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リナとリリス、台所で語る将来

 市場での出店を終え、夕暮れ前の屋敷に戻ったリリスは、エプロンに着替えて静かな台所へ足を踏み入れた。

 屋敷内はまだ慌ただしい時間帯だったが、ちょうど弟妹のお昼寝から目覚めるころで、アイシャはそちらの世話に回っていた。おかげで、この時間の台所は珍しくひと気がなく、まるで物語の舞台裏にでも迷い込んだような静けさに包まれていた。


 リリスは作業台の上に置かれたカゴに目をやり、そっと笑みを浮かべた。そこには、今日の市で使わなかった焼き菓子がいくつか並べられている。リナがこっそり残しておいてくれたのだろう。弟のルーファスと妹のルシェルが、目を覚ましたあとに喜ぶ顔が目に浮かぶ。


「ふふ、あの子たちのための“おみやげ”ね。冷めないうちに準備しなくちゃ」


 鍋に手をかけ、火加減を確かめたときだった。背後の扉が軽くきしみ、エプロン姿のリナが現れる。


「ただいま、リリス。ちょっとだけ裏のハーブ畑、見てきてた」


「おかえりなさい、リナさん。……ちょうど静かで、今が一番いい時間かも」


 リナは笑いながら手を洗い、鍋の中を覗き込んだ。香り立つスープに、満足そうに頷く。


「今日も、よく働いたね」


「ふふ、まだ“明日”の仕込みが残ってるけどね」


 リリスが肩をすくめて返すと、リナも「確かに」と微笑む。二人だけの時間は、仕事を終えた静かなご褒美のようだった。


 しばらくして、リリスがふと思い出したように口を開いた。


「ねえ、リナさん。今日の市でね、小さな男の子がひよこに“タマちゃん”って名前をつけてたの」


「……ああ、そういうの、いいね。名前をつけると、一気に“家族”って感じになるもんね」


「そうなの。“育てる”って、すごく身近なことなんだなって、改めて思ったわ」


 湯気の立ち上る鍋の前で、二人の笑顔がやわらかく重なる。

 台所には、あたたかい食卓の予感と、小さな命を育む静かな喜びが漂っていた。


 スープをかき混ぜる音だけが、台所の空間にやさしく響いていた。リナは木杓子を動かしながら、ぽつりと声を漏らす。


「ねえ、リリス。……ちょっと変な話してもいい?」


「もちろん、何でもどうぞ」


 隣で椅子に座っていたリリスが、真剣なまなざしで頷く。リナはしばらく黙ったまま湯気を見つめていたが、やがて小さな声で語り始めた。


「……最近、たまに夢を見るの。ぼんやりしてて、はっきりとは思い出せないんだけど。すごく貧しくて、寒い場所で、誰かにパンを配ってるの。小さな子供たちに……私が作ったパンを渡してて、みんな、本当に嬉しそうに笑ってた」


「……夢、なんですか?」


「うん、たぶん夢。目が覚めると、よくわからなくなってるし。でもね、何だか“懐かしい”って気持ちだけが残るの。不思議だよね」


 リナは笑おうとしたが、その表情には戸惑いも混ざっていた。自分でも説明できないその記憶のような感覚が、時折彼女を揺らしているのだろう。


「……でも、その夢の中でね。私、自分が作ったものが、誰かの命をつないでるのを見て……それがすごく嬉しかったの。ああ、これが“生きる”ってことなんだ、って」


 リリスは言葉を探すように一度目を伏せ、やがてそっとリナを見上げた。


「リナさんの作るご飯は、今でもたくさんの人を支えてるわ。お腹だけじゃなくて、心も満たしてる。……私は、それに何度も救われたもの」


 リナの目が、ゆっくりと見開かれる。


「私、前は……何か大事なことを忘れてる気がして、不安になることがあった。でも、リナさんのご飯があったから、一歩踏み出せた。自信がなかった時も、“この味があるから大丈夫”って思えたの」


「……リリス」


 リナが木杓子を置き、両手をそっと鍋のふちに添えた。彼女の背筋には、いつものように張りつめた緊張ではなく、どこかあたたかなものが宿っていた。


「それが夢でも現実でも、きっとリナさんの中にある“想い”なんだと思います。人を支えたいっていう、やさしい気持ちが」


 リナはしばらく何も言わず、スープの湯気越しに微笑んだ。


「ありがとう、リリス。……なんか少しだけ、楽になった気がするよ」


 静かな台所の中、二人のあいだに流れる時間は、やわらかく、深いものだった。


 リナが鍋の火を弱め、静かに蓋をすると、リリスはその隣の席に腰を下ろした。少しだけ窓の外に視線を向けた後、ぽつりと呟くように言葉を継ぐ。


「リナさん、私……最近よく考えるの。このまま私たちのやっていることが、誰かの暮らしの“当たり前”になっていったらって」


「“当たり前”って……たとえば?」


「たとえば、家庭で鶏を飼って卵を取ること。少しの手間で、食卓が豊かになるって知ってもらえたら、それだけで違うと思うの」


 リナは少し目を見張った。


「確かに、卵があるだけで料理の幅も味も変わるもんね。栄養だってあって……。でも、それって結構大変じゃない?」


「最初はね。でも、私たちが方法を伝えて、少しずつ“育てる人”が増えていけば……その人たちがまた、誰かに伝えてくれると思うの」


「なるほど、それが“当たり前”になるってことか」


「そう。私たちだけじゃ広げられない。でも、種を蒔いて育ててくれる人がいれば、それはきっと繋がっていく」


 リリスの手が、自分の膝の上で静かに握られていた。その目には、不安ではなく、はっきりとした希望の光が宿っている。


「それってもう……小さな革命だね」


 リナが笑みを浮かべると、リリスもふっと表情をゆるめた。


「うん、でも“無理なく、日常の延長で”ってことを大事にしたいの。特別なことじゃなくて、少しだけ変えることで暮らしがよくなる――そんな変化」


「……それが一番すごいことだと思う。身近なものを変える力って、ほんとに強い」


 その言葉に、リリスも頷いた。


「私ね、どこか遠くに行くような夢は、まだ持っていないの。でも、“隣の家の食卓がちょっと笑顔になる”くらいのことなら、今すぐにも始められるって思うの」


「その想い、ちゃんと届いてると思うよ。今日のお母さんたちの反応、聞いてるだけで伝わってきたもん」


「うん……“これならやってみたい”って、あの一言が本当にうれしかった」


 テーブルの上には、今夜のためにリナが仕込んでおいたスープの鍋。そこから立ち上る湯気は、まるでふたりの未来を優しく包み込むようだった。


 湯気の立つスープ鍋の前で、リリスが味見の木匙を軽く振った。火加減を落とし、少し冷ますための仕上げに入ったところで、リナがそっと声をかける。



 「ねえ、リリス。……私、この家に来られて、ほんとによかったって思ってるの」


 その声音には、どこか懐かしさを帯びた優しさがあった。


 「最初は、自分にできることが何かも分からなくて。でも、台所で、食べる人の顔を想像しながら仕込みをしてると……不思議と、前に進める気がしてくるんだ」


 リリスは、静かにうなずいた。


 「リナさんが作ってくれるごはんが、たくさんの人の笑顔に繋がってるもの。私……いつも背中を押されてる。今日だって、そうだったわ」


 微笑み合う二人の間に、特別な空気が流れる。


 「この台所って、未来の話をしてもいい場所なんだね」


 リナがそっと呟いた言葉に、リリスもまた頷いた。


 「そうね。夢を口にできる場所。そして、誰かの夢を“かたち”に変えていく場所でもあるわ」

 ランプの火が、ゆらりと揺れた。


 リリスがそっと鍋の火を落とし、ため息まじりに呟いた。


「……さて、そろそろスープを冷ましておかないと」


 湯気の立ち上る鍋の蓋を少しずらしながら、リリスが真剣な眼差しをスープに落とす。その隣で、リナがふっと優しく笑った。


「この味が、どこかで誰かの明日になるかもね」


 ぽつりと落とされたその言葉には、特別な意味がこもっていた。厨房の片隅、火の消えたかまどの余熱がほんのりと部屋を包む。


「今日も、リナさんと話せてよかった」


 リリスが小さく呟くと、リナは静かに頷く。


「私も。……ありがとう、リリス」


 二人のあいだに言葉は少なく、それでいて伝わるものは多かった。互いの歩みが、少しずつ、確かなものになっていく。たった一つのスープ、焼き菓子の甘い香り、今日交わされた数々の言葉。そのすべてが、この夜の台所に、温かな灯として残っていた。


 窓の外では、沈みかけた夕陽がわずかに残光を投げかけている。かすかな風に揺れるカーテンの向こう、ラヴェンダー子爵家の一日は静かに、しかし確かな手応えと共に、締めくくられようとしていた。


 リリスはもう一度、鍋の中を見つめる。そして、ぽつりと――。


「……あの子たちの未来のために、私たちが“今”を整えていくのね」


 その言葉に応えるように、かすかな風がカーテンを揺らし、台所の灯がふわりと揺れる。静かで、あたたかな夜が、ゆっくりと幕を下ろしていくのだった。


 静かな台所には、ほんのりとスープの香りが漂っていた。

 リリスは鍋の火を落としながら、そっと手を止める。


「そろそろ、あの子たちもこっちに来る頃かしら」


 お昼寝から目を覚ましたルーファスとルシェルの面倒を見に行っていたアイシャが、そろそろ二人を連れて戻ってくる時間だ。

 リリスは鍋の蓋をゆっくりと閉じ、手近な布巾で取っ手を拭いた。


「冷めないうちに、器によそっておきましょうか。焼き菓子も……」


 そう呟いて、リリスは食器棚の下段から布に包まれた包みを取り出した。

 それは、今日の市で売れ残ったものではない。弟たちのために、あえて残しておいた焼き菓子だ。


「“ちゃんと今日もがんばったね”って、味で伝わるように」


 誰に聞かせるでもなく、リリスはぽつりと呟いた。

 火が落ちた台所には、まだ少しだけ、夕暮れ前の柔らかな光が差し込んでいた。


 その灯りの中、リナも黙って器を整えていた。

 ただ食事を用意する場所ではない。“明日”を形にする台所。

 リナが、そしてリリスが、それぞれの手で育んできた未来の一端が、今ここにある。


「この味が、どこかで誰かの明日になるかもしれないわね」


 リナの言葉に、リリスは微笑んで頷いた。


「……あの子たちの未来のために、私たちが“今”を整えていくのね」


 その言葉とともに、鍋の中でスープがふつりと小さく鳴った。

 夕暮れの台所に、静かで温かな一日が閉じていく。

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