エピローグ
朝儀にエル・ギリスを連れて行くのは、毎度のことながら冷や冷やものだった。とにかく終わったと、ジェレフはほっと肩の荷をおろした。
タンジールに戻ったのも束の間、また旅に出ることになった。
今度は領境を越えて南へ、スィグルの友である同盟の子供たちの一人が、竜の涙を患っているので、その診察をしてくるよう命じられたのだ。
そういったことは何も自分でなくとも構わないと思うが、どうやらスィグルのたっての願いのようだった。彼は詩人たちの詠う英雄譚を頭から信じるようなところがあり、ジェレフには癒せない病はないと思っている節がある。
買いかぶりなのだ。
むしろ魔法で救える者はごく一握りで、戦闘や事故による突発的な負傷であれば回復させることができても、長年患った病は手を施すだけ無駄なことが多かった。
ましてその病が竜の涙ともなると、そんなものが癒せるのなら、誰も苦労はしない。
しかし族長が行ってこいと命じるのだから、ジェレフに逆らう気はなかった。話には聞く、海というものを、命のあるうちに自分の目で見てみるのも悪くはない。
そう思うのは自分だけではないらしく、南行の旅には志願者が多かった。部族に使役される立場の自分たちが、自由に旅ができるのも、平和ならではの事だ。
玉座の間での礼装を、簡素な旅装に改めて、螺旋貫道に続く王宮の出口に、エル・ギリスが現れた。やっと来たかとジェレフはため息をついて、のんびり歩いてくる彼を迎えた。
「なにをやってたんだ。拝謁のあと、どれだけ時間がたったか分かっているのか」
呆れて尋ねると、ギリスは色の薄い目で、不思議そうにこちらを見つめてきた。
「いいじゃん、急ぐ旅でもないんだし。聖堂で旅の無事を祈ってたんだよ。ジェレフの無事もいちおう祈ってやったから」
「それは助かったよ」
笑いながら皮肉を言ってやったが、ギリスは真顔で、どういたしましてと答えた。
つくづく変わり者だった。
彼が片耳に付けている紫の石の耳飾りに、ジェレフは目を留めた。旅装で身につけるには、その礼装用の耳飾りは少々大げさに見えたが、ギリスはそんなことに頓着しないのだろう。後見人だったエル・イェズラムから譲り受けた形見の品として、いつも同じ物を耳に飾っている。
エル・イェズラムはこのギリスを気に入っていたようだったが、いったいどこが目にかなったのか、ジェレフには良く分からなかった。戦場での働きぶりを、単純に好まれたのかもしれないが、宮廷にいるときのギリスは、誰も兄役を引き受けたがらないような厄介者だった。あらゆる者が敬遠して突っぱねるので、結局、最長老の一人であるエル・イェズラムのところまでお鉢が回っていった次第だった。
ところ構わず魔法を使うし、悪戯をするしで、ギリスは仲間を困らせたが、実際のところ皆が彼を敬遠したのは、彼が石による病苦と縁遠いせいだった。戦場から帰還すると、竜の涙たちは多かれ少なかれ、成長した石に苦しめられ、しばらくは痛みと麻薬の煙に包まれて鬱々とした日を過ごすことになる。そのとき自分たちの部屋に、ギリスが現れると、ただでさえ痛いものが余計につらく感じられるのだ。
ギリスは変わり者だが、彼自身には仲間から遠ざけられるほどの罪はなかった。ただの悪戯者であれば、おそらくこの、少々足りないような気配のする少年は、皆に親しまれただろう。
笑った顔がいいと、エル・イェズラムは誉めていた。確かにそうで、ギリスはまだ石の痛みを知らない幼いものたちには、いっしょに遊んでくれる兄貴分として愛されているようだった。
「俺がいなくて大丈夫かな?」
王宮のほうを振り返って、ギリスが珍しく心配げな顔をした。ジェレフは彼が、自分の小さな取り巻きたちのことを案じているのかと思った。ギリスが戦でない理由でタンジールを離れるのは、これが初めてで、ギリスはどことなく落ち着かないようだった。
「ジェレフ、俺やっぱり行くの止そうかな」
「なにを今さら言っているんだ。自分で志願したんだろ。族長に出立の挨拶をしたからには、もう取りやめは無しだ」
ギリスは玉座の前でも渋々と挨拶をし、ジェレフの肝を冷えさせた。
仮にも大勢の中から志願を聞き入れられて、族長から王都を留守にする許可をもらっているというのに、さっさと行って早く帰りたいですとは、とんでもない挨拶だった。
癇質の族長の機嫌をそこねるのではと、ジェレフは気を揉んだが、リューズ・スィノニムはギリスに苦笑して、では走って行ってこいと言った。家臣への言葉には修辞をこらす族長にしては、やけに素朴な物言いだった。族長でさえ、ギリスには込み入った話をする気になれないということなのか。
その返答にダロワージは笑ったが、ギリスは大真面目に頷いていた。
「俺、あいつも一緒に行くんだと思って志願したんだもん」
恨めしげに、ギリスが言った。
「あいつって誰のことだ」
「人食いスィグルだよ」
断言するギリスを、ジェレフは僅かの間、呆気にとられて見下ろした。
「その呼び方はよせ。皆が知っている話じゃない。どうしてスィグルが来ると思ったんだ」
「だってあいつの友達のところに行くんだろ。どうして本人が来ないなんて思うんだ」
「王族はタンジールを出られないんだ」
誰でも知っている当たり前の話を、ジェレフはギリスに教えてやった。王族は特別な理由がなければ、王宮を出ることさえ奨励されていなかった。タンジール市内であればまだしも、お忍びで遊び回る者もいるようだが、尖塔の辺りまで行くとなると、王宮からこんな遠くまで来てしまったと思うのが王族の感情だろう。
「志願したら選ばれたしって話したら、へえって言うから、あいつまた照れてんのかと思ってた」
ぶつぶつと拗ねたように、ギリスは話している。
ジェレフは煙管を吸いたくなった。
「お前、なんの話をしているんだ」
「俺たちどれくらい向こうに行ってるんだろう」
「行って戻って、滞在期間も考えれば、早くて三月ぐらいだろう」
ギリスが急いているのを知っていたので、ジェレフは最短と思われる期間を教えたが、実際にはもっとかかるのではないかと思われた。
「三月! 三月って何時間だよ」
計算しているらしいギリスの横顔を眺めながら、ジェレフは自分の口元を覆った。ギリスの奇行は今に始まったことではなく、彼が話していることの意味がわからなくても、気にかける者はあまりいなかった。
ジェレフは、石の痛みを全く感じないというギリスが、案外ひどく石に冒されているのではないかと、時折ふと心配になった。あまりにも常軌を逸しているように見えることが多かったからだ。
しかし、透視者に診察させてみても、ギリスの石はさほど大きくなっていないのだった。痛みがないだけでも幸運だが、ギリスはどうやら、無駄に魔法を使う割には石の成長が遅いほうらしかった。
そういえば近頃は、暇に任せてあちこち凍らせたりしなくなっている。ギリスもギリスなりに自重することを憶えたのだと思っていた。
「ジェレフ、タンジールを出るときには、弟とは絶対に別れないといけないもんなのか」
「……いや、別にそういう決まりはないが」
「じゃあ俺はやだな。志願なんかしなきゃよかったよ。あいつもせめて、行かないでとか何とか言えないのか。そしたらいくら俺だって気がついたのに!」
ギリスが嘆くのを、ジェレフは初めて見た。血みどろの戦場で、自分の腕が吹っ飛んでも、ぽかんとしているような奴なのに。
「人食いスィグルね……」
苦笑して、ジェレフは帯から煙管を取りだそうとした。痛みはなかったが、なにかに逃避したい気分がした。それもどうかと躊躇って、何も詰めない銀の煙管を弄んでいると、王宮のほうから蹄の音がした。
朝儀に列席したままの格好らしい、正装の出で立ちで、スィグルが黒い馬にまたがっていた。
「スィグル」
嬉しげに名を呼んで、ギリスは子供のような、底抜けに明るい満面の笑みを浮かべた。
それに眉をひそめたらしい顔で、スィグルはこちらに馬首を向け、鞍から降りもせずに、馬上から見下ろしてきた。
「今日の朝儀はやたら長かった。もういないかと思ったけど、いちおう見送りに来たよ」
「なんでお前は行かないの」
先程まで苦悩していた話を、ギリスはいきなりぶつけている。
「どうして僕が行くんだよ」
「行かないならどうしてジェレフの南行の話なんか俺にするんだよ。二千百六十時間もあるんだぞ」
「三月で戻れるつもりなのかい。そんなわけないだろ。ついでの仕事が山ほどあるはずだ」
泣き言を冷たく蹴られて、ギリスは鉄槌で頭を殴られたような顔をした。もしも痛いという感覚がギリスにもあるとしたら、間違いなく、それは痛いという顔だった。
「ジェレフ、イルスをよろしく。大事な友達なんだ」
馬上からだが、スィグルが珍しく殊勝に頭を下げたので、ジェレフは答礼しておいた。スィグルがねだるのではなく、自分にものを頼むのは、これが初めてではないかと思えた。
「そいつと俺とどっちが大事なんだ」
銀の鐙にかけられたスィグルの絹の靴に、ギリスは縋って尋ねている。
「イルスだよ」
顎をあげて、スィグルはきっぱりと答えた。
「俺そんな奴に会いたくないよ……」
「会えるわけないだろ。お前みたいなのが顔を出したら、イルスも腰抜かすよ」
「ひどすぎる」
横で聞いていても、それは確かにひどすぎた。ギリスのように鈍い者でやっと、その蔑むような視線の痛みに耐えられるのではないか。ジェレフは苦笑しながら眺め、内心、震え上がった。
「俺、行きたくない。お前とタンジールにいたい」
「ギリスもこの際、外交を学んだほうがいいよ。今のままじゃあまりにも役立たずだから」
突き放すように諭してから、スィグルは彼の足に縋り付いているギリスの頭に屈み、そのてっぺんあたりに口付けをした。
「走って帰っておいで」
スィグルが囁く声は、玉座から聞こえる声に似て、糖蜜のように甘かった。さすがはダロワージの両翼に座る者というべきか。ジェレフは感心して、顔をあげたスィグルと見つめ合った。
こちらに気付くと、金色の眼で、スィグルはどこか気まずそうに苦笑した。
「あと二千百五十九回は……」
「それは帰ってからな」
追いすがろうとするギリスを、邪険に押し返して、スィグルは手綱を繰った。彼の愛馬は忠実に、馬首を王宮の方角へと向けた。
「僕は帰るから。せいぜい気をつけて行ってきて」
そっけなく言い、スィグルは馬に鞭をくれた。
全速力で遠ざかっていく姿を、ギリスは見ているこっちまで情けなくなるような哀れな背中をして見送っている。
「ジェレフ……」
掠れた声で、ギリスは振り返りもせずに呆然と問いかけてきた。
「あいつ照れてるんだよな」
同意を求める声に、答えてやりたかったが、ジェレフはとっさに煙管をくわえて、笑いを噛み殺した。
「お前は、冷たいのが好きなんだろ。幸せだな、ヴァン・ギリス」
皮肉をこめて、ジェレフはギリスを励ました。
その言葉にゆっくりと振り向き、ギリスはため息をついた。
「うん。俺、すごく幸せ」
ごちそうさま、と答え、ジェレフはギリスの尻を叩いて出立を急かした。
海辺までの道のりは遠く、走っていっても何日もかかりそうだった。
【完】