなたは、私の立場に怯えることも、気に入られようと媚びることもなくて。なのに……なのに、どうして私の心にまっすぐに届くのか、わからなくて……悔しいです」
リリスは椅子から少し身を乗り出すと、柔らかく微笑んだ。
「きっと、それはエレオノーラ様が、本当に誰かと“友達”になりたいと思っているからじゃないでしょうか」
「……!」
「私にだって、誰かの言葉に戸惑ったり、傷ついたりすることはあります。でも、私は“自分の信じること”を守りたくて、それを口にしただけです」
エレオノーラはゆっくりと背筋を伸ばし、目を伏せたまま深く息をついた。
「……あなたは、私がずっと欲しかったものを持っているのかもしれませんわね」
「私にあるとしたら、それはきっと……私の家族や、仲間たちがくれたものです」
「家族……」
エレオノーラの声が、かすかに揺れる。
「そう、家族……。友達よりも近くて、でも私にとっては遠くて、触れられなくて」
その言葉には、辺境伯家の令嬢として育った彼女の孤独がにじんでいた。
「私……また会いに来ても、いいかしら?」
その問いは、かすかに震えていた。
「ええ。エレオノーラ様が、私と対等な“友達”でいてくださるのなら」
リリスはゆっくりと視線をエレオノーラに向け、静かに言葉を紡いだ。
「友達だからこそ、対等であるべきです。言うことを何でも聞くのは、それは地位に従っているだけの存在です」
「……っ」
はっとしたように、エレオノーラの瞳が揺れた。その瞬間、彼女の表情からは気高さや威厳が消え、ひとりの年若い少女としての素顔が露わになる。
「でも……わたくしは、あなたのために――」
震える声で、必死に言葉を継ごうとする。だが、すぐにそれも途切れ、彼女はぎゅっと拳を握りしめた。
「……そんなふうに言ってくれる人なんて、今まで誰もいませんでしたわ」
かすれた声だった。静まり返った室内に、それだけがぽつりと響く。
「使用人も、家庭教師も、姉も……みんな、わたくしの言うことに従ってばかり。でも、それが当たり前だと思っていたのに……」
エレオノーラの肩がわずかに震えている。その瞳には戸惑いと、自分でも整理しきれない感情が浮かんでいた。
「あなたは、わたくしを叱ってくれる。でも、それが嫌じゃない。むしろ、どこか……あたたかくて」
その言葉に、リリスの表情がわずかに和らいだ。けれど、彼女は感情に流されることなく、真っすぐな目でエレオノーラを見つめていた。
「わたくしがあなたに申し出たこと……きっと、傲慢だったのですね。自分が手を差し伸べれば、あなたは受け取ってくれると、どこかで思い込んでいた。そんなの、友達でもなんでもなかったのに」
「エレオノーラ様……」
リリスが名前を呼ぶと、エレオノーラはふと顔を上げた。彼女の目は少し赤くなっていたが、その瞳には真剣さが宿っていた。
「ごめんなさい。わたくし、あなたに“友達になってほしい”と願っていながら、あなたを見ようとしていなかったのかもしれません」
その声はかすかに震えていたが、言葉ひとつひとつに、真摯な想いが込められていた。
「……また、来てもいいかしら?」
その問いに、リリスはゆっくりと微笑んだ。だが、その笑みはどこか穏やかで、少しだけ寂しげでもあった。
「わたくしは、いつでも歓迎します。ただし――“対等な友達”として、です」
その答えに、エレオノーラは小さく頷いた。そしてひと呼吸おき、そっと口元に手を添えて立ち上がった。
「では……また、来ますわ。次はきっと、ちゃんとあなたに胸を張れるように」
エレオノーラはドレスの裾を整えると、丁寧に一礼して扉の方へと歩き出した。その背中は、来たときよりも少しだけ軽やかに見えた。
リリスのその言葉に、エレオノーラはようやく、ほんの少しだけ微笑みを返した。
扉が静かに閉まる音が、室内に柔らかく響いた。
その余韻に包まれたまま、リリスは小さく息を吐いて椅子に腰を下ろす。気づけば、アイシャもメイベルもいつの間にか席を外しており、広い応接室に残されたのは、リリスひとりだけだった。
(……また、来ます、か)
エレオノーラが最後に残した言葉を、リリスはゆっくりと思い返していた。
王都の上流令嬢。自分とは、年齢も地位も住む世界もまるで違うはずの彼女が、自ら足を運んできてくれた。そして、感情を露わにし、自分の過ちを認めてまで「また会いたい」と言った。
それは、きっと本心なのだろう。
けれど――
「……“友達”って、難しいですね」
ぽつりと独り言のように呟いたその声は、自分でも驚くほど冷静だった。
リリスにとって、“友達”とは未だによくわからない関係だった。前世での人生は仕事に追われ、信頼できる相手はいたが、それを友情と呼べるものかどうか、曖昧なままだった。そしてこの世界に来てからも、周囲の人々との関係はどれも「使用人」や「商人」、「家族」といった明確な役割があって、心の距離感は測りやすかった。
けれど、エレオノーラのような存在は……その枠に収まらない。
何かを求めてくる相手に、どう応えるべきなのか。対等な関係を築くとはどういうことなのか。
(彼女の“好き”は、わたしの思う“対等”と交わるものなんだろうか)
あのまっすぐな瞳を思い出す。年上で、聡明で、気位が高く、それでいてどこか不器用な少女――エレオノーラ・ヴェルヴェーヌ。
彼女の心は確かに揺れていた。そしてその揺らぎの中に、嘘はなかった。
「……まだ、答えは出せそうにありませんね」
リリスはそっと微笑んだ。
感情に流されてはいけない。けれど、感情をないがしろにしてもいけない。どちらかだけでは“友達”とは呼べないのかもしれない。
エレオノーラの訪問は、ただの出来事ではなかった。リリスの心に、またひとつ新しい問いを投げかけてくれたのだ。
そのとき、ふと窓の外に目をやると、秋風に揺れる庭の木々が見えた。
色づき始めた葉が舞い落ちる様を眺めながら、リリスは静かに立ち上がった。
「……アイシャ、メイベル。そろそろ、次の予定をお願いします」
何もなかったように歩き出すその背中には、ほんの少しだけ、強さとは違う柔らかさが宿っていた。
心の奥に芽吹いた、ひとつの小さな種。それがいつか、答えとなって花開く日が来るのだろうか。
リリス自身にも、その答えはまだわからなかった。




