二○一号室の住人、岩壁美千代
美千代はまた時計を見たが、前に見たときから五分も経っていなかった。零時が待ち遠しくて堪らない。焦らすようにゆっくり、チッ、チッ、と時を刻む秒針がもどかしかった。
初日には何の変化もなかった勇輝の素だが、二日目に二○二号室を訪れたときには、少し形が変わっていた。繭のような楕円球だったのが、頭と思しき部分があって、こけしのような形になっていたのだ。三日目には頭とは反対側が枝分かれして、脚ができていた。四日目には両腕ができたが、この頃から嫌な臭いを感じるようになった。
「蘇る過程で生じる臭いです。蘇ってしまえば消えるので、我慢してください」
佐多はそう言ったが、本当に不快な臭いだ。
日に日に青みが引いていた勇輝の素は、五日目にはもうほとんど人間の肌の色に近くなっていた。六日目には、頭部の中心に突起ができていた。鼻だろうそれに触れてみたが、粘土みたいな詰まった質感で、ひんやりとしていた。相変わらず、嫌な臭いはした。
頭部があって、胴体があって、両腕と両脚があって、人間らしい形になると、固い床に横たえておくのが可哀想に思えて、佐多に奥の部屋のベッドに運びたいと伝えたが、途中で動かすと失敗すると言われ、ベッドに移すのは諦めた。
ようやく零時が近づき、美千代は自室を出た。空には上弦の月があった。あと七日で満月になる。あと一週間の辛抱だ。勇輝がこの世に帰ってきたら、まずなんて声を掛けようか、そんなことを考えた。
二○二号室のドアを開けると、やはり佐多は先にいた。勇輝の素に近づき、覆っている布を剥いで、前日との違いを探した。両手の指が五本になっていた。
佐多から針を受け取り、指に刺そうとしたとき、不意にドアベルが鳴った。続けて、激しくガンガンとノックする音が聞こえた。
「岩壁さん、砂川です。大丈夫ですか?」
砂川は一○一号室の住人だ。頭髪が薄く、見てくれはお世辞にもいいとは言えないが、いつもにこやかで感じのいい中年だ。
「岩壁さん、いるんですよね? 開けてください!」
佐多のほうを振り返ると、佐多は唇に人差し指を当てていた。
なぜ砂川は空き部屋である二○二号室に美千代がいることを知っているのだろう。入室するときに見られてしまったのかもしれない。初日、佐多に勇輝の素は「誰にも見られないようにしないといけない。見られると必ず邪魔が入りますから」と言われていたことを今頃になって美千代は思い出した。裏野ハイツの二階には美千代と佐多しか住んでいない。一階の住人が階段を上ってくることはまずないため油断していたのだ。だから美千代は施錠しなかった。
慌てて、美千代は勇輝の素に布をかぶせた。砂川がドアを開けたときに、砂川の目と人工の光が勇輝の素に触れないようにするためだ。
砂川はノックを続けている。
「この臭い、なんなんですか? 大丈夫なんですか?」
蘇る過程で生じる臭いだ。だがそれを砂川に説明するわけにはいかない。佐多は依然として唇に人差し指を当てている。黙っていればやりすごせるのか。そんな気はまったくしなかった。
二○二号室にいるのは、いつも二、三分だ。血を垂らし終えたら、速やかに美千代の部屋に戻る。日に日に形が整っていく勇輝を見て、二○二号室で暮らしたい衝動が高まっていったが、長居しないほうがいいという佐多の忠告に従った。生き返ってしまえば、勇輝とはいくらでも一緒にいられるのだと自分に言い聞かせた。
そのたった二、三分の間にやってきた砂川を心底憎く思ったし、月を眺めてから入るような入室を目撃される可能性が高まるようなことをやってしまった自分自身の不注意を嘆いた。
「あれ、開いてるのか」
砂川がドアに鍵がかかっていないことに気づいた。
「開けますよ」
少し開いたドアの隙間から外光が射し込む。
「待って! 開けないで!」
慌てて叫んだ美千代の言葉を砂川は聞き遂げてくれた。
ドアはほんの少し開いた状態で止まっている。
「大丈夫。大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないでしょう。酷い臭いですよ」
砂川の声が鼻声に聞こえるのは、鼻を摘んでいるからだろう。
「本当に大丈夫だから、そのまま帰って」
本当はまったく大丈夫ではない。砂川は勇輝の蘇生を妨げようとしていることを知らない。「勇輝を殺す気ですか!」と砂川を怒鳴りつけたい。だがそうすると佐多が言うように、砂川は余計に邪魔をしてくるのだろう。
「開けますよ!」
ドアの隙間が広くなる。漏れ入る外光が大きくなっていく。
もうダメだと思った。そう思ったら、咄嗟に身体が動いた。玄関脇のキッチンに立てかけてあった包丁を手に取って、玄関へ飛ぶ。膝はまったく痛まない。
ドアが開ききった瞬間に包丁を突き出した。
砂川が「え?」と漏らした。
構わず、美千代は包丁を手放し、砂川を突き飛ばした。ドアを閉め、施錠する。
振り返って、勇輝の名を呼んだ。外光を浴びた目には暗闇が映る。また勇輝と呼んで、這い寄った。
少しずつ目が暗闇に慣れていく。
美千代はぎょっとした。人工の光を遮るための布で、勇輝の脚を覆いきれていない。美千代は慌てて布を剥ぎとった。
勇輝にはついさっきまでなかった髪の毛があった。瞼があった。耳があった。口があった。けれど、勇輝は朽ちてしまっていた。
「佐多さん。どうしたら? どうしたらいいの?」
美千代は佐多にすがったが、佐多は首を横に振るだけだった。
「もう一度、もう一度新月の日からやり直せば」
「残念ながら無理なんですよ。人が死ねるのは二度までなんです」
佐多は丁寧に説明してくれていたが、美千代の耳にはほとんど入ってこなかった。もはや手放した風船と同じらしい。空へ昇っていくのを見守るしかない。つまりもう勇輝は帰ってこないということだ。
今度は一人では死なせない。
美千代はよろよろと立ち上がって、玄関へと向かった。三和土に落ちている包丁を拾う。そして勇輝の横に座った。
「ごめんね。おばあちゃん、また守ってあげられなかった」
刃を自身のほうへ向けて、包丁を握り直した。
三度、深呼吸をして、息を止めた瞬間、美千代は勢いよく包丁を自らの喉元へ突き立てた。
勇輝に覆いかぶさるように倒れた瞬間、勇輝が「おばあちゃん、ありがとう」と囁いた。