18話 甘美な夜
夜。
深い紺色の空に不釣り合いな明るい月。
思い返せば、吸血鬼に出会った空もこんな感じだったかもしれない。
違う点は月の形か。
日曜日の夜、妹は早めに寝る傾向がある。
先ほどこっそり覗いてみたが、もう布団に籠っていた。
あとはもう、待つだけだ。
月を眺め、落ち着いたフリをするが、胸の鼓動はその意に反していた。
恐怖や不安というより、単純に緊張する。
どうすればいいんだ、吸血される側って。
モヤモヤとする気持ちを感じているうちに、ひとつの影が見えた。
シュリネスだ。
俺は彼女が窓を叩く前に開けた。
吸血鬼はあの日と同じように部屋へ入る。
「反省は済んだのかしら。とにかく、うちの娘に恥かかせないでよ」
「……ベストは尽くします」
お互いに短い言葉を残してから出発した。
満月パワーは想像以上に吸血鬼の力を増幅させるようで、シュリネスは、今までよりもさらに速い飛行速度で飛んでいる。
人間の自分からすると風で息が詰まるし、街灯が小さな点に見えるため、もはや吸血の緊張をかき消すほどの恐怖だった。
しかし速いため、その恐怖体験も束の間の出来事。
フィリードの待つ館はすぐに見えた。
また館の端、一番上の階へと入るのだろうと思っていたが、シュリネスは建物の前でふわりと着地する。
俺はというと、地上に降りてもまだ浮遊感があったため、うまく立てずにその場でへたり込んでしまった。
「何やってんの」
「あ、すいません。まだ感覚が残ってて……」
「まったくもう……。ほら、立ちなさいよ」
シュリネスは不本意そうな顔をしながらの、手を伸ばしてくれた。
俺はその手を掴み、一思いに立ち上がった。
立ってから数歩進むと、地上の感覚を思い出す。
「よし。そのままうちに入りなさい」
「玄関から、ですか」
「他にないでしょ。さっさと入る!」
大きな屋敷によく似合う洒落た扉だった。
木製だろうか、どこか暖かみがある。
扉をゆっくりと引いた。
そのずっしりとした質量が伝わってくる。
屋敷の中で最初に会ったのは秀一さんであった。
「やぁ、待っていたよ。今日の夜も、君も」
「……どうも」
「うむ。緊張気味かい? 大丈夫、まだ時間はあるよ」
秀一さんが「こっち」と手招きをしたので後をついていった。
長い廊下や階段を通過して、ひとつの個室へたどり着く。
「ここに、フィリードが……?」
秀一さんは首を振った。
「違う違う。ここはシャワールームだよ。はい、タオルと着替え」
柔らかな布たちが手の上に置かれた。
「え、シャワー浴びるんですか」
「もちろん。フィリーも今頃は入浴中さ」
そういうマナーなのだろうか。
それにしても、着替えさえ用意してくれるとは……。
適当なことを考えながらシャワーを浴びる。
たしかに吸血は体が密着するから、清潔にするのは大切かもしれない。
俺はいつもより念入りに、だけれど待たせないよう迅速に全身を洗った。
体を洗い終えたらシャワーを止め、バスタオルを手に取る。
そして、渡された着替えを着ようと――。
「バスローブじゃねぇか……」
渡された服というのはバスローブとトランクスだけであった。
普通の服かと思ったのに……。
しかし他に着るものなんて渡されていないのでどうしようもない。
バスローブらを着てからシャワールームを出た。
「やぁ、思ったより早いね。いいお湯だったかい?」
秀一さんは聞くなり歩き出した。
俺はやはりその後を追う。
「えぇ、まぁ。……それより、着替えなんですけど、他にないんですか」
「うん? 不満かな」
「だって、これでフィリードに会うんでしょう? ちょっと薄着すぎないですか」
「……まぁ、ムードのためだよ」
「ムード……?」
「うん。ただの食事と違って、特別なものだからね。吸血は」
フィリードから前にも聞いた気がする。
夜、女性と二人で、しかも薄着で密着するなんて。
不安さえ覚えたものだが、今となっては別の意味で緊張していた。
自分、そんな経験ないのですが……。
当然、今さら引き下がるなんてことはできないのだが。
そうこうしていると、秀一さんが立ち止まった。
「さて、お待ちかね。ここからが本番だよ」
「この部屋に……?」
「うむ。フィリーが待っているとも。ま、いろいろ不安もあると思うけど、きっと大丈夫さ」
秀一さんはそう言い残して、どこかへ向かい始めた。
「ど、どこ行くんですか」
「僕もフィアンセと楽しんでくるよ。君たちも、ごゆっくり」
足早に去る秀一さんが見えなくなる。
、俺は覚悟を決め、数回深呼吸をしてからドアに手をかけた。
ゆっくりと開ける。
部屋の中に明かりはなく、しかし月の光で視界に困ることはなかった。
部屋に入ってみると、月明かりに照らされたフィリードがベッドに座って待機していた。
「遅いわよ、下僕」
「ご、ごめん……」
フィリードの服も相当なものであった。
肩と脚を大胆に露出させている。
布の厚さもそこまでないようだ。
「ちょっと、どこ見てるのよ」
「……あ、いや、どこも見てない!」
つい、フィリードの透き通る肌色に魅了されていた。
紳士としてあるまじき行為だろうが、フィリードは咎めもせず、クスリと笑った。
「……いいのよ。今日は好きに見ても」
「へ……?」
情けない声が出た。
なにせ普段ならあり得ないようなお許しが下されたのだ。
きっと誰だって驚きのあまり呆然とするに違いない。
「緊張してるの? もう始めちゃうわよ」
「は、はい」
本来ならば男がエスコートするべきなのだろう。
不甲斐ないことに、自分はそんなことをできるほどの力量を持ち合わせていなかったが。
こういうのって、「始めよう」でパッと始まるものなのか?
俺がそわそわしているうちに、フィリードの指示が飛んだ。
「じゃあベッド、横になって」
「はい……」
ベッドの上で横になった。
その上にフィリードが跨る。
そのまま、彼女の手が俺の頬を撫でた。
「ねぇ下僕。今夜は、素敵な夜にしましょう」
「……う、うん、よろしく」
俺の同意を聞くと、フィリードは微笑み、頬にあてられた指を首へと伝わせた。
直後。
フィリードの唇が、舌が、俺の首に当てられる。
このまま吸血するのかと思ったが、最初は首を舐めたり、甘噛みをするだけだった。
甘噛みの力が少しずつ強くなっていき、それとともに首元が熱くなっていく。
近さのせいでフィリードの体温と息遣いもわかってしまう。
頭がクラクラしてくるが、ルンとの絡みとは一味違う。
甘くて、切ないような……。
「ね、下僕。……そろそろいい?」
フィリードが囁いてくる。
悪魔と違って、耳に心地よい声だ。
「……好きな時に、どうぞ」
「ふふ。これで下僕は私のもの、だからね」
フィリードは艶やかに微笑んで再度口をつけた。
普通の人間より鋭利な歯が首の皮膚に押し当てられる。
少しずつズキズキとした痛みが存在感を強め、そして――。
「ぐぁっ……!」
皮から肉、そして神経と俺の首を突き破った牙がとうとう血管を切り裂いた。
痛みに耐えかねて声が出てしまったが、その声を聞いたフィリードがギュッと俺を抱きしめてくれた。
俺も痛みを緩和するために彼女を強く抱きしめ返す。
自分の首にどれほどの穴が開いたのかはわからないが、熱い液体が止めどなく溢れてきているのが感覚でわかった。
フィリードは一旦首から牙を抜き、液体を舌で舐めながら体内に摂取していく。
一度血液を口にすると、彼女の体温が火照ったかように上昇していった。
室内には血を啜る音だけが響いていたが、しばらくしてから主人が俺のことを案ずる声が聞こえた。
「下僕、痛かった? ごめんね、ちょっと乱暴で」
彼女の紅潮した表情と、耳をくすぐる荒い息、それと心臓の鼓動に、甘い香りに、指先も足先も、全部が愛おしく思えてきて、不快だった首の痛みも、今では熱くて官能的な感覚に襲われていた。
「フィリード……。体、熱い……」
「大丈夫、一時的なものよ。吸血鬼の唾液が体内に入るとそうなるの」
目の前がぼうっとしてきて、聞こえる声もくすぐったくて。
もう何も考えていられなかった。
「ふふふ。もっと、楽しみましょ」
フィリードがまた口をつける。
彼女も血を飲むごとに恍惚とした顔になってきて、ついには俺の上に重なっていた体勢から崩れ落ちた。
二人で一緒に寝ているかのような、横並びの姿勢で吸血が続く。
どれほど時間が立ったかも忘れ、お互いにお互いを呼びあって、それぞれの快楽を貪った。
だが、その最中、突然目眩がした。
「フィリード、なんか、視界が……」
口もうまく回らない。
それに対してフィリードは残念そうに答えた。
「ちょっと吸い過ぎたかしら。きっと貧血よ」
フィリードは今出血していたものを舐めとり、舌で傷口に蓋をした。
数分経つと、固まった血が傷口を塞ぎ終えた。
ふうっとフィリードが深呼吸をする。
「おいしかったわよ、あなたの血。ごちそうさま」
「うん……。よかった」
まだ頭がクラクラして言葉が出てこないが、簡単な返事だけはできた。
フィリードは先ほどまで噛んでいたのと反対側の皮膚に口をつけ、甘噛みを始める。
「もうちょっとだけ、こうさせてね。下僕」
俺はとても小さくだが頷いた。
窓から差してくる満月の光。
少なくとも今日の光は、俺たちのために用意された、とてもロマンチックで優美なスポットライトだった。




