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届いた誘いと、少女の決意

 静かな馬車の車輪の音だけが、夜の街道に響いていた。

 お茶会の賑わいが嘘のように、車内には穏やかな沈黙が流れている。


 リリスは窓の外に流れる夜景をじっと見つめていた。王都郊外の舗装された石畳が、馬車の振動と共に遠ざかっていく。


 エレオノーラからの誘い――「私の専属侍女、もしくはメイドとして、そばにいてくれませんか?」

 その申し出は、丁寧で、誠実で、そして確かに“好意”に満ちていた。


 けれど。


 (わたしは……うん、もう決めてる)


 リリスは目を閉じて、静かに深呼吸をひとつ。

 即答を避けたのは、心が揺れていたからじゃない。ただ、自分の中の“言葉”がまだ整っていなかっただけだ。


 「……お答えは、もう決まっていらっしゃるのですね」


 向かいに座るアイシャが、ふと目を伏せて問いかけた。


 「ええ。行かない。わたしは“あの人のもの”じゃないし、“誰かのもの”になるつもりもない」


 はっきりとした口調だった。

 それでもアイシャは、リリスの言葉の奥にある慎重さを感じ取っていた。


 「でも……“好意”を踏みにじることだけはしたくなかったの」


 「……だから、“ちゃんと伝える”ために、保留にしたんですね」


 リリスはうなずいた。

 その瞳には、迷いではなく、まっすぐな意志の光が宿っている。


 (商人としての誇りも、家族も、この場所も、全部――自分で守りたい)


 少女の胸の中には、確かな“答え”がすでに根を張っていた。


 屋敷へ戻った夜――リリスは両親を小さな書斎に呼び出し、静かに事情を伝えた。


 「専属の侍女かメイドとして、エレオノーラ様のもとで働かないかと……お誘いを受けました」


 クラウスは一瞬言葉を失い、顔をしかめる。

 リシアは眉を上げ、娘の様子をじっと見つめた。


 「……それは、本気の申し出なのね?」


 「ええ。本気で言ってくださったと思います。でも――行くつもりはありません」


 リリスの返答は、はっきりとしていた。

 それでも、両親の表情には戸惑いとわずかな緊張が残る。


 「すぐに断らなかったのは……あの場で断れば、相手の気持ちを踏みにじることになると思ったから」


 リシアは静かに頷く。


 「それは、正しい判断だったわ。あの子……いえ、あの方は、遊びではなく、あなたを“本気で”迎えようとしていた。だからこそ、感情ではなく誠実な言葉が必要だったのね」


 リリスはうなずいた。


 「わたしは、今のままで十分幸せなの。子爵領のことを、もっと良くしたい。お父様やお母様が、少しでも楽になれるようにしたいし……」


 少しだけ、声が震えた。


 「ルーファスとルシェルに、胸を張って“お姉ちゃん”って言えるようになりたいの。ようやく、市だって回り始めた。わたしのやりたいことが、少しずつ、形になってきたのに――それを捨てたくない」


 リシアが、そっと手を差し伸べ、娘の手を包んだ。


 「ええ。あなたがここにいることを、私たちは誰より嬉しく思ってるわ」


 クラウスもまた、ため息混じりに微笑む。


 「……まったく。いつの間にか“守られる側”じゃなくなってるとはな。もう、お前は“選ぶ”ことができる年なんだな」


 それは、リリスの決意への誇らしさと、少しの寂しさを滲ませた父の言葉だった。


 屋敷の片隅にある、書き物用の小さな部屋。

 壁に立てかけたランプの明かりが、ノートの上に柔らかく影を落としている。


 リリスは、羽根ペンを手に、自分のノートを開いていた。

 市場の記録、取引した商人の名、反応が良かった商品、次に試したいアイデア。

 雑然とした文字の中に、彼女の時間と努力が詰まっている。


 (ここでやりたいこと、まだたくさんあるのに)


 ペン先が止まり、少しだけ、天井を見上げた。


 「向こうに行けば、きっと……色んな“チャンス”はあるんだろうな」


 ふと、昼間のことを思い出す。

 整った姿勢と気品ある言葉で、リリスの手を取ってきたエレオノーラ。

 その瞳は、まるで宝石のように揺れていた。


 (でも、それは“エレオノーラ様の世界”であって、わたしの世界じゃない)


 目を伏せて、静かに呟く。


 「わたしがしたいのは、“仕える”ことじゃない。“繋ぐ”ことなの」


 街と街、人と人、家族と未来。

 リリスの中にあるのは、もっと生活に根ざした、“誰かの助けになる仕事”だった。


 「アイシャも……リナさんも、あの子たちも。みんなが笑って暮らせる場所を、作っていきたい」


 再びペンを握り、ノートの端に一行、力強く書きつける。


 《商売は、誇り。家族は、宝。》


 夜は深まり、瞼がゆっくりと重くなる。

 ペンを持ったまま、こくり、とひとつ首が揺れて――リリスはそのまま、机に突っ伏した。


 まだ、子供の眠り。

 けれど、その胸には、確かな決意が宿っていた。


 「……こんなところで寝てしまっては風邪をひきますよ」


 肩を優しく揺らす声に、リリスは目をうっすらと開いた。

 ぼんやりとした視界の先に、黒髪の少女――アイシャがランプを手に立っていた。


 「あ……寝ちゃってた、のね……」


 頬をこすりながら体を起こすと、アイシャがさりげなく毛布を肩に掛けてくれる。

 書きかけのノートを見て、彼女はくすりと微笑んだ。


 「お返事は、やはり“行かない”で決まりましたか?」


 リリスはうなずいた。


 「うん。わたしには、やりたいことがあるから。ここでしか、できないことが」


 「……あの方のお気持ちを、無碍にしてもいいのですか?」


 アイシャの問いは優しいけれど、決して軽くはなかった。


 「ううん、無碍にはしない。ちゃんと伝える。……でもね、アイシャ。わたしが誰かに仕えるのは、“必要だから”じゃなくて、“一緒に歩きたい”って思えたときだけにしたいの」


 静かな口調で語るその言葉に、アイシャの瞳がわずかに揺れた。

 けれどすぐに、目を伏せて、いつもの従順な笑みを浮かべる。


 「……そのとき、私が選ばれるように、がんばりますね」


 「ふふ、競争相手が多そうだから、手を抜いちゃダメよ?」


 二人は小さく笑い合った。

 深夜の静けさの中、心の奥で交わされたやりとりは、まるで契約のように確かなものだった。


 翌朝。空はまだほんのりと朱に染まり、鳥たちのさえずりが庭の木々からこぼれ始めていた。


 リリスは、静かに身支度を整えると、書き物部屋の窓辺に腰を下ろした。

 淡い光の中、澄んだ空気を吸い込むように、深く息を吐く。


 (……今日は、返事をする日)


 胸の奥に、小さな緊張が生まれる。

 けれど、それを押し返すように、昨日までの想いがしっかりと心の真ん中に根を張っていた。


 「エレオノーラ様のこと、嫌いじゃない。むしろ、すごい人だって思う」


 小さく呟いた声は、自分自身に向けた確認だった。


 「でも、わたしは“憧れ”よりも、“現実”を選びたい。守りたいものがあるから」


 それは、まだ小さな手の中に握られた、“居場所”という名の灯火だった。


 食堂へ向かうと、クラウスもリシアもすでに席についていた。

 リリスの姿を見て、クラウスが口元を緩める。


 「決まったか?」


 リリスはこくんと頷く。


 「うん。今日、従者の方がまた来られるって聞いたから……ちゃんと返事をする」


 リシアが微笑んだ。


 「そう。あなたの言葉なら、きっと伝わるわ。堂々と、胸を張っていらっしゃい」


 リリスは「うん」と頷きながら、ふと笑みを浮かべた。


 「大丈夫。だって――“わたしがいる場所”は、ちゃんとここにあるから」


 朝の陽光が、窓の外から差し込み、リリスの銀の髪をやさしく照らしていた。

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