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始まりの時、新たな養鶏農家との契約

 青空市の片隅、出荷を終えた荷車が通りを抜ける中、リリスは市場の裏手にある簡易な休憩所を訪れていた。今日は視察も兼ねていたが、彼女の目当ては別にある。


「……あ、来てくれてたんですね」


 リリスが声をかけた先には、二人の農夫が腰を下ろしていた。ハーブ農家として名の知れた中年の夫妻――ラヴィオ夫妻だった。彼らは、以前リリスに「空いた土地の活用法」について相談を持ちかけていた相手でもある。


「どうも、ラヴェンダー様。今日はまたずいぶんお若いお客人が」


 ごく自然な笑顔を浮かべてラヴィオが立ち上がり、妻のマリナも後ろでぺこりと頭を下げた。リリスも深く礼を返す。


「お約束通り、お話しできる機会をいただけて嬉しいです。……空き地の活用、お考えはまとまりましたか?」


「ええ……ただ、正直なところ、まだ迷ってましてね。畑にしても土が痩せ気味だし、果樹は時間がかかる。それなら、と思ったのが“何かを飼う”って方向なんですが……」


 言葉を濁しつつも、どこか期待するようなまなざし。リリスはすかさずその意図を察し、小さく頷いた。


「鶏はいかがでしょう?」


「……やっぱり、そうきましたか」


 ラヴィオが苦笑した。どうやら、ある程度の予想はしていたらしい。


「うちの実家で試験的に始めたところ、飼育も安定していて卵の質も上々でした。それで、今後の拡大を見据えて、別の農家さんとも契約していけたらと考えているんです」


「ふむ……うちはもともとハーブ栽培が主で、匂いの強い植物が敷地に多くてな。鶏に悪影響は?」


「はい、匂いの強すぎる環境や植物は避けた方がいいですが、空いた畑の一画や裏手の斜面なら、問題ないかと思います。日当たりや風通しも良好ですし」


 そう補足したのは、背後に控えていたアイシャだった。彼女は手に一冊の小冊子――リリスが作成した養鶏マニュアルを持っていた。


「こちらがそのマニュアルです。餌の量や日々の世話、掃除の頻度、それと気温管理や病気の予防についても書いてあります」


「これだけあれば、だいたいの流れは掴めそうですね」


 ラヴィオがページをめくり、妻のマリナと一緒に覗き込む。読み進めるうちに、二人の表情が少しずつ変わっていった。


「最初は……どれくらいの規模から始めるのがいいのかしら?」


「十羽程度からがよいかと思います。餌代や初期投資も抑えられますし、育成状況を見ながら少しずつ増やすことも可能です」


「なるほど……十羽なら、ちょうどあの倉庫の裏を整備すれば足りますね」


 マリナが小さく頷いた。リリスは、にこりと微笑む。


「もちろん、完全に軌道に乗るまではこちらも定期的に様子を見に伺います。導入がうまくいけば、次に繋がる事例にもなりますし」


「リリス様……いや、ほんとにお嬢さんなのに、しっかりしていらっしゃる」


 ラヴィオが思わず感心したように呟いた。それに照れたように笑いつつ、リリスはそっと目線を落とす。


「私自身、農家の皆さんに支えられてきましたから。少しでも、お返しできたらと思ってます」


 その言葉には、領民と共に歩んできた少女なりの誇りが滲んでいた。


 それから数日後、ラヴィオ夫妻の農園の一角では、新たな設備の準備が始まっていた。かつて物置として使われていた小屋が、今では鶏舎として整備されつつある。


「扉の留め具はこれで大丈夫かね?」


「ええ。風通しも悪くないですし、外敵も入りにくそうです」


 現場を確認するアイシャの表情は真剣だった。彼女はマニュアルに基づいて、必要な改修点を細かく伝え、農家の人々と協力して作業を進めている。


「この囲い、見た目より頑丈ね。これならイタチも簡単には入れないわ」


 マリナも手に工具を持ちながら微笑み、少し誇らしげに仕上がりを見渡した。周囲には、倉庫裏の使われていなかった土地を整地して作った簡易な鶏の運動場も整っていた。


 そこへリリスが視察に訪れ、木陰の道を歩きながら嬉しそうに声を上げた。


「すごい……もうここまで整ってるんですね!」


「ええ、おかげさまで。うちの若い衆も張り切ってましてね。なんでも、“リリス様のプロジェクトに参加できるなんて光栄”なんだとか」


「そ、そんな……私はただ、鶏を育てたい人がいたらいいなって思っただけですから」


 照れたように笑いながらも、リリスの胸の奥には確かな実感が宿っていた。彼女の提案が、こうして誰かの生活と土地を動かし始めている――そのことが、何よりも嬉しかった。


「……でも本当に、これからですよね。ちゃんと育てられるか、卵が産まれるか、買ってくれる人がいるか……」


「そのための“仕組み”を作っていくんでしょう? あんたが前に言ってた、買い取り制度ってやつ」


「はい。一定の品質基準を満たした卵であれば、商会が責任を持って買い取ります。それによって農家の皆さんが安心して飼育に取り組めるようにしたいんです」


 リリスの声には、どこまでも現実を見据えた確信があった。ただの理想ではなく、実行可能な計画として提示された言葉。それは、長年この土地で生きてきたラヴィオ夫妻にとっても、確かな信頼を感じさせるに足るものだった。


「それなら……うちも本気で取り組まんとな。下手な野菜作るより、鶏の方がずっと可能性あるかもしれん」


「ねえ、ラヴィ。名前はどうする? せっかくなら、可愛いのがいいわよ」


「マリナ、まさか全部に名前つける気じゃないだろうな?」


 夫婦のやり取りに、リリスもアイシャも思わず笑った。だがその笑いの中には、緊張の糸が少しほどけたような、確かなあたたかさが流れていた。


 鶏舎の整備が一段落すると、次に始まったのは雛の迎え入れだった。市で契約している飼育業者から、選別された健康な若鶏が届けられ、ラヴィオ夫妻とその手伝いの青年たちは、マニュアル通りに給餌と清掃を開始する。


「餌は朝と夕方の二回、量はこの線まで。水も一日三回は替えてあげてね」


 リリスが作成した飼育手引きは、子供でも理解できるよう図解されており、実際に現場で使うには十分な実用性があった。アイシャが定期的に巡回し、衛生状態や鶏の様子をチェックして記録を取っている。


「この餌、少し香りがするわね。ハーブ?」


「はい。前に相談していた“虫除けになる混ぜ飼料”です。ローズマリーとタイムを少しだけ配合してます」


「うちのハーブが役に立つなんて……なんだか不思議ねぇ」


 マリナが目を細めると、傍らの鶏が「コッコ」と鳴いて跳ねた。その声が妙に誇らしげに聞こえて、皆が笑顔になる。


 卵の産卵はまだ先だが、鶏たちの健康状態は上々だった。導入直後に心配された疫病やストレスによる食欲不振もなく、餌もよく食べ、動きも活発だ。


「これなら、最初の産卵も順調にいきそうね」


「そうだといいんですが……卵の質が、やっぱり気になるんです」


「でも、うちのハーブ畑と違って、鶏舎は全部マニュアルで管理してるでしょ? 同じ条件なら、品質も揃ってくるはずよ」


「……そうか。条件を統一すれば、結果も安定しやすいんですね」


 リリスの中で、頭の中の図がまたひとつ繋がった気がした。野菜と違い、鶏卵は“環境管理”さえしっかりしていれば、より安定した品質で量を確保できる。その強みに今さらながら気づいたのだ。


 小さな鶏舎の中には、未来の希望が跳ね回っていた。


 最初の卵が産まれたのは、導入からちょうど三週間後の朝だった。


 鶏舎の奥で、白く丸い卵が二つ、藁の上にちょこんと並んでいた。それを見つけたマリナは、思わず大きな声を上げた。


「産まれてる……! 本当に、うちで卵が……!」


 興奮気味に小さな籠へ移し、手早く運んできたマリナの手元を、アイシャが丁寧に検分する。


「殻に汚れもなく、形も良好です。標準的なサイズよりやや小さめですが、初産としては上出来かと」


 鶏舎の脇には簡易の検査台が設置されており、そこで卵の重さ・殻の強度・汚れの有無などを確認してから、出荷の可否が判断される仕組みだ。


「それ、全部記録しなきゃいけないの?」


「はい。“品質のばらつきを把握するため”でもありますから。最初は大変ですが、慣れればすぐに終わりますよ」


 マリナが苦笑する横で、リリスが手帳を開いて記録方法の工夫を説明する。


「すべてを詳細に書き込むのではなく、“不良品が出たときだけ詳細記録”にすれば、負担は減ります。平均値だけ記録しておけば十分な場面もありますから」


「さすがお嬢様……ぬかりないわねぇ」


 マリナの言葉に、リリスはにっこりと笑った。


 その日の午後、採れたばかりの卵は他の食材とともに、市場の検品所へと運ばれた。まだ数量は少ないが、品質確認と出荷基準の調整を兼ねての“お披露目”だ。


 検品所では、使用人のシェリルが受け取りを担当していた。リリスの指示で設置されたこの施設では、リリスの作った基準表に基づいて“ラヴェンダー印”を押すかどうかが判断される。


「このサイズなら、B等級扱いですかね? でも殻が綺麗で揃ってるのは好印象です」


「初回ですから、品質よりも“育て方が正しいか”の確認を優先で」


「了解です。記録はちゃんと残しておきます」


 リリスが指差す表に従い、等級分けされた卵にはそれぞれ、刻印用のスタンプが押される。小さな鶏の羽根を模したマークが、それぞれの殻に印されていった。


「これが、“この領地の卵”という証になるんだなぁ……」


 検品の様子を見ていたマリナの夫が、感慨深げに呟いた。リリスは静かに頷く。


「そうです。このマークが、あなた方が手間をかけた証明になるように。だからこそ、検品は厳しく、でも公平に行います」


 その言葉に、マリナ夫妻は真剣な面持ちで頷いた。努力の証が、確かな信頼となって広がっていくことを、二人とも肌で感じていた。


 その日の夕刻、リリスは養鶏農家に向けて、改めて説明会を開いた。


 場所は村の集会所。市場での卵の出荷に初挑戦したばかりの農家たちが、少し緊張した面持ちで集まっていた。


「まずは、今日までの取り組みに感謝いたします。皆さんの努力で、良質な卵が育ちました」


 リリスが丁寧に一礼すると、小さな拍手が起きる。農家たちは誇らしげというより、少し照れくさそうに笑っていた。


「今回のような品質検査を経た卵は、“等級ごとに価格を設定して買取る”仕組みを導入します。これは、皆さんの努力がしっかりと収入に結びつくようにするための制度です」


 静まり返った会場に、思わずざわめきが走った。


「等級……ってことは、ちゃんと値段がつくってことかい?」


「ええ。一定の品質を満たせば、“最低価格”での買取が保証されます。さらに、高品質な卵は“上乗せ価格”での評価も検討しています」


 リリスの言葉に、何人かの農家が目を見張った。これまでの農業では“売れるかどうか”がすべてであり、余れば損、値がつかないことも珍しくなかったからだ。


「……それなら、安心して取り組めるかもしれませんね。余ったらどうしよう、って不安があったんで……」


「それはよくわかります。でも、この制度なら“努力に見合う形で”還元できるはずです」


 リリスの後ろで控えていたアイシャが、補足するように一歩前へ出る。


「もちろん、制度の維持には限界がありますので、極端に過剰な生産が出た場合は相談させていただきますが、基本的には“市場でさばけなかった分も最低価格で引き取る”形になります」


 それを聞いて、安堵の表情を浮かべる農家が何人もいた。


 リリスは配布した一覧表を掲げながら説明を続けた。各等級ごとの目安、検品項目、そして価格帯。全てが明文化されており、透明性を重視した設計だ。


「すごいわね、まるで……大きな商会みたい」


 思わず口にした一人の農家の妻の言葉に、他の者たちも頷いた。


 だがその瞬間、リリスは小さく首を横に振った。


「違います。“これは皆さんの商売”です。私はそのお手伝いをしているに過ぎません」


 その澄んだ瞳に、誰もが一瞬息を飲んだ。


「この村で生まれた卵が、“この領地の誇り”になりますように」


 リリスの声に導かれるように、農家たちはゆっくりと立ち上がる。


「……よし、次はもっといい卵を目指してみっか」


「うちの子にも手伝ってもらって、毎朝チェックさせようかね」


 笑い声が広がり、空気が一気に温かくなる。リリスはそれを見届けながら、静かに立ち上がった。


「制度は今日から正式に始まります。それでは、皆さま――よろしくお願いいたします」


 そして再び深く頭を下げた少女の姿に、誰もが自然と頭を下げ返していた。



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