商会設立、信頼は帳簿に宿る
王都から戻って数日――ラヴェンダー子爵家では、朝から静かな緊張感が漂っていた。
応接室で一人帳簿を確認していたリリスは、小さく息をついて立ち上がる。
「……よし、今日は商業ギルドに行ってみましょう。いよいよ“ラヴェンダー商会”の正式登録ね」
横に控えていたアイシャが、一礼してそっと外套を差し出す。
「お供いたします、お嬢様。今日はギルド長が在席している日だと、先日確認済みです」
「ありがとう、アイシャ」
準備を整えたリリスたちは、馬車で町の中心にある商業ギルドへ向かう。
そして――
「……ええと、こちらが設立申請書になります」
受付で書類を提出すると、対応に出たのは年配の男性職員だった。書類に目を通した彼は、眉をわずかにひそめながらリリスたちに言った。
「ふむ……では、設立にはまず、預かり保証金として【金貨20枚相当】――こちらでは2,000ルアを納めていただく必要があります」
「に、にせん……っ」
思わず声を漏らしたのはルビーだった。付き添いとして同行していた彼女も、さすがにその金額には目を見張る。
「そんなに……簡単じゃない金額ね」
リリスも一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直して答えた。
「……はい。確かにすぐに用意できる額ではありません。でも、今後のためにもきちんと登録しておきたいんです」
その姿に、男性職員は「ほう」と目を細める。
「設立資金に不安があるなら、まずは仮登録扱いで、一定期間の信用実績を元に正式認可へと移行する制度もあります。ただし……」
彼は、リリスが抱えていた帳簿へ視線を向けた。
「もし、それが“信用に値する帳簿”であれば、の話ですが」
リリスは一礼し、そっと帳簿を差し出す。
「……どうぞ。これが、これまでの商いのすべてです」
帳簿を受け取った職員は、手慣れた様子でページをめくりはじめた。だが――
「……これは……」
しばらく無言で読み進めていた彼の目が、徐々に見開かれていく。記載された取引は日付ごとに分類され、収支の流れが簡易ながらも複式帳簿で整然と記録されていた。利益率、仕入れ先ごとの回転効率、さらには在庫と費用対効果の比較までもが計算されている。
「……これは、ただの商会の帳簿ではなく……もはや商都の大商会並みだ」
職員のつぶやきに、背後から帳簿を覗き込んでいたルビーも思わず口を開いた。
「ちょっと、なにこれ……リリス、本当に自分で全部つけてたの?」
リリスはこくりと頷く。
「はい。アイシャと一緒に、毎日欠かさず整理していました。帳簿が整っていないと、いつの間にか赤字になっていたり、何を仕入れて何が売れているのかも見えなくなってしまいますから」
職員は少しの間、帳簿を眺めたまま黙り込んでいたが、やがて、ふと目を細めた。
「……これは確かに、信用に足る記録です。帳簿の整備状況と、内容の分析力から見て、仮登録を認めましょう」
「本当ですか!?」
リリスの瞳が輝く。
「ただし――」
職員は声の調子を戻しつつ、にやりと笑った。
「この帳簿の“書き方”、当ギルドに伝授していただけるなら、多少の便宜は図って差し上げても構いません。もちろん、報酬は別途お支払いする形で」
その言葉に、ルビーは肩をすくめながら呟く。
「ねえリリス、もしかして――あんた、普通じゃないってこと、もうちょっと自覚した方がいいんじゃない?あと、その帳簿の付け方私も教えて欲しいわ。もちろん報酬も別途出す。」
それに対し、リリスは照れくさそうに微笑んだ。
「いえ、まだまだです。――でも、これが“第一歩”なんです」
未来へと続く、商人としての第一歩。
小さな帳簿が、少女にとっての信用状のように――確かに、その扉を開いた。
「仮登録の手続きには、いくつか書類が必要です。まずはこちらにご記入を――」
ギルド職員が差し出した用紙に、リリスは丁寧な筆致でペンを走らせた。屋号、代表者、所在地、主な取扱品目……そのすべてに迷いはない。
「屋号はリリス商会、代表者は私リリス・ラヴェンダーで所在地は別途事務所を借りるお金もまだ無いし子爵家にしておきましょう」
(これで……ラヴェンダー印の商会が、“正式に認められる”道が開けた)
「まさかとは思っていましたが、本当にラヴェンダー子爵家のご令嬢さまでしたか…」
職員もさすがに子爵令嬢が商会登録に来るとは思っていなかったらしい。
念の為お子様だと断られる可能性を加味してギルド長が居る日を狙ったがどうやら懸念で済んだようだ。
仮登録とはいえ、王都の商業ギルドで認可を得るのは並大抵のことではない。これまでは屋号もないまま、個人で取引をしていた。それが今日、この瞬間から――
「手続きは数日中に完了いたします。その間、ギルドから信用状を発行しておきましょう。王都内での小規模な仕入れや交渉には、これで充分対応できます」
「ありがとうございます」
リリスは深く一礼し、その紙片を受け取ると、そっと胸元にしまった。
「やったわね、リリス。ついに“商人”として認められたってことよ」
ルビーがにんまりと笑う。リリスも応じて微笑んだが、心の内はすでに次の段階へと向いていた。
(商会として認められたからには――)
市場の整備、販路の拡大、そして養鶏業の確立。村や町に“育てる仕事”を増やし、それを“売る場所”と“買いに来る人”で支える。
(そのためには……やっぱり“市”が必要)
月に数度でもいい。定期的に人が集まり、物が動く仕組みを作れば、ラヴェンダー家の子爵領は変わっていける。
「……帰ったらすぐ、父様に“市”の話をしなくちゃ」
リリスは、商人としての地図を手に入れた今、新たな戦場へと歩を進める。
ギルドの門を出た瞬間、日差しが一段と強く感じられた。
リリスは深く息を吸い込み、数歩進んだところで隣を歩くルビーに振り向いた。
「……やっぱり、“市”を開きたいわ」
「市?」ルビーが首をかしげる。「ああ、ああいう露店が並ぶやつ?」
「ううん、ただの露店じゃないの。“制度としての市”よ。領主の許可のもとに定期的に開催されて、出店には簡単な登録と審査を通して……」
リリスの声に、徐々に熱がこもる。
「ちゃんと“場所”と“許可”を与えて、“ルールのある市場”を作るの。そうすれば、無秩序な商売で誰かが損をすることも減らせるし、商人たちの利益も守れる。逆に“市の日”に合わせて人が来るようになれば、領地そのものの価値も上がるはず」
ルビーはその言葉に、ふっと口角を上げた。
「へえ……商人の味方をしながら、領地のためにもなるってわけね。あんたらしい発想」
「わたくし、思うの。物を売るだけじゃない、“買いに来る場所”を作らなきゃいけないって」
「……なるほどね」
ルビーは一拍置いて、リリスの顔を横目で見た。
「だったら、あたしも協力できることがあるかも。興味はあるし――何より、あんたのその目、ほんとに楽しそうだから」
「ありがとう、ルビー」
二人の足音が、石畳の上に軽く響いた。




