靴
それから二か月ほどたったころのある日、わたしと一緒に過酷な日々を送ってきた靴が壊れた。歩きやすさや清潔さを考えれば、同じ靴を履き続けることが賢いとはいえないだろう。しかし、空虚さに満ちた真っすぐな通路を歩き続けるためには必要だったのだ。欲しいものは何でもすぐに手に入る。それは知っていた。もっと歩きやすい靴を手に入れることだって簡単だった。けれども、そうしてしまうことで、ここまで歩いてきた達成感と、これから先も歩き続けようという強固な意志を失ってしまうような気がしたのだ。その日まで旅を共にしてきた靴を目にすることで、なんとか自分を自分たらしめていたのだ。
執着とはみっともないものである。人それぞれに、これだけは譲れないというものはあろう。しかしそれが何になる? 何にもならないだろう。その物が失われてしまうことで自分が無になってしまうような執着にどんな意味がある? ありはしない。
わたしは自分の愚かさというよりも、人間の愚かさを靴に教えてもらった気がした。こうして大切にしてきたものが壊れることで、危うくなる自分という存在とは何だ? 何なのだ?
父を亡くしたときも、母を亡くしたときも、それなりに虚脱感は味わった。だがそれは、いつかそういう日がくるということを知っていただけに、やがて立ち直れる日はくるだろうと思えたし、実際にそうだった。だが、同棲していた彼女と別れたときはそうでは無かった。その別れで、わたしは天涯孤独になったと感じたのだから。彼女を失ったことで、わたしはわたし自身を失ったと感じていたのだろう。執着がもたらした悲劇といえる。自分が自分であるために、何かにしがみつく、誰かに寄りかかる。その時感じていたのは、そうしていることで、自分たりえていたという偽物の満足感だったというわけだ。虚飾だらけの自信だったというわけだ。自分が自分であろうと執着すればするほど、わたしはかえって自分を失っていたのだ。馬鹿げた生き方をしてきた自分に激しい憤りを覚えた。例えばそれは尽くすという観点であっても同じだといえるのだ。尽くすことに満足し、尽くしていることで自分が自分だと思い込んでいる。尽くしている相手が自分の思い通りにならないと不満を持ち、不平をいう。そして最後には「あなたなんて知りません!」という怒りをぶつけながら匙を投げる。愚かとしか言いようがない。そうやって人間同士で傷つけあっている。結局のところ、わたしが、本当にやりたいことをやらない限り、わたしはいつまで経っても、自分というものを持たない存在のままなのだろう。体裁だとか、コモンセンスだとか、そんなものが役に立つとはもう思えない。ただ自分の心の底から湧き上がってくる、「これしかないんだ!」というものに従う以外、自分の人生を生きることなどできはしないのだ。
靴が壊れたその日、わたしは重大なことに気づいたのだった。そしてそれは、一足の靴が教えてくれたことだった。わたしは泣いた。靴に感謝の気持を抱いて咽び泣いてしまうことを、どうにもできなかったのだ。
それからというもの、わたしは贅沢することをやめた。気晴らしすらしようとも思わなくなった。あらゆる執着をこの身から剥し落とそうとする修行僧のようにただただ歩いたのだった。目的ははっきりしていた。とにかくここから出たい! そうしなければ、わたしは自分の人生を歩めないと思ったのだ。そのために歩く。そう心が定まったのだ。灰色の風景は、わたしの神経を逆なでし続けたが、しだいにそれも気にならなくなってきた。その頃から、コンピューターが設置されているであろうチェックポイントの幻影を見るようになったが、それでもただ歩き続けた。わたしは、どこまでも続いているかのような、真っすぐに続く通路から、なんとしても出たかったのだ。