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役人の来訪と、「本当に9歳なのか」

 秋の気配が深まりはじめた子爵領に、一台の馬車が音もなく入り込んだ。紋章はない。けれど、随行する騎士らしき人物の立ち振る舞いには、王都仕込みの厳格さが滲んでいた。


「……ここが、例の“ラヴェンダー子爵領”か」


 低く呟いたのは、王都財務局に所属する監察官――ガルスト・レネウス。監察といっても今日はあくまで“視察”であり、正式な命令ではない。だが、彼の目にはこの地を評価すべき理由がはっきりとあった。


 馬車の窓越しに見えるのは、整然と並んだ簡素な露店と、規則的に動く人々。掲げられた“ラヴェンダー印”の看板が、市のあちこちに彩りを添えている。


「小さな領地の市場とは思えん……。まるで、計画された都市のようだ」


 視察に訪れる前、ガルストは疑問を抱いていた。最近提出された地方報告書の中に、妙に丁寧に作られた記述があったのだ。


 “市制度の導入と商品検品、記帳制度の整備により、税収三割増”


 その文面の端に添えられた名――リリス・ラヴェンダー。


 子爵家の長女で、わずか八歳の少女が、領の経済に深く関与しているというのだ。


(そんな馬鹿な話があるか。どうせ、親が名義を使っているだけだろう……)


 そう高を括っていたガルストだったが、実際に目にした市場の秩序に、早くもその考えが揺らぎつつあった。


 一方、ラヴェンダー邸では、執務室にいたクラウスが、客の到着を告げる使用人の声に顔を上げていた。


「王都より参りました、ガルスト・レネウス殿です」


「……ガルスト? たしか、財務局の……」


「はっ。非公式ながら、地方報告書の内容を“確認したい”とのことでございます」


 クラウスはひとつ息を吐き、静かに頷いた。


「では、応接間へ案内してくれ。リリスも、呼ぶとしよう。……あの子自身の、舞台だ」


 静かに、子爵家の一室で新たな幕が開こうとしていた。


 応接間に通されたガルストは、しばし沈黙のまま内装を眺めていた。質素ながら丁寧に整えられた部屋は、浪費に走らぬ堅実さを物語っている。そして、クラウスと向かい合った彼の視線は、やがて部屋の隅に立つひとりの少女に向けられた。


「お初にお目にかかります。リリス・ラヴェンダーと申します。本日はようこそお越しくださいました」


 小さな少女――リリスが、優雅に一礼する。


(……この子が“あの”)


 ガルストの目が一瞬だけ細められた。整った銀髪に澄んだ瞳。その仕草に戸惑いはなく、あまりにも洗練されていた。


「あなたが……この地の“市”や商会の管理に関わっていると聞きましたが」


「はい。あくまで補佐の立場ではありますが、市の仕組みや商会の帳簿整備は、私が中心となって進めております」


 朗らかに、しかし堂々と語るリリスに、ガルストは思わず問い返した。


「……失礼ながら、お幾つでしたかな?」


「今はもう九歳ですけれど、始めた当初は八歳でした」


 何を恥じるでもなく、自然体で返すその姿に、ガルストは再び無言となる。彼の視線は、応接間の脇机に整えられた帳簿へと移っていった。


「これは?」


「ラヴェンダー商会の帳簿です。ご覧になりたいようでしたら、どうぞ」


 リリスは席を立ち、丁寧に帳簿を差し出した。その手元には、明らかに年季の入った記録がいくつも重ねられている。ガルストはその一冊を手に取り、ぱらぱらと目を通す。


(……これは……)


 入金と出金が、明確に左右に分かれて書かれている。さらに摘要欄や補足説明まで添えられ、帳簿全体が驚くほど読みやすく整理されていた。


「これは、何という形式だ? 私が知る限り、こうした記録方法は見たことがない」


 思わず口をついて出た言葉に、リリスは淡く微笑む。


「うちの商会で利用している、出金や入金をわかりやすく比較できるように工夫した形式です。帳簿を扱う人間が多くなっても、誰でも同じように把握できるように整えています」


 あまりにも自然に、そして実用的な発想に、ガルストの眉がぴくりと動く。


(……この子は、本物だ)


 静かにページを閉じ、そっと帳簿を元の位置に戻したガルストは、心の内でひとつの評価を下しつつあった。


 ガルストは帳簿から目を離し、再びリリスの方へと視線を向けた。彼の目には、どこか探るような色が宿っている。


「この帳簿、毎月おひとりでまとめておられるのですか?」


「はい。最初は時間がかかっていましたが、最近は入力項目を絞ったり、計算の流れを整理したりして、少しずつ効率化を進めております」


「その計算式も自作で?」


「はい。私とアイシャ、それから会計を任せている者と相談しながら、必要な要素を洗い出して作りました」


 当然のことのように語るリリスに、ガルストは思わず口元を押さえた。


「……本当に、九歳なのですか?」


 小さく、呟くような声。だが、それは確かに部屋の中に響いた。クラウスは肩を揺らして笑い、リリスは微笑みを崩さぬまま、静かに頷いた。


「ですが、年齢にかかわらず、できることはあります。私は自分にできる範囲で、領や家の役に立ちたいと思っているだけです」


 真っ直ぐな言葉に、ガルストの表情が一瞬だけ和らぐ。しかし、その目はまだ鋭く観察を続けていた。


「他に、あなたが関わっている取り組みは?」


「現在は市場の検品体制や品質保証、それに養鶏事業にも関わっています。それぞれの担当者と相談しながら、安定した供給と信用の維持を目指して改善を重ねています」


「“信用”か……」


 ガルストは小さく呟いたその言葉を咀嚼するように繰り返す。検品と保証、そしてそれを支える帳簿と制度。それが八歳、いや九歳の少女の手で築かれたなど、にわかには信じがたい。


「子供の手遊びでは……ない。完全に、実務として成立している」


 そのつぶやきに、クラウスが深く頷いた。


「この子がやっているのは、我が家の“令嬢の道楽”などではない。領主として、心からそう言える」


 その言葉に、ガルストははっきりとした驚きを浮かべた。そして、静かに姿勢を正し、リリスへと向き直る。


「……私の任務はあくまで“報告”ですが、正直、想定していた内容とはまるで違っていました。あなたのような子が、本当に存在しているとは」


 リリスは黙って相手の言葉を受け止め、深く礼をした。


「お忙しい中、ここまで足を運んでくださったこと、心より感謝申し上げます」


 ひと通りのやり取りを終えたガルストは、背筋を伸ばして静かに立ち上がった。


「これ以上は、こちらからお聞きすることはございません。十分すぎるほどの内容でした」


「ありがとうございます。何か不足があれば、後日でも補足をご提出いたします」


 リリスが丁寧に答えると、ガルストはふと視線を泳がせたのち、軽く咳払いをした。


「……お嬢様。私情を交えてはいけないのは承知していますが、ひとつだけ」


 少しだけ表情を崩し、彼は本音を吐露するように言葉を紡ぐ。


「王都に戻って、この内容を報告すれば、必ず話題になります。“子爵家の子供が市を動かしている”などと書けば、誰もが眉をひそめるでしょう。だが――それを見聞きした者がいると知れば、受け止め方は変わります」


 リリスはまっすぐに相手の瞳を見つめた。


「そのような誤解を招く表現があれば、訂正いただければ幸いです。私は一人でやっているわけではありません。多くの方が支えてくれているから、ここまで来られたのですから」


 まるで大人のように淡々と語るその言葉に、ガルストは何度目かの沈黙を置いた後、少しだけ表情を和らげた。


「……あくまで報告書には“市の仕組みが整備され、運営に貴族家の関与がある”とだけ記しておきます。余計な脚色はいたしません」


「ありがとうございます」


 深く一礼するリリスに、ガルストもまた丁寧に礼を返す。


「最後に一つだけ確認を。あなたが記録している帳簿や仕組みは、もし他の領でも導入したいと言われた場合、共有していただけますか?」


「条件付きで、はい。信頼のおける相手であれば、改良案と合わせてお渡しする用意もございます」


「……本当に、ただ者ではない。これは私の個人的な感想ですが――この国が、少しだけ未来に近づいた気がします」


 そう言い残し、ガルストは部屋を後にした。


 静かに閉じられた扉の向こう。リリスは、深く息をついて呟く。


「王都……? 私、一体なにかしたっけ……?」


 誰にでも見せているはずの表情なのに、彼女の背を見送っていたクラウスの頬が、思わず緩む。


「お前は、いつの間にか……あの人を本気にさせたんだな」


 数日後――。


 ヴァーベナ王国の王都にある、財務局の一角。日々膨大な報告書が積み上がる中、一人の下級役人が静かにその一つを手に取っていた。


「……ラヴェンダー子爵領。ほう、またここか」


 その男の名はクレーメンス。細身の身体に眼鏡をかけた、物腰穏やかな三十代前半の役人だ。派手さはないが、資料精査の正確さと判断力には定評があり、密かに“王女付きの調査官候補”とも噂されている存在だった。


 彼が手にしたのは、地方の監察官がまとめた非公式報告の写し。本文は簡潔ながら、要点を押さえた筆致で、市場制度や帳簿の仕組み、そして“子爵家令嬢の関与”が明記されていた。


「市の仕組みも検品体制も整備済み……帳簿も明瞭で、不正の温床にはなりにくい……」


 クレーメンスの指先が止まる。


「そして……“当主の娘が主導”?」


 思わず眉をひそめ、もう一度報告の該当部分に目を落とす。そこには“幼いながらも理知的で礼儀正しく、商いへの理解も深い”と、個人評価として記されていた。


「まさか……」


 ページの末尾に添えられた補足に、彼は小さく声を漏らす。


「“ラヴェンダー子爵家のリリス嬢。現在、年齢は九歳”……?」


 静まり返る文書室に、紙をめくる音だけが響く。


「九歳で……? こんなことが、できるものか……」


 しかし、その報告の内容に誇張や虚偽は感じられなかった。むしろ、冷静かつ具体的な観察に基づいた記述だった。


 クレーメンスはしばし無言で考え込んだ後、報告書の表紙に小さく赤い印をつける。それは、**“王族への提出検討対象”**を意味する特別な記号。


「この子……本当に九歳か?」


 ぽつりと、誰にともなく呟いたその声は、まるで未来を見据えるかのように淡々としていた。

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