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友達って、なんですか?

 朝の空気には、ほんの少しだけ秋の気配が混じっていた。ラヴェンダー子爵家の中庭では、使用人たちが朝の支度に追われていたが、空気はどこかのんびりしていて、リリスもようやく気の抜けた表情でハーブティーを啜っていた。


「ふう……昨日の返事、無事に届いたかしら」


 窓際で朝日を受けながら、リリスがぽつりと呟く。向かいに立つアイシャは、小さく微笑んで頷いた。


「従者の方はとても丁寧な方でしたから、大丈夫かと。ただ、どのような返答があるかは……」


 そこまで言ったところで、玄関から慌ただしい足音が響いた。


 間もなく、執事が顔色を変えて入室し、恭しく頭を下げる。


「お嬢様、急ぎのご報告がございます。ヴェルヴェーヌ伯爵家より、本日はお返事を受け取りに使者が来られております……が」


「が?」


「……その、お嬢様ご本人が、共に同行されております」


 瞬間、室内の空気が凍った。


「え……本人って、エレオノーラ様が……?」


 椅子から立ち上がりかけたリリスが目を丸くする。アイシャは一歩前へ出て、淡々とした口調で確認した。


「お間違いありませんか?」


「はい、確かに。先ほど門番より報せが……現在は応接室ではなく、控えの間にご案内しております」


 リリスは数秒沈黙した。エレオノーラの行動が、また常識の外側を滑ってくる。返答だけなら使者で済むはず。それを、本人が来るなど――まるで、何かを“確かめに”来るかのように。


 ……心の中に、微かな予感とともに、警戒の色が差した。


 けれど、だからこそ。


「……お迎えしなくちゃ。アイシャ、準備をお願い」


「はい。念のため、茶の間の整備も指示しておきます」


 アイシャは一礼し、背筋を伸ばして出ていった。リリスも立ち上がり、ゆっくりと身なりを整える。特別な装いではなく、家庭用の清楚なワンピース。けれど、背筋には一本、芯が通っていた。


 


 控えの間に通されたエレオノーラは、変わらず完璧に整った姿をしていた。ブルーグレイの上着に白いレースのインナードレス。髪には小さな宝石の留め具があしらわれ、いかにも“貴族令嬢”としての品格をまとっていた。


 しかし、その表情はどこか緊張に満ちている。あの日の、お茶会での余裕とは違う。


 その隣には、年配の女性従者がひとり。おそらく、母代わりに同行してきたのだろう。エレオノーラは、視線をそっとリリスに向けた。


「……突然の訪問、ごめんなさい。驚かせてしまったでしょう?」


「正直、少し驚きました。でも……こうして来ていただけたこと、とても嬉しく思います」


 微笑みを浮かべながらも、リリスの声は揺るがなかった。エレオノーラはわずかに目を細め、唇に笑みを浮かべた――けれど、その瞳には、どこか探るような光が宿っていた。


 案内された茶の間は、いかにも“田舎の貴族の家”らしい、素朴で温かな雰囲気だった。


 壁には花をモチーフにした刺繍の飾りがかかり、窓際の小瓶には庭で摘んだばかりの花が活けられている。どれも飾り気はないが、丁寧な暮らしぶりがにじんでいた。


 家具も年季が入っていたが、磨き込まれた木の艶がやさしく光を反射している。そこに座ったエレオノーラは、まるで見知らぬ国に迷い込んだような顔をしていた。


「こちらでよろしければ。普段使いの部屋だけれど……」


 リリスは率直に言った。嘘はつかない――ここは客間ではなく、家族が日々を過ごす場所だ。


「ええ、大丈夫。むしろ……新鮮だわ」


 エレオノーラは少しだけ戸惑いながらも、整った姿勢で椅子に腰掛けた。その隣には年配の女性従者が控えていたが、あくまで黙して見守っている。


 やがてアイシャがハーブティーを運び、落ち着いた手つきで二人に注いでいく。カップの中から立ちのぼる香りは、どこか懐かしさを誘う柔らかな甘さを含んでいた。


「庭で採れたミントとカモミールをブレンドしています。胃にやさしく、少しだけ蜂蜜も入れてあります」


「……すてきな香り」


 エレオノーラがカップを両手で包むように持ち、そっと口をつける。


 そこへ、別の小さな皿がそっと置かれた。布に包まれていた中身が、ひとつひとつ、リリスの手で静かに並べられていく。


 見た目はごく素朴な焼き菓子だった。小麦粉と卵、少量のオリゴ糖とミルクで練ったものを、鉄板で焼き上げた小さな丸型のケーキ。ほんのりと表面がきつね色に色づいていて、ひとつ割れば、内側には手作りのジャムが挟まっている。


「……これ、手作り?」


「うん。リナと作ったの。今日のおやつに……」


 リリスはそこで言葉を濁した。けれど、内心ではちょっとだけ複雑な気持ちが渦巻いている。


(ほんとは……今日の弟妹のおやつにするつもりだったのになあ……!)


 今ごろルーファスとルシェルが「あのおやつまだー?」なんて言ってるかもしれない。それを思うと少し胸が痛むが――だからって、このお茶会で出すのを惜しむほどケチではない。


「気に入ってもらえるといいんだけど」


 エレオノーラは一つ手に取り、恐る恐る口に運んだ。カリッと焼き目の音がして、そこからふんわりとした甘みと、手作りジャムの酸味が広がる。


「……おいしい。なんだか、落ち着く味」


 その言葉に、リリスは少し照れくさそうに微笑んだ。


「保存もできるように考えて作ったの。余ったら干して、小さく刻んでパンがわりにしたり、スープに入れたりできるようにしてあるの」


「……それ、本当に商人の発想よね」


 苦笑とも、感心ともつかない声で呟いたエレオノーラは、また一つ菓子を口に運んだ。


「でも、なんだか不思議。王都の菓子はもっと凝っているし、綺麗なのに……これは全然違うのに、なんだか安心する」


「たぶん、“家の味”だからかな。リナがね、前に言ってたの。“おいしいって記憶の中にある感情なんだよ”って」


 それは、前世の感覚を引き継いだリナならではの言葉だった。リリスも、最近ようやくその意味が少しわかってきた気がする。


「……家の味、か」


 エレオノーラがもう一つ菓子を取りながら、ぽつりと呟いた。そこには、どこか懐かしさを覚えるような寂しさが滲んでいた。


 あたたかな空気に包まれていた茶の間に、ふいに沈黙が訪れた。


 ハーブティーの香りが穏やかに広がる中、エレオノーラは焼き菓子をもう一つ手に取った。けれど、それを口に運ぶことなく、視線を落としたまま呟く。


「……ねえ、リリス」


 静かな声だった。けれど、確かに何かを探るような気配が混じっている。


「はい?」


「この間のこと――少しだけ、聞いてもいいかしら?」


 リリスは一瞬だけ思案したが、すぐにうなずいた。


「もちろん」


 エレオノーラは、焼き菓子をそっと皿に戻し、カップに目を落とす。声は柔らかいのに、その奥にあるのは揺れる気持ちだと、リリスにはすぐにわかった。


「……わたし、あの日あなたに頼んだこと、本気だったの」


「ええ。それは伝わってきました」


「それなら……今、どう思ってるの?」


 その問いは、遠回しのようでいて、核心を突いていた。


 リリスはそっとカップを置いた。そして、いつものように丁寧な口調で、けれど迷いなく言った。


「――申し訳ありません。お引き受けすることはできません」


 その一言に、エレオノーラのまぶたがかすかに震えた。


「……そう。やっぱり」


 微かな笑みを浮かべようとしたが、うまくいかなかったのか、彼女はすぐに目を伏せた。


「理由を、聞いてもいい?」


「はい。わたしには、この子爵領でやらなければいけないことがたくさんあります。市場も回り始めたばかりですし、養鶏や商品の試作も、まだ途中です」


「……そっか。やることが、あるのね」


「はい。それに、わたしは“誰かのもとで働く”というより、“誰かと一緒に支え合う”形を選びたいと思ってるんです」


「“支え合う”……」


 繰り返すように呟いたエレオノーラの表情に、確かな動揺の色が差した。


 リリスは、気づいていた。それでも、言葉を曲げることはできなかった。


「……そのためには、今の立場で、できることを一つひとつやっていくのが、わたしにとって一番大事なことなんです」


「……そっか。ありがとう」


 そう言ったエレオノーラの笑顔は、ほんの一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。


 エレオノーラの視線は、テーブルの上に落ちたままだった。


 先ほどまでの穏やかな空気はどこかに消えて、彼女の周囲には、言葉にできない感情のざわめきが漂っていた。


 リリスは黙って待っていた。相手が何を考えているのか、今どう感じているのか、無理に聞き出すようなことはしない。ただ、その場に静かに立っている。


「……ねえ、リリス」


 しばらくして、エレオノーラが口を開いた。


「“支え合いたい”って言ってたけど……わたしとは、それができないって思ってるの?」


 その声音には、痛みがにじんでいた。


 リリスはすぐには答えなかった。けれど、視線をそらさず、丁寧に言葉を探す。


「そういう意味では、ありません。でも……あなたがわたしに期待しているのは、“助け”じゃなくて、“従うこと”のように感じたんです」


「……っ」


 エレオノーラの目が見開かれた。


「そんな……そんなつもりじゃ――」


 震える声が漏れる。けれど、その続きを言う前に、彼女は自分の中に渦巻いていた感情が、一気に噴き出していくのを止められなかった。


「じゃあ……じゃあ、わたしが間違ってたって言うの!?」


「間違いだったとは思っていません。あなたの申し出は、とても誠実で、ありがたいものでした」


「だったら、なんで……っ、どうして……わたしじゃダメなの!?」


 テーブルが揺れるほどの勢いで、エレオノーラが立ち上がる。


「あなたは、私を拒絶したのよ!? わたしは、本気であなたに来てほしいと思ったのに!」


 胸の奥に溜まっていた言葉が、形を成していく。それはもう“誇り高い伯爵令嬢”のものではなかった。むしろ、ただの“ひとりの少女”としての叫びだった。


 リリスは、ゆっくりと立ち上がり、正面からその怒りと哀しみを受け止める。


「わたしは、あなたを嫌いになったわけじゃありません。むしろ……すごい人だと思っています」


「だったら、どうして――!」


「でも、すごいからこそ、わたしは“従いたくない”んです。あなたが間違っているとは思わない。でも、あなたの“正しさ”の中で生きていくことが、わたしの道だとは思えません」


 言い終えた後も、茶の間にはしばらく沈黙が落ちた。


 その静けさは、どちらのものでもない。

 けれど、そこにある空気は、もうさっきまでの“穏やかなお茶会”ではなかった。


 「……そんなの、友達だったら普通でしょ!」


 エレオノーラの声が、張り詰めた空気を突き破った。


 「わたしは今まで、お願いすればみんな頷いてくれた。贈り物を渡せば、皆が笑ってくれた。どんなに忙しくても、わたしのために時間を作ってくれた。――それって、“友達”じゃないの?」


 言葉の端には、混乱と怒り、そして何より――必死の否定が滲んでいた。


 リリスはその問いを、正面から受け止めた。


 「それは、あなたが“頼める立場”だったから。誰も逆らえなかっただけかもしれません」


 「違う! みんな、自分から笑ってくれてたのよ。楽しいって言ってくれた! わたし、あの子たちのために服も贈ったし、馬車も貸したし……!」


 「でも、あなたが間違っていたとき、それを“違う”と言ってくれた人はいましたか?」


 言葉が、ぴたりと止まった。


 「……」


 「自分の本音を言って、それで距離ができたとしても、それでも一緒にいたいと思える相手。わたしにとって、“友達”ってそういう存在です」


 「……だったら、わたしは間違ってたって言うの?」


 エレオノーラの瞳が揺れた。けれど、それは怒りではなく、初めて自分の常識が否定された戸惑いだった。


 「わたしは、あなたが間違ってたとも正しいとも思ってません。でも……あなたの“友達観”は、わたしとは違う」


 リリスはまっすぐに言い切る。


 「お願いすれば従ってくれる。笑えば皆が合わせてくれる。それを“友情”だと思っていたなら、それは“上下の関係”であって、“対等な関係”じゃない」


 エレオノーラは、拳を握りしめた。机の上のカップが、かすかに揺れる。


 「そんなの、言われなくちゃ気づけないじゃない……!」


 「うん。だから、わたしが言いました」


 「……!」


 「もし、わたしがあなたの“初めてNOを言った友達”になるなら――それは、悪くないと思ってます」


 しばらく沈黙が落ちる。


 エレオノーラは、まるで息の仕方を忘れたかのように黙り込み、視線をそらしたまま、わずかに肩を揺らした。


 「……そんな、ずるい言い方……」


 「ずるいのは、あなたの方ですよ。地位で囲った“友達”を揃えて、“選ばれたくせに断るなんて”って顔をするんですから」


 「……」


 「あなたにお願いを断られたことは、ありますか?」


 「……ないわ」


 ようやく吐き出すように、エレオノーラが答えた。


 「みんな、わたしのことを“すごい”って言ってくれる。でも、本当は、何を考えてるかなんて、誰も話してくれなかった。わたしが怒れば謝って、わたしが黙れば笑って……。そういうのが、“当たり前”だって、思ってたのに」


 「それは、当たり前じゃない。わたしにとっては、むしろ一番遠い場所です」


 リリスの声には、淡い情熱が宿っていた。


 「だからこそ、“あなたとなら対等でいたい”って、そう思える瞬間が来たら――そのときは、“友達になりましょう”って、わたしから言いたいんです」


 エレオノーラは顔を伏せたまま、拳を強く握っていた。白い指先に力が入り、爪が手のひらに食い込んでいる。


 けれど、彼女はその手を開いた。


 そして、ゆっくりと息を吸い、少しだけ、目を上げた。


 「……まだ、よくわからないわ。でも、あなたが言った“友達”って言葉……ちょっとだけ、羨ましいって思った」


 それは、エレオノーラが初めて“認めた”瞬間だった。

 自分の中の常識が揺らぎ、それでも壊さずに受け止めようとする、少女の小さな変化。


 リリスはただ、にこりと微笑んだ。


 訪問の時間が終わりを告げたのは、誰の合図でもなく、ゆっくりとした立ち上がりだった。


 エレオノーラは、静かに椅子から身を起こし、スカートの裾を整える。その動作には、さっきまでの怒りや衝動は見られなかった。けれど、それと引き換えに、何かをかき消すような静けさがあった。


 「そろそろ、失礼するわ。お茶と、お菓子……とてもおいしかった」


 その言葉は、明らかに形式的なものではなかった。彼女の目が一度、焼き菓子の皿に向いたからだ。


 「ありがとう」

(……ほんとは今日の弟妹のおやつにするつもりだったけど。ま、いいか。今日だけは特別)


 リリスの軽い冗談に、エレオノーラの口元がほんのわずかに緩む。


 「……そう。じゃあ、もらえて光栄だったわ」


 立ち上がる彼女の背を、年配の従者が控えめに支える。帰り支度は手慣れたもので、外套の襟を直し、扇子をそっと手渡す所作まで、完璧に仕込まれていた。


 けれど、その完璧さが、今はほんの少しだけ居心地悪く見えた。


 エレオノーラは玄関へ向かうまでの短い廊下を、リリスと並んで歩いた。窓から差す昼の光が、二人の影を床に落とす。


 「リリス」


 足を止めたのは、玄関の前、扉に手がかかる直前だった。


 「……あなたの言葉、今日はきっと忘れられないと思う。すぐに理解できるかわからないけど……悔しかった。悔しくて、でも、あなたが言ったことは正しいとも思った」


 振り返ったエレオノーラの瞳には、まだ火が灯っていた。それは、さっきまでの怒りの炎ではなく、自分の中で燃え残る、問いの火種だった。


 「それなら、よかったです。わたしの言葉は、あなたのために選んだものじゃない。でも……“伝わってほしい”とは、心のどこかで思っていました」


 「ふふ、ほんとにずるいのよ、あなたは」


 もう何度目かの“ずるい”という言葉に、リリスも肩をすくめた。


 「そう言われるのも、慣れてきました」


 「……困ったわね、ますます興味が湧いてきた」


 扇子を口元にあてて、エレオノーラが軽く笑う。その微笑みは、どこか悔しげで、どこか誇らしげでもあった。


 やがて扉が開かれ、日差しの中へと彼女の姿が出ていく。従者が馬車を待たせていたのだろう、静かに礼をして先へ歩き出した。


 エレオノーラは、ほんの一瞬だけ足を止める。


 振り返った彼女と、リリスの視線が交差した。


 まるで、何かを預けるような――あるいは、託すような――その視線を受けて、リリスは小さくうなずいた。


 「また、いつでもお越しください。次は……“お友達”として」


 その言葉に、エレオノーラは返事をしなかった。けれど、扇子の影で口元がふっと緩んだのが、はっきりと見えた。


 馬車が音を立てて遠ざかる。


 その背中を、しばらくのあいだ、リリスはただ見送っていた。


 やがてその隣に、黒髪の侍女――アイシャが静かに並び立つ。


 「……無事に、お伝えできたようですね」


 「うん。言いたいことは、ちゃんと伝えられたと思う」


 「ですが、お気をつけください」


 「え?」


 「エレオノーラ様は、あれでいて意外と根に持つ方です。きっと、簡単には諦めませんよ」


 その言葉に、リリスは小さく肩をすくめた。


 「だったら、次は“本当の友達”になるために、もう一度勝負を挑まれるかもね」


 「そのときは、お覚悟を」


 アイシャが冗談めかして言うと、リリスは思わず笑った。


 「覚悟ぐらい、とっくにできてるよ。だって――」


 ふと、空を仰ぐ。


 夏が近づく青空に、雲がゆっくり流れていた。


 「わたし、この街で、“ちゃんと選ばれたい”から」

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