妻は一人ぼっちだから - 3
本格的な梅雨のシーズンに入ったのか、雨が降り続く六月の第四日曜日に臨時理事会が招集されました。管理会社主導で自走式駐車場の設計と見積りを取りましたが、管理組合がそのメーカーと大筋で合意できる運びとなったので、その報告のための理事会です。
「第五回の理事会を臨時で開催します。本日はまず管理会社の話からです」
理事長の挨拶に続いて管理会社の田割さんが管理員の処遇についての説明をしました。最初にやけどを負った子供やその家族、そして管理員へ連絡や意見をされた方などへまずお詫びの言葉を述べ、深々とそしてかなり長い時間頭を下げました。
管理員の池太さんは管理員として必要な報告を怠ったこと、居住者からの意見をこのマンション担当の田割さんと共有しなかったことなど、多くの点で本来の仕事ができていない恥ずかしい状態で勤務させていた。その点についても社を代表してお詫びされました。
池太管理員はマンションブリーザ幕路への配置を取りやめた。その後管理会社で再教育する方針だったが、本人の希望が強く退職した。今後マンションブリーザ幕路の管理員は空位となるので、当分の間は管理会社の社員が交替で管理業務を行うそうです。
前管理員の池太さんは結局は責任を問われ管理会社を退職したのでしょう。他のマンションで勤務していればこのような目に遭わずに済んだかもしれず、そういった意味ではお気の毒とも思います。
ただこの人手不足、特にデスクワーク以外の職種での人手不足感は相当酷く、マンション管理員も実態は同じ。特に今は大規模修繕工事や駐車場などの工事へ向けて動き出している最中、このマンションで働きたいと思う方はそう簡単には見つかりません。
「池太さんは今回の件で責任をお取りになったのですね、ではこれまで通路に置くバイクをずっと無視し続けてきた管理組合、そしてずっと理事を続けている方たちは今回のことをどうお考えですか?」
監査の松尾さんの質問に対して理事長は、大変申し訳ないことをしたと思うし管理組合の責任が相当大きいので、マンションで加入している保険で治療費の補償などを考えていると発言したのですが、田割さんは真っ向から否定し、バイク所有者の過失だから治療費などは個人が加入する保険や自費で賄うべきと発言。土尻さんのご主人も田割さんの発言に賛成する発言をしました。
しかし藤本さんは、あの場所へのバイクの駐輪を認めたのは自身を含めた歴代の理事長の責任で、認めていなければ今回の事故は起きてはいない。施設を管理していた側の責任だからマンション総合保険を利用して賠償するのが筋だと発言する。
「今回の件では大変ご迷惑をお掛けしました。あの、今回の件は警察へも届け出ておりまして、治療費や賠償についてもすべて私が加入している保険のほか、自費で賄っております。止めても何も言われないことにいい気になって、エンジンを止めたばかりのバイクを通路を塞ぐように止めていた私がすべて悪いのです。申し訳ありませんでした。バイクは処分し、今後バイク置き場ができてもバイクには乗らないでおこうと思っています」
副理事長の川田さんが神妙な面持ちで語り、賠償問題は川田さん本人が責任をもって支払うと発言したので、これ以上の追及は必要ありませんでした。
「あの、川田さん個人の責任を追及しようと思って言ったものではなくて、これまでの管理組合や理事会、管理員の責任についてはどうなるのかをおたずねしたので、川田さん、別に私はあなたを非難しようと思ったわけではありませんから……」
今度は松尾さんが神妙な面持ちになって発言した。自分の発言で川田さんを矢面に立たせてしまったと感じたのかもしれません。
しかし藤本さんにしてみれば、〝仲間〟の川田さんへの負担が少しでも少なくなるようにと考えた上での発言ですね。自身の任意保険を使えば次回の更新以降は保険料が高くなるから、少しでも負担が軽くなるようにマンション総合保険を使おうとした。ただ川田さん本人が非を認めたのではどうすることもできません。
「結局、一番の元凶は管理会社へ報告が上がっていないことですよね。管理組合や管理員だけで勝手に内々でローカルルールを決めてきたからこういう結末を迎えたわけですから、管理会社と理事以外の住人との接点を設ける何らかの方法があってもいいのかなと思います」
大久野さんが発言すると田割さんは、まさか管理員が日々の出来事や業務の内容を報告しない事案が発生するとは思っていなかった。今回の理事会の報告書に管理会社の電話番号やメールアドレスを記載してもらい、誰もが管理会社へ直接連絡しやすい体制を作ると約束しました。
これまでのように管理員が主流派にあまりにも近かったことを考えると、ほぼ日替わりに近い状態ではあるけど、管理会社から管理員が派遣されればこれまでとは違って中立を保ってくれるかもしれない。いろいろな意味で今よりはよくなればいいんだけど。
管理員についての話は終わり、自走式駐車場のメーカーとの契約の可否や予算について話し合われます。
最初に田割さんが概要の説明を始める。設計や見積りをお願いしたのは自走式の駐車場を専門で作っているメーカーのうちの一社。他社にも見積りや設計を依頼し、金額や施工件数、自走式駐車場を導入している他のマンションの口コミなどから、契約しても問題はないと管理会社としては判断したので、管理組合や理事会の意見をうかがうことになった。
口コミは管理会社が管理をしているマンションの中で、自走式駐車場を導入している管理組合からの声。自走式駐車場を導入して一〇年を超えるマンションもあるが、概ね良い評価を得ているという。
「理事長、先日の総会で駐車場の建て替え工事は特別議決で可決したので、予算案や施工会社の認可は提案だけで済ませられますか?」
「自走式駐車場はこのくらいの金額がかかるが、同時施工で工事に入っても良いかと問うただけで、予算案や施工会社についての賛意は得ていません。ですので臨時総会の招集が必要です」
「すみません、バイク置き場は条川工務店と契約を結ぶ予定ですね、こちらも総会での賛意を問うわけですね」
「大規模修繕工事を行う条川工務店と契約する予定ですが、予算案や施工会社の賛意を得ていませんので、こちらも総会で賛意を問うことになります」
バイク置き場の新設に伴い、マンションの使用細則に〝バイク駐車場規則〟を設けます。使用料金等は前回の理事会で管理会社の試算を理事会としても了承している。その他の規則の内容はひな型を当マンションに合うように管理会社で文言を変え、その見本が理事に回された。
使用料金については今回のバイク置き場の設置費用のほか、コンクリート造りで大きさも一定以上あることから固定資産税の対象になると考えられ、そういった費用も賄うようもう一度試算したが、前回の提示した料金から変更はなかった。
バイク置き場新設工事は総会で賛意を得ているのに、主流派の理事が利用者があまり多くなく空きだらけになったらどうするのかといった、いまだに工事に足枷をはめようとする発言もありましたが、駐輪場は自転車専用でバイクの乗り入れ禁止、マンション周囲の敷地にバイクを止めるとすぐに撤去するという文言も規則に入れる。
これを機にバイク利用をやめるひともいるだろうし、これまでバイクを止められなかった人の中で、新たに利用する人もいるので空きだらけになる事は考えられないと理事長が発言。
また八割程度の利用があれば多少は管理費会計に寄与するそうで、意外と収益源として期待できそうです。
「たしか九月中に完成予定でしたね、まだ三カ月もあるのにもう規則を制定するのですか?」
「完成すればすぐに利用開始となるように、できるだけ早めにこの規則の賛否をお聞きし、九月中に使用者の募集を行って完成後ただちに使用を開始しようと思っております」
臨時総会は八月の最初の日曜日に開く予定で準備をすると言う。
理事会に出席した妻は一言も発さず集会室を後にした。終始男性だけがいろいろとしゃべるだけで、もう一人の女性参加者の牧落さんも一言も発さず。総会で工事の同時着工が決まったことで、主流派も反対派も特に何も言うことがなく、ごく普通の理事会だったという感じでしょうか。
集会室から家に戻った妻は、これまでに買ったまま読んでいない大量の本を読み始めた。面白そうと思ったら本は取りあえず買っておくそうで、なんでも子供のころから本の購入に関しては咎められることもなく、好きに買ってよかったらしい。
本と言っても文学や小説にとどまらず、ギャグ漫画や恋愛小説から様々な専門書までなんでも読むそうだ。これでまた妻の新しい締めの一節が会話の中で飛び出すことになるでしょう。
妻は締めの一節で漫画や小説の一節を挟みこむのですが、本当の妻は用心深くて容易に人の輪に溶け込めるタイプではありません。牧落さんや土尻さんの奥さんと話すときだって冗談は一切言わず、ごく普通に話をするだけです。おそらく心を本当に許せた人にだけおどけた一面を見せるのでしょう。
仕事から帰宅すると、妻はいつものように元気よく〝おかえりなさい!〟と声を掛けてきた。
妻に理事会のことを聞くと、管理員の池太さんは管理会社でお勉強のはずが会社を辞めたと聞かされた。実際は辞めたというよりは、辞めざるを得ない方向へ追い詰められたのが本当のところだろう。
そして駐車場の建て替え工事やバイク置き場の工事に関する予算や、施工会社の承認を得るために再び総会を開くという。住人投票で済ますこともできるが、全区分所有者から議決権投票を総会の代わりとしても良いという賛意を得なければ実施できない。そう、一〇〇パーセントの賛意が必要なので、総会の代わりに投票だけで済ませるというのはかなりハードルが高いのです。
「今さっき、久しぶりにしゃべった! って感じがしたよ」
妻が笑いながら言いました。今朝僕が家を出る時に話をして、理事会では今日は一言も喋らず、家に帰ってからもずっと本を読んでいたので、ついさっき僕と話をしたのが今朝以来久しぶりの会話だったらしい。
妻はこのマンションに引越してからは仕事に行っておらず、用事が無ければずっと一人で過ごしている。ただ妻は一人でいることが苦痛ではなく嫌いでもない、子供のころから一人で部屋にいることが多かったからだと言う。そんな妻が、
「でも最近思うんだけど、一人で明るい道を歩くよりは、暗闇の道を勝と歩くほうがいいなって本気で思うんだ」
「僕と?」
「うん、話し相手になってくれるし、私の冗談にもきちんと返答してくれるでしょ。明るい道でも一人で歩くことを思ったら、暗闇の道を勝の服の裾を持って歩くほうが楽しいもん」
「そっか、また深い言葉だね」
「〝光の中を一人で歩むより、闇の中を友と共に歩みたい〟が元の言葉だけど、勝が帰ってきて話をしたらそんなことをふと思ったの」
「今日の佳奈は文学少女だね」
「でも勝が帰ってきたら食欲も復活してきたみたい、食欲少女だよ、お腹空いたあ、チョコのお菓子があるから食べようかな♪」
妻は日々の生活に退屈しているようです。臨時総会まではマンションの中を歩き回って、これまで話をしたことがない住人に対して必死で説明を繰り返していた。それがなくなった途端に心に大きな穴が開いてしまって、塞ぐこともできずに暇を持て余していたのかもしれない。
「佳奈、今度の休みの日だけど何か用事あるの?」
「ううん、何もないよ」
その言葉を聞いたので、お店のお客さまへ配布する棚にあった一枚のチラシを持ち帰っていたので妻に見せた。
「え? スイーツ食べ放題! どこのお店だ……、ここだと電車で三〇分くらいかかるかな?……」
「美味しいしいのかはわからないけど、行ってみる?」
「私が行かないわけないでしょ! スイーツの食べ放題……、えっと、勝の休みって三日後か、それまで何も食べないでスイーツ食べ放題に備えようかな……」
「佳奈、今週は火水と連休だよ」
「おお! じゃあ二日後の火曜日がスイーツの食べ放題だな、ヨシ、いっぱい食べられる方法を考えて臨まなければ負けてしまうな、うん、この戦いには負けちゃいけないからね……」
「佳奈、大丈夫か?」
「〝おれは本気以外の戦い方知らねェよ!〟だからスイーツに本気で挑んでやる、待ってろよ、生クリームども、私がすべて制覇してやる!」
最後はいつもの妻に戻っていたが、いろいろと考えさせられた。
二日後の火曜日、梅雨空の下、妻とスイーツ食べ放題のお店にやってきた。
「今日は戦うぞ! 〝絶対に負けられない戦いがそこにはある〟!」
「佳奈、サッカーの日本代表になってるんだな」
「〝佳奈はスイーツを食べて生きてんのよ。せっかくのスイーツは、全部漏れなく食べ尽くしなさいよ!〟」
「それって式波アスカの言葉だった?」
「ピンポーン! 勝さん、正解です!」
開店の一時間前に来たのですが、僕たちの前にはかなりの人数が並んでいます。スイーツの食べ放題ですから女性が多いのですが、付き添いの男性もチラホラ。お店自体が大きかったので僕たちも開店に合わせて入店できましたが、スイーツが並ぶ棚からは最も遠い席に案内されて、座った時にはスイーツの棚にはかなりの行列ができています。
「勝、私は負けずに並んでくるよ!」
「うん、僕はパスタとかスープを取ってくるよ」
「勝、それはダメよ。こういうお店でお腹が膨らむものを食べちゃ負けなの。お店はね、単価の安い他の食べ物でお腹を膨らませてやる! 作戦に出ているのよ。ここは正攻法でケーキを食べなきゃ!」
そう言うと妻といっしょに僕も並ばされ、トレーに乗りきらないほどのケーキを並べた。
「佳奈、これ食べられるの?」
「食べれるわよ! 後でおかわりを取りに行かなきゃ!」
「僕はコーラでも飲んでおしまいにするよ」
「勝、ここでは炭酸飲料は絶対にNGよ。お腹が膨れて食べられなくなるんだよ」
結局妻は十数個のケーキを平らげ、僕は五個食べたところでギブアップ。
でも妻は本当に楽しそうにスイーツを食べていた。引越してからほとんど二人で遊びに行くこともなく、たまに外食には行くけどあくまで〝食事〟であって、今日のような楽しくというか遊び心ありで時間を過ごすことがめっきり減っている。マンションの主流派に振り回されている事実はあるけど、やっぱりたまの息抜きは必要です。
特に妻は日中は一人ですごすことが多いし、理事会などにも出ているからフラストレーションも当然溜まっているだろうから。
「佳奈、お腹いっぱいになった?」
「親方、ごっつあんです!」
「もうさすがに何もいらないだろ?」
「えっとねえ、お醤油のおせんべいが食べたい!」
「たしかこの近くに、昔ながらの手焼きのおせんべい屋さんがあったと思うけど……」
「ある! そこ行って買って帰ろう♪」
僕はお腹が破裂しそうなほどに膨らみ苦しいのに、僕の倍以上の量のケーキを食べた妻は、老舗で買った醬油せんべいを嬉しそうに頬張りながら電車に乗っていました。
「勝、ありがとう、気を使ってくれて」
「いや、ずっとかまってないしさ、ほんの少しだけの穴埋めさ」
「で、明日はどこへ連れて行ってくれるの?」
「ハハハ、どこへ行きたい?」
「えっとねえ……、アフタヌーンティーを体験してみたいんだ」
「いいよ、でも今日みたいにお腹いっぱいにはならないよ」
「帰りにお饅頭とかお団子を買って帰るの、これぞ和洋折衷の〝宝石箱やあ!〟」
僕は翌日も妻と一緒に出掛けた。




