帰る場所、迎える心
市場での試作品販売から数日後。
リリスはルビーの店舗奥にある簡易な応接室で、テーブル越しに向かい合っていた。ルビーはカップを置くと、少し目を細めて問いかける。
「それで、今後どうするつもり? このまま露店で小出しにしていくのもひとつの手だけど」
「……もう少し、数を増やしてみたい。ピクルスもパン床も、地元の農家さんと組めれば、もっと継続的に作れると思う」
「販路もいるわね。あなたのラベルデザインも素敵だけど、数を捌くとなると、個人の手作業じゃ限界があるわ」
ルビーがそう言って棚からサンプルを手に取る。そこには、リリスが描いたラヴェンダー家の家紋を意匠化したようなラベル「ラヴェンダー印」が貼ってあった。
ルビーは手に取ったラベルを指先でなぞる。
「……“ラヴェンダー印”、ね」
心の中に、小さな引っかかりが残った。
それは――どこかで見覚えのある、家紋の意匠。
(もしかして……あの、子爵家?)
一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を戻す。
(……まぁいいわ。本人が言わないなら、いまは黙っておきましょう)
そう心の中で呟きながら、彼女は契約書の準備に取りかかった。
「このブランド、伸ばしていく気はある?」
「うん。わたしは家が没落しかけてて家族が苦労してるから少しでも力になれるように商売を始めたから、もっともっと頑張っていって家族と笑顔で過ごしたい!」
リリスの言葉に、ルビーがくすりと笑った。
「じゃあ、提案。うちの商会と提携して、商品を卸してみない? もちろん、あなたの裁量はできるだけ残す。完全な吸収じゃなくて、共同ブランドという形で」
「それって……私が売ったぶんの利益は?」
「売上からの卸値をきちんと設定する。手数料は抑えめにするし、ラベルや瓶の製造はうちが一部請け負える。販路を増やしたいなら、悪くない選択肢よ」
リリスはほんの数秒、真剣な眼差しでルビーを見つめた。
「……わかった。お願いする。自分たちだけじゃできないこともあるし、わたし、いずれは子爵領に工房を建てて、雇用も生みたいって思ってる。今はまだ小さな種だけど、あなたとなら育てていける気がする」
「ふふ、頼もしいじゃない。じゃあ正式に“仲間”ね? もちろん、そっちの側仕えちゃんも含めて。“百合草の誓い”は三人だけじゃない。あなたが信じて連れてきた子も、ちゃんとわたしの仲間として迎えるわ」
アイシャが驚いたように瞬きをし、すぐに控えめな笑みを浮かべた。
「……感謝いたします。わたくしも、皆様の誓いに恥じぬよう努めますね、お嬢様」
ルビーが席を立ち、契約書を取り出してきた。
「じゃ、詳細はまとめて、明日書類を仕上げておくわ。これであなたたちは晴れて“うちの取引先”ね」
「ありがとう、ルビー。これからよろしくね」
「こちらこそ。夢の実現、手伝わせてもらうわ」
商談を終えた帰り道、リリスは一人、夕暮れの石畳を歩いていた。
街の喧騒が少し遠のき、涼やかな風が頬を撫でる。
(“百合草の誓い”は順調。でも、それだけじゃないはず)
心の中で、さまざまな思いが巡る。
パン床、瓶詰め、工房、雇用――着実に広がっていく構想と夢。その中で、ふと浮かぶのは、まだ叶えられていない“最初の夢”。
(そういえば、卵料理……エッグベネディクト。まだ、食べてないな)
街角のベーカリーから漂う焼き立てパンの香りに、思わず足を止めた。
(オランデーズソース、マフィン、ポーチドエッグ……あれを食べるために、わたし、がんばってきたんだった)
リリスの唇に、小さな笑みが浮かぶ。
商売に夢中になって、目先の目標ばかりを追っていた気がする。けれど、その奥にあるささやかな“願い”こそが、彼女をここまで引っ張ってきたのだ。
(もう少しで、手が届く。あと少しだけ、頑張ろう)
ゆっくりと歩き出すリリスの足取りは、どこか軽やかだった。
その夕方、リリスが子爵邸に戻ると、門番の一人が慌ただしく近づいてきた。
「お嬢様、ご帰宅でしたか。いま、客間にお客様がお見えで……」
「お客様?」
首をかしげながら屋敷に入ると、応接間の扉の前で待っていたクラウスが静かにうなずいた。
「リリス、驚かないでくれよ。……ずっと療養先に預けていたルシェルが、今日戻ってきたんだ」
「ルシェル……? ほんとうに?」
心臓が跳ねる。あの妹が――体が弱くて半年ほど前から療養のため遠方の村に預けられていた、双子の妹。
扉を開けると、そこには一人の少女が座っていた。淡い銀髪、伏し目がちな表情。その手には、小さな布の人形が握られている。
「……お姉……しゃま?」
その声はかすれていたけれど、確かにリリスに向けられていた。
「ルシェル!」
思わず走り寄って膝をつき、両手でその小さな肩を抱きしめる。
「おかえり……帰ってきてくれて、本当にありがとう」
ルシェルはしばらくの間、戸惑ったようにまばたきを繰り返していたが、やがてリリスの胸にそっと顔をうずめた。
「……あったかい、におい……やっぱり……お姉しゃまだ……」
クラウスが静かに微笑み、部屋の外へと気遣うように出ていく。
リリスは、腕の中の妹をそっと抱きしめたまま、しばらく動かなかった。
――この手のぬくもりが、ずっと遠くにあるものだと思っていた。
けれど今、またこうして隣に戻ってきた。
妹と、家族と、そして仲間たちと。小さな希望は、確かな未来へと育ち始めていた。