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赤とんぼ

 目覚めたわたしは腕時計に視線を落とした。夜行塗料のほのかな明かりで午前六時であることがわかった。

「照明を点けてくれ。それから朝食だ。サンドイッチが欲しい。ホットコーヒーが欲しい。それと……」

 女と問答を繰り返したあと、朝食をすませると、わたしは迷わず立ち上って歩き出した。とにかく歩くしかなかったのだ。

 おおよそツアーの概略はわかってきた。問題は何日くらいでチェックポイントにたどり着けるかだろう。三日か一週間くらいだろうか。できればそれぐらいで到着したいものだ。さすがに一か月もこの変化のない直線通路を歩き続ける自信があるかと問われれば、ないと答える気がする……。

 午前中はそんなことを考えながら、二時間ごとに小休止をとって歩きとおした。昼食は、かつ丼とお新香、それに日本茶ですませた。太陽もない。空もない。もちろん、足裏で土や砂を踏むという感触もなかった。刻々と震えるように動き続ける秒針のある腕時計が頼もしい存在に思えてくる。カレンダー機能があることにさえ、感謝の気持ちが湧きあがった。それぐらい変わり映えひとつない通路を歩き続けることは過酷なことだった。退屈しのぎにあの女にラジオを注文したところ、無言という回答を示してきたときには、思わず壁を蹴りつけてしまうほどの怒りに駆られた。それでも出来ることは歩くことだけだったから、そうせざるを得なかったのだ。そうしてわたしは午後も歩きとおした。

「今日はこのぐらいにしておこう。まだ先は長いのだろうし……」

 壁にもたれて座ったとたんに、思わずそう声に出していた。わたしが立てる音以外、なにひとつ音のない世界というものは、酷く精神を苛んでいるようだった。

「夕焼けこやけーの、赤とんぼー」

 きっと今頃外では陽が沈んでゆく景色が見えることだろう。

 静寂に耐えきれなかったのか、外の世界への郷愁からなのか、わたしは子供の頃に憶えた童謡『赤とんぼ』を歌ったのだった。

「今夜は豪華な飯を食って、風呂にでも入って、もう寝てしまおう。そうだ、着替えも欲しいな……」

 通路で出来る贅沢を思い描いたわたしは、女に話しかけた。そつなく用意されたものに不満などなかった。むしろわたしはそれを楽しんだ。そうでもしなければ無機質な灰色の空間と、そこを満たす静寂に耐えきれなかったのだ。

 そんな風な状態で三か月ほどは歩き続けた。それでもチェックポイントには着けなかった。ときには苛立ちが頂点に達して、食べ終えた食器を壁に投げつけたり、沸騰した怒りにまかせて枕を殴り続けたこともあった。それでもわたしは歩き続けた。そのあとの三か月は、思いつく限りの贅沢をしてなんとか自分を保って歩き続けた。海の幸を味わってみたり、山の幸に舌鼓したつづみを打ってみたり。誕生日でもないのに蝋燭を立てたバースデーケーキを食べてみたり。冷房を強めさせて、毛皮の外套を羽織ってみたり。その逆に暖房を強めさせて、水着一枚、裸足になって足を運んだこともあった。入浴剤に拘ってみたり。シルクの肌触りを満喫してみたり。それまで読んだことさえ無かった長編小説を読みふけったりしたこともあった。弾けもしないギターを注文してつまびいてみたりもした。とにかく思いつく限りのことをしてみながら歩き続けたのだ。なにしろ、手に入らない自由の中に、ノートと筆記用具が入っていることには参った。いつ何をして何があった。ここまで何キロ歩いてきた、いまが何月何日かということがしだいにおぼろげになってきてしまったのだから。唯一の頼りはカレンダー機能のある腕時計だけだったのだが、それは月が表示されないものだったのだ。今月は三十日まであるのか? はたまた三十一日まであるのか? そういう調整ができなくなった腕時計が、正確な日付を教えてくれないことくらい、わたしにだってわかったのだ。それでも歩き続けた。歩きに歩き、そして歩いたのだ。立ちどまっていても、座り込んでいても、何一つ解決しなかったからだ。「本当の自由」なんて、もうどうでもよかった。ただわたしは、チェックポイントという所に、このずっと真っすぐに続いてる灰色一色の通路からの出口があると思うことにしたのだ。希望といえば希望と呼べるのかもしれない。しかしそんな風には思えなかった。ただそれにしがみついて歩くしかなかったのだ。入口の錆び付いた扉をくぐってから九か月ほどがたっていた。わたしは自分の神経がボロボロになってゆくのを感じながら、それでも歩いたのだった。

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