16話 愛の鞭?
どれだけ今日が楽しくても、どれだけ次の日が面倒だとしても時間はどんどん進む。
それはたとえ悪魔を呼ぼうが自分がノーベル賞くらいすごい体験をしようが変わらないことであった。
金曜日の夜。
いつもなら目前の休日に浮かれ、気分も高まる時間帯だ。
しかし一週間の疲労が原因だろうか、今はそんな気持ちを持ち合わせていなかった。
「兄さん、お風呂先に入っちゃうよ」
「どうぞ……」
妹の足音がはっきりと聞こえる。
ソファでうつ伏せになっているからか、視覚が遮られ、より聴覚が敏感になっている。
やがてその音はうっすらと聞こえるシャワーの音へと変化した。
このまま自分を放っておくと、妹が風呂から出てくる前に寝てしまうだろう。
だからといって、なんのアクションもなしに自分で自分の眠気を吹き飛ばすなんて不可能であった。
微睡みの中へと落ちていく感覚がする。
夢へと引き込まれかけた時、自分ではない者がアクションを起こしてくれた。
『起こしてくれた』なんて表現をするべきではなく、『起こしやがった』と言う方がいいかもしれない。
上の階からガンガンと鈍い音がする。
最近の特殊な経験がなければ、恐らく人生のうちになかなか聞かなかったであろう音。
窓ガラスノックの音だ。
それだけならまだいい。
問題は下の階にまで聞こえているその音量だ。
窓ガラスを殴り割ろうとしているかのように激しい音がするのだ。
俺はすぐさま上の階へ向かった。
窓ガラスの心配もするが、なにより妹が風呂場から異音を聞き取ってしまうかもしれないというのが焦りの原因である。
今朝、軽い気持ちで親友と悪魔を対面させたらロクな結果にならなかったので、妹を巻き込むメリットは皆無だと悟った。
最悪、妹を傷つけるかもしれない。
とりあえずそんな思いの中、自室へ到着。
フィリードが急ぎの用か、ルンのイタズラか。
そう考えていたが、こんなにも乱暴で荒々しい行動をするのはこの二人なわけがなかった。
月明かりに輝く紅い髪。
存在を象徴するような大きい翼。
誰あろう、シュリネスである。
フィリードからも、もちろんシュリネス本人からも前もっての連絡はなし。
彼女は突然来たわけだ。
正直、彼女の暴力的な言動には恐怖している。
できることならそこまで話したくない。
だとしても、あちらからわざわざ訪ねてくるということは、何かしら理由があってのことだろう。
このまま無視したとしても後が怖いし、自分に拒否権はなかった。
俺は部屋の明かりをつけ、窓を開ける。
「遅い! 何をモタモタしてるのよ!」
「……すいませんっした」
でたよ、理不尽ムーブ。
ただ彼女の言動は悪意なぞ微塵も無く、これこそが自然体らしいからさらに厄介だ。
「シュリネスさん、どのようなご用件で?」
「うるさい! まず座りなさい!」
こちらの話を聞く気ゼロである。
ゼロどころかマイナスに到達しそうなほどだ。
しかし指示に従わないと話が進まなそうなので、俺は黙ってベッドの上に座った。
「違うわよ! ここ、正座!」
すぐさまシュリネスが床を指さす。
困惑しつつも仕方がないので従った。
自分の重さで脚部が圧迫される。
これ絶対に脚、痺れるやつだ……。
ここでようやくシュリネスが話を始めた。
「あんたさ、私がどうしてここに来たか、わかる?」
俺の前で仁王立ちをするシュリネス。
それなりに高身長な彼女は脚が長いのだろうか、目の前に見えるのはタイツを着用した彼女の脚部であった。
真っ直ぐ先を見ると、太ももが視界を邪魔してくる。
真面目そうな話の最中に邪な考えが浮かんではいけないので、うつむいて視線を下にやった。
「わからないです」
回答した直後、シュリネスのため息が聞こえた。
彼女は続けて話をする。
「ルンのことよ。あんた、あんな小娘悪魔に見限られて、ひとつの情報も聞けなかったそうじゃない。もっとしっかりしなさいよ」
「いや、ルンはただの人間に情報提供するのが嫌なみたいで、俺がフィリードに噛まれれば解決するっぽいですよ」
「で? じゃあ、あんたはもう、あの子に噛まれても大丈夫なワケ? あんたが吸血に怖気づいてるってことも耳に入ってたけど?」
「それは、そうですけど……」
まずい。
吸血鬼さんはご立腹だ。
そろそろ前にある脚から蹴りが飛んできてもおかしくなさそうである。
「やっぱりあんたじゃダメな気がするけどなぁ……。どうして選んだんだか」
「どうして選んだんですか……」
最初から選ぶなよ。
口にすることはできないが、さすがに思いはした。
「私が選んだんじゃないわよ。知り合いが、あんたを推薦したの。今はもう、どこにいるかわからないけどね」
「ど、どういうことですか。別の吸血鬼から目をつけられてたってこと?」
「そう。理由はわからないけど、とにかくあんたに頼めばいいって言うのよ」
「その人はどこに……?」
「だから、行方不明だっての! ソイツを探すためにも悪魔と話をしてるのに、あんたがルンごときに舐められるから今になってんでしょうが」
なんだ。
なんなんだ、俺が選ばれた理由って。
考えれば考えるほどわからない。
自分が今まで吸血鬼と接点があったなんて考えられないし、本当にどうなっていることやら。
「聞いてんの!? もしもーし!」
「……あ、すいません」
「あんた、一回横になりな。踏んであげるからさ」
「い、いきなりなんですか!?」
シュリネスはきょとんとして言う。
「あんた、眠いから反応が鈍ってるんでしょ? それなら痛い目にでも遭えば解決じゃない。痛みで起きるでしょ」
「全然解決になってませんよ」
「あ? 足りないの? じゃあ、かかとでグリグリしてあげるからさ」
「そういう問題じゃなくて……」
「うっさいわね! いいから踏まれなさいよ!」
定期的に暴力を振るわないと生きていけないのだろうか。
吸血鬼って戦闘民族なのだろうか。
「なんなら、今日のうちから痛みに慣れておくってのもいいんじゃない? フィリードの前で恥ずかしい姿見せないで済むんだから、いいでしょ」
「……話はそれだけですか? 終わったんなら帰ってくださいよ」
あまりにも脱線した話に思わず失言をしてしまったが、その発言に対してシュリネスは激昂しなかった。
「まぁ、突然押しかけたんだもんね。フィリードから妹の話も聞いたし、気持ちはわかるわ。家族って大事だものね」
そう言った後、シュリネスは俺の脚を踏んだ。
折りたたまれ、ただでさえ自重で血管が圧迫されているのに、足の裏全体でさらなる重みを加えられている。
「だけど、それとこれとは話が別。今日はこの程度で我慢してあげるけどさ、フィリードとの吸血がうまくいかなかったら、その時は顔踏むからね」
シュリネスが少しずつこちらに体重を傾ける。
自分の脚はとうとう痺れてきて、触れられると刺さるような不快感で包まれた。
「これ、いつまで続くんですか……」
「あら、苦しそう。そんなにやめてほしい? ねぇねぇ」
困惑する反応を味わう愉快犯のルンとは違って、彼女は相手を征服することこそに愉しさを見出しているようだった。
「ほら、そんなに嫌なら立てばいいじゃない。ほらほら」
脚の痺れでもはや感覚を失ってしまい、力が入らない。
それでも強く押されるごとに嫌な刺激は脚を支配した。
「立てないの? それとも、欲しがってるの? あははは!」
「マジで……。そろそろキツいっす……」
ルンのニヤけた笑みとは違い、声をだして愉悦を味わうシュリネス。
俺は手を使って立とうとしたが、シュリネスの力がそれを上回り、やはり立てなかった。
「あんたが反省したなら、解放してあげるけど?」
「反省しました。解放してくださいよ……」
「言い方がなってない! あんた、私のこと舐めてる?」
「じゃあ、どう言えば……」
「自分で考えなさいな」
俺は自分のプライドを捨てることができず、結局、妹が風呂から戻るまでずっと正座地獄であった。
その時間、40分である。
手を使ってでも自力では立てず、妹に心配されたのは言うまでもない。