一、月のない闇夜
冷たく静まり返った。月のない闇夜。生命の気配がなくなった、廃墟のような館の最奥に、剣吞な影が一つ……いや、二つ。
熊のようでいて虎にも似た、毛深く獰猛な頭を持つ怪物が、華奢な美しい青年の首を掴み上げて佇んでいる。かろうじで青年の息は残っているようだが、このままでは喉を絞め潰されるまで そう長くない。
青年の指が力を失い、滑り落ちた――その時だった。
「おい、バケモン。そいつは俺のとこの姫さんの供物だ、勝手に手をつけるんじゃねぇ」
粗野な呼びかけと同時に、怪物の首が ぼろりと落ちる。「おっと」意識を失って崩折れる青年を、粗野な声の主が 慌てて受け止めた。
*
パチパチと焚き火の爆ぜる音が、星さえも見えない夜の曇天へと吸われていく。首に残る鈍痛と底冷えする空気の中、青年は目を覚ました。
「……う、く……ここ、は……?」
年の頃は十九か二十か。青年――ヒジリは、一目で育ちの良さが分かる器量の良い若者だ。栗色の柔らかな髪はいまだ乱れて頬に張り付き、抵抗したせいで着衣も崩れているが、見てくれの美しさまでは失われていない。
「お、気が付いたか。存外 頑丈なんだな、都の若サマ。……みっともねぇから、着物 直しとけ」
朦朧とする視界を巡らせると、焚き火の反対側に 大振りの剣を熱心に磨いている男が座っているのが見つかった。ヒジリより一つ二つ 年上だろうか、獣のように無駄が削ぎ落とされた肉体の持ち主だった。赤茶けたざんばらの髪から覗く双眸は、ちらとヒジリを見たきり すぐに手元の剣に視線を戻した。
都の人間には見えないが、武骨なその身にまとう衣服には 都の意匠を感じさせる。記憶のどこかに覚えはあるが、奇妙にもその男の容貌には繋がらない。
「あの怪物どもは……?」
「バケモンどもなら、そこら中に転がってるぜ」
粗野な男は面倒臭そうに 自分の後方を顎で指してみせた。
「……ったく、馬鹿な連中だよ。こうならないために、ヤチヨ姫に供物を捧げてきたんだろうに。お陰で俺が 都まで出向く羽目になっちまった」
手入れを終え、チンと音を立てて 男は剣を厳つい鞘へと戻した。
『ヤチヨ』という名、そして『供物』という言葉を聞いた途端、ヒジリの身体が恐怖に強張る。
都の安寧と引き替えに引き換えに 千年もの昔からいけにえを召し取り、ついには自分までも『供物』にと名指ししてきた、異形の姫神の名前。都の長であったヒジリの父が ただ一度 その命を突っぱねただけで、都はこの有様となった。
「貴様……あの化神の手先か……っ⁉」
がば、と体を起こし、ヒジリは男を睨みつける。憎々しげなその視線に悪怯れる気配もなく、男は冷めた、それでいて自嘲気味な瞳で返してきた。
「散々 御加護を賜っておいて 化神呼ばわりか? ……まぁ、手先で間違っちゃいねぇよ。俺はヤチヨ姫の『動く手足』、ウツロだ」
ウツロと名乗った男は、剣をその背に収めると 焚き火に目線を移し、淡々と言い放つ。
「お前が生贄を拒んだせいで、お前らの都はこのザマだ。とはいえ、約束は約束だからな。俺がお前を回収しに来たんだよ……ヒジリ」
名乗ってもいないのに自分の名を呼ばれ、ヒジリは息を吞む。
男の横顔には、ヒジリの知らない 深く暗い怨念のようなものが、幽かに宿って見えた。




